第40話 その4「天羽導華は止まらない」

 少女の身体に乗り移ったアスモデウスは手を握り、その感触を確かめる。探るように体の部分を動かして、悪魔は嬉しそうに笑う。


「こんなに馴染む体は初めてだなぁ。なぁ? もしかしてこいつ、天使も普通に許容出来んじゃないか? いい『器』を手に入れたなぁ」


「アスモデウス! 華歩から出て行け!」


 感心しながら華歩の身体を動かすアスモデウスに、司は声を上げるが、


「ヒャハハハハ! やだね! ヤダヤダ! あり得ないね! こんなにいい『器』を手放すわけないじゃないか!」


 アスモデウスははしゃぐ子供のようにクルクルと楽しそうに身体を回す。


「悪魔が……!」


 司の呟きの最中も、アスモデウスは奇妙な動きを続けていたが、突然何かに気づいたようにピタッと動きを止め、顎に手を当て、考え事をするように遠くを見つめる。。


「それにしても、ここまでの『器』の命が削れてなくなっちゃうのは勿体無いなぁ。普通に使ったら壊れちゃうよなぁ。なぁー? でも、いっか。お前たちを殺せれば」


 まるで地面に落ちたゴミを無視するかのように、当たり前に、アスモデウスは華歩の命を消耗品だと言った。


 その言葉に、憤りを隠せない天使が一人。震えるほどに握り締めるその拳からは、血が滲み始めていた。


「…………黙れ」


 静かに怒りを燃やす天使を見て、アスモデウスは愉快そうに、


「ヒャハハハハ! 悔しいかい!? 悔しいだろう!? 悔しいはずさ! こんなに情けなくこいつを奪われて――」


「黙れと、言っておるじゃろうが!!」


 針で刺されたかのような感覚が、アスモデウスの身体に駆け巡った。


「――ッ!」


 導華が放った言葉が持つ異常なほどの覇気に、殺意に、アスモデウスは恐縮した。


 その感覚は司にも伝わっていて、


「導華、さん?」


「すまない。司。ワシの甘さじゃ。なんとも、ワシは無能な天使よ」


 華歩をアスモデウスの手に渡してしまった後悔に、導華は卑下する。しかし、その気持ちは司も同じである。悔しさが、司の胸に込み上げてくる。


「いえ。俺だって、華歩を止めれませんでしたから」


 落ち込む司の横で、導華は顔を上げる。そして、大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせ、口を開く。


「今は、華歩を助けることだけ。それだけじゃ」


「でも、どうしますか。さっきだって、ギリギリだったのに」


 つい数分前に、アスモデウスの盾を壊すことに成功したが、それは導華との連携と全力の攻撃があったからこその成功。


 あのアスモデウスの様子からして、華歩は恐らく天使や悪魔への適性が高い。ならば、アスモデウスの盾はさらに強固なものになっているはずである。


 何よりも難しいのが、華歩の身体に傷をつけずに救出すること。盾を破壊したとしても、そこまで上手く力を調整できるかどうか。


 悩む司の横で、導華が一つの策を提案する。


「ワシが、『契約』を上書きする」


「そんなこと、出来るんですか?」


「うむ。華歩の心へ入り込み、『契約』を上書きしてアスモデウスを追い出す。これが、ワシに出来る最善の手じゃ」


 導華の説得力のある言葉に司は納得したが、司の中にいる天使は不安そうに声を上げる。


『でも、お姉ちゃん! 強制とはいえ悪魔化した人の心の中に入るなんて……』


 導華がやろうとしていることは、二人乗りの乗り物に、三人目として乗ろうとするのと同じこと。単純に華歩の精神に入ろうとしても、アスモデウスが侵入している今、導華が入る余裕はどこにもないはずである。だが、


「大丈夫じゃ。目印なら、入り口なら、あそこにある」


 そう言って導華が見つめる先は、華歩の首元で素朴に輝く、小さな装飾品。


『お姉ちゃんの、ペンダント……!』


「まさか、あそこから……!?」


 導華はゆっくりと頷き、その意思を示す。


「こんな形でペンダントを使うことになるとは、予想出来んかったがの。ワシの力が籠ってるあれからなら、入り込める」


 導華のペンダントを媒介として、自分が華歩の中に入り、同時にアスモデウスを追いだす。これが導華の考えた、最善の手。


 導華の真剣な目を見て、その言葉を信じた司は、そのペンダントに辿り着くまでの道を考える。


「なら、まずはあの盾をどうにかしないとですね」


「片穂よ。大剣は、使えるか?」


 片穂の大剣は盾を壊すために一番有効である最大の攻撃だが、今の片穂には力の残量が足りなすぎる。


『ごめん、お姉ちゃん。大剣を使えるほど、もう力が残ってなくて……』


「半分の威力でもいいんじゃ。あの盾にヒビを入れてくれ。頼む」


 無理を承知で、導華は頭を下げた。天界でも位の高いエリート天使が懇願する姿に、司は少しの戸惑いを見せた。


「導華さん……」


『……わかった。でも、一回使ったら司さんが……、いや、私すら天使化をしてる余裕さえない。それでも、大丈夫?』


 今の片穂が大剣を使うことは、それ以降の戦闘に参加できないことと同義である。もし失敗でもしたら、導華一人で闘う上に、力の尽きた司と片穂を庇う必要まである。


 しかし、そのリスクを当然導華は理解している。


「充分じゃ。その後は、ワシがなんとかする」


 それでも、導華は自信を持って言い張る。これ以上は引かないと感じた片穂は、諦めて司に問いかける。


『……司さん。いけますか?』


 高いリスクを知っていても、佐種司は躊躇わない。信用よりも強固な何かが、導華の成功を司に確信させていたからだ。


「勿論だ! 導華さん。任せてください。華歩への道は、俺たちが作ります」


「……恩にきる」


「もう、お話はいいかな? 天使さん。今も、この子の命は削れてるよ?」


 司たちの会話に割り込んでくるのは、少女のような、悪魔の声。


「待っておれ、華歩。ワシが、助けに行く」


 悪魔を一心に見つめる導華の真剣な表情が、アスモデウスの殺意をさらに湧き上げる。


「ヒャハハハハ! じゃあ、早速殺してあげるよぉ! ――【蛇陰じゃいん闇槍あんそう】!」


 アスモデウスが高々と大きく手を広げると、今まで以上に大量の槍が、悪魔の周りに出現した。


 一見絶望的に見える状況でも、天使たちは動じない。


「片穂よ。力を練り込む時間は、大丈夫か?」


『うん。前よりも量がかなり少ないから、もう準備出来てるよ』


 前回、アザゼルと戦った時に所要した時間は約二分。あの時よりも力が足りない今、力を練り上げるのには一分もかからない。

 

「……そうか。任せたぞ。司、片穂」


「はい。任されました」


『任せて。お姉ちゃん』


 司は一歩ずつ前へと進み、悪魔へと剣先を向けて、


「いくぞ、アスモデウス」


「何をやったって無駄だ! 槍をどうにか出来たところで、盾は壊せないさ!」


 笑いながらアスモデウスが手を振ると、夥しい数の槍が司へと襲いかかる。しかし、今度の司は、動かない。回避をせずに、その場に堂々と立つ。


 そして、ただ意識を集中させてゆっくりと黄金の剣を頭上に掲げる。目前にまで迫る脅威全てを、力でねじ伏せる為に。


「【灮焔こうえん大剣たいけん】」


 ポツリと司が呟くと、輝く剣が瞬く間にその姿を変え、巨大な光となり、大剣となる。近くでは剣と認識できぬ程に巨大化したそれを、アスモデウスは見上げる。


「なるほど。これがアザゼルの腕を落としたとかいう技か。でも、こんなものか! これじゃあ、僕は倒せないぞ!」


 司が振り上げた剣は、ビル一つ分ほどの大きさである巨大な剣であることには変わりないが、その剣はアザゼルと戦った時に比べ半分以下の大きさになっていた。


 しかし、それでも司と片穂は、力を振り絞り攻撃を放つ。


 大切な友達を、助ける為に。


「待ってろ華歩! 今、助けてやるからな!」


『これが、今の私の最大級です!』


 覇気を込めた声を上げ、天使はその剣を振り下ろす。


「『くらえぇえええ!!!』」


 司の振るう大剣が最初にぶつかるのは、自分へと向かってきている、無数の闇槍。


 しかし、それらは大剣に衝突した瞬間に、跡形もなく消え去る。一振りが終わる前に、全ての槍が消滅し、残るものは闇でできた鉄壁の盾。


 そして、光の剣と闇の盾がぶつかり、闇と光が火花のように散り始める。


 堅固な盾に阻まれて剣の動きが止まるが、司は剣を握る手にさらに力を入れ、盾に対抗する。だがそれでも、盾は壊れない。


「そんなものか! 天使さんよぉ!」


「まだまだァ!!」


 さらに気合を入れた司は、自分の持てる全ての力を大剣に注ぎ込む。飛び散る闇と光の勢いはより一層増し、双方に大量のダメージが蓄積されていく。そして、最初に悲鳴を上げたのは、漆黒の盾。


「なにッ!?」


 アスモデウスの盾に、今までの戦いで一番の亀裂が入る。あとひと押し、それだけでアスモデウスの盾は壊れるはずだ。


 しかし、その一歩は余りにも遠かった。


「くそ……っ!」


 ガス欠、という言葉が今の状況に相応しいだろう。あと少しの所で、司の持つ剣が消散し、翼すらも消えていく。徐々に自分の体が人間へと変わっていき、力が、光が司から離れていく。そして、完全に人間の体に戻った司から溢れ出した光は一人の天使を形作る。


 人間となり、途端に体の力が抜け落ちていく司の体を、天使が優しく支える。


「片穂……」


「お疲れ様です。司さん」


「ヒャハハハハ!! ここまでか! 惜しかったなぁ。なぁ!? よくやったさ! 僕の、この【蛇陰じゃいん巨壁きょへき】にここまでのヒビを入れたのは君が初めてだよ!」


 片穂に支えられながらも、自分の役目を果たした司は、そっと後ろを振り返る。そして、残り全ての運命を小さな天使へと託そうと、司と片穂は口を開く。


「後は、任せました。導華さん」


「頑張って。お姉ちゃん」


「十二分じゃ。ありがとう。司、片穂」


 遠く後ろからでもわかるぐらいにニカッと笑った導華は身を屈め、全身に力を入れる。


「どうした! そんなところで! また弓でも使って――」


「――【颶風ぐふう天翔あまがけ】」


 アスモデウスの声を、暴風のような何かが遮断した。


 本来は活性化によって限界を超え、体に蓄積されるダメージを、常に回復し続け戦うのが導華の攻撃。しかし、この攻撃には、回復という思考は存在しない。活性化一つのみ全ての力を注いだ、切れ味鋭い諸刃の剣。


 それ故、活性化によって起こる衝撃は、そのまま全て導華のダメージともなる。


 導華の全てを懸けた拳が、アスモデウスの盾を攻撃するが、亀裂が入っているまま、まだ盾が壊れることはない。


 盾には司がつけた亀裂のみ。導華によって何かが変わった訳ではない。しかし、アスモデウスは信じられないという表情で目を見開く。


「おいおい。冗談だろ!? そんな攻撃、見たことねぇぞ!?」


 アザゼルと戦った時と同様に、導華の腕は一度盾を殴りつけただけで腕の内側から弾けるように血が吹き出している。勢いをつけるために地を蹴った足も軋んでおり、一瞬で導華に大量のダメージが蓄積される。


 その無謀とも思える特攻に、アスモデウスは理解が出来ない。


「気にすることはない。お前を倒すまでの、少しの辛抱じゃ」


 痛みを噛み殺しながら、導華は盾を殴り続ける。自らの腕の限界を超えたまま、何度も、何度も。


「馬鹿じゃないのか!? 何がお前をそこまで……!」


「約束したんじゃ。助けが必要な時は、いつでも駆けつけると! ワシは……天使は、死んでも約束は破らん!」


 助けると、誓った。どこへでも駆けつけると、約束した。天使は、自分の発言に決して嘘はつかない。


 天使にとっての約束が、契約が、どれだけ重要なものかを分かっている司と片穂は、導華を止められない。その背中を、見守ることしかできない。


「お姉ちゃん……!」


 どうにか助けられないかと進もうとした片穂だが、ほんの一歩進んだだけで途端に体から光が溢れ、人間へと姿が変わる。


 急激な身体の低次元化でよろけた片穂の体を、今度は司が支える。


「片穂。もう限界だ」


「お姉ちゃんッ……! お姉ちゃん!」


 ただ声をかける事しか出来ない自分を悔やみながら、片穂は導華を見つめる。


 小さな背中に司と片穂の気持ちを背負った導華は、自らを鼓舞するように声を上げる。


「ワシは、天使カトエル! この名に懸けて、華歩を救い出す! たとえ、悪魔の元からであろうとな!」


 導華が盾を殴る度に、司の所まで凄まじい打撃の衝撃が響く。そんな攻撃を続ける導華の拳は弾けたように血で染まり、盾にも血がこびりつく。


「グチグチうるせぇ! 気色悪りぃんだよ! 消えろ!」


 憤るアスモデウスは数本の槍を出現させ、導華へと急落下させた。


 そして、闇で形作られた漆黒の槍は、小さな天使を無慈悲に突き刺した。


「お姉ちゃん!」


 もうすでに、導華に槍を避けるほどの力など残っていない。状況を立て直す余裕も、猶予もない。


 突き刺された傷口からは、真紅の鮮血が流れ出し、導華の腕だけでなく身体までもを赤く染め上げる。


「ヒャハハハハ! 無防備に殴り続けるのを黙って見てる馬鹿がどこにいるんだってんだよ!」


 身体中から血を流す天使を見て、アスモデウスは嘲笑したが、盾の向こうの天使の命は、闘志は、魂は、なおも業火のように燃え上がる。


「ワシを……誰だと思っておる」


「あ゛?」


「この天使カトエルを、天羽導華を、槍の一本や二本で止められるなよ! 小童が!」


 天羽導華は、止まらない。


 奮い上がる天使の魂は、それでも盾へと拳を向ける。


 痛い。殴ろうと振りかぶるだけで、体を少し捻るだけで、拳を握るだけで、踏み込んだ足に力を入れるだけで、全身が痛い。


 それでも、天羽導華は止まらない。


 ただひたすらに痛みを噛み殺し、殴り続け、殴り続け、そして現れる、希望への入り口。


「嘘だろ!? 僕の【蛇陰じゃいん巨壁きょへき】が!?」


 司によって生まれた亀裂はどんどんと拡大し、全体へと渡る。そして、激痛の走る拳を強く握りしめ、ダメ押しの一撃を盾へと放つ。


「これぐらいの壁、ワシに壊せんわけがなかろうが!」


 美しいと感じるほどに、アスモデウスを覆う盾がガラスのように砕け散った。パラパラと舞う盾の破片は、まるで導華を祝福しているようで。


「導華さん!」


「お姉ちゃん!」


 二人の感嘆の声を背に、導華は足を進める。大切な友人を助けるために。己の誓いを、果たすために。


「や、やめろォ! 来るなァ!」


 ゆっくりと歩いているにも関わらず、その圧倒的な存在感に、アスモデウスは足が動かない。怯えながらジリジリと後ろへ下がるが、ほんの数歩の間に、天使が目の前に現れる。


 【颶風之天翔】を解除したのか、負ったダメージの半分ほどは回復している。しかし、流れたままの血は、天使の体を朱色に染めたままだった。そんなボロボロの体で、導華は優しい笑みを浮かべる。


 まるで、家族の帰りを迎える姉のように。


「待たせたな華歩よ。今、助けに来たぞ」


 梁池華歩アスモデウスの首に掛かるペンダントに導華が手をかけると、その体が淡く光りだし、天使の形が曖昧になっていく。そして、光となった天使はゆっくりとペンダントに吸収されていき、ペンダントを仲介として、導華の姿が少女の中へと消えていく。


 そのまま、天使は落ちていく。深い深い、闇に染まった、冷たい少女の心の中へと。

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