第33話 その7「大丈夫だから」
学校に着いてすぐに片穂は司のジャージを借りてそれに着替えると、濡れた制服を寂しそうに手に持ちながら司と共に教室へ入った。
二人が教室へと入ると、最初に声をかけてくる男は決まっている。司に気づいたその男は、昨日も会ったにも関わらず、いつものように口を開く。
「よお、司! 久しぶりだな!」
「だから昨日も会ってるじゃねぇか。何度言えば気がすむんだ、お前は」
「いいじゃねぇか。別によ」
少しだけふてくされた顔で文句を言う
「おはようございます!」
「おう! おはよう片穂ちゃん! ……ってなんで今日も司のジャージ着てんだよ!」
片穂の綺麗な笑顔を見て、英雄は嬉しそうに返事をするが、昨日に引き続いて片穂の着ているジャージに司の苗字が刺繍されているを見た英雄は司に向かって声を上げた。
「い、いや……不慮の事故でな。片穂の制服がこの通りなんだわ」
司は片穂が手に持つずぶ濡れの制服に目を移す。
「あー……。なるほどな。仕方ねぇか」
渋い顔をしながら状況を理解した英雄は、哀れな目を片穂の制服に向けながら納得したように頷いた。
そして、今日も定刻通りにホームルームのチャイムが学校の中に鳴り響く。
「あ、チャイムが鳴りましたよ! 司さん! 着席ですよ!」
チャイムの音を聞いた瞬間に、先ほどまでの寂しそうな表情とは一転して片穂はワクワクしながら自分の席に座り、笑顔で担任を待つ。
「じゃあ、出席取るぞー」
毎日繰り返される行為に担任は作業のように生徒たちの出欠を確認する。しかし、その出席を確認をする視界の中に、
「やっぱり、華歩は来ないのか」
「大丈夫、でしょうか」
司と片穂は心配そうに華歩の席を見つめる。昨日少しでも華歩の気が楽になってくれたのではないかと思っていたが、やはりずっと来ていなかった学校に再び足を運ぶほどまでではないのか。
それでも、ゆっくりでいい。心に空いた穴は簡単に埋まるものではないのだから。そして、焦ることはないというかのように、司は優しく片穂に言う。
「今は、落ち着くまで待ってあげよう」
「そう、ですね」
寂しそうな顔をして、片穂は少し俯いて考え込むように遠くを見る。そうしている間にも時間は過ぎていつの間にかホームルームも終わっており、間もなく授業開始のチャイムが鳴る。司と片穂は急いでバックを漁り、教科書を出した。
そして、教師たちが淡々と授業を行っていくが、司の視界に見える片穂は勉強の理解に苦しんでいるようで、戸惑いながら教科書を見つめ続けていた。
次の時間も、その次も、片穂の曇った表情は消えることなく、片穂はひたすらに教科書とにらめっこをしていた。
そんな片穂を見ている内に、放課後を知らせる最後の授業終了のチャイムがなり、号令に合わせて礼が終わった瞬間に、片穂が教科書を片手に司の元へ歩いてくる。
「司さん……。数学が何にもわかりません……。これは一体何の暗号ですか……?」
「あー。悪い、片穂。俺も数学苦手でよくわかんねぇんだわ」
残念ながら司も勉強が得意ではない。特別出来ない訳ではないのだが、数学はどうにも苦手で誰かに教えることは司には不可能である。
申し訳なさそうな顔をする司に気付いた英雄が覗き込むように二人の間に入ってくる。
「お? どうした?」
「英雄、ここら辺わかんねぇんだけど、お前わかるか?」
「いーや。全く分からん」
なぜか誇らしげに堂々と英雄は首を横に振った。
「……だよな」
どうしようもないと途方に暮れた司が諦めて教科書を閉じた時、教室の扉がゆっくりと開く。
下を向きながら、教室へと入ってくるその少女を見た瞬間に、教室にいる生徒全員が静まりかえってその少女を見つめる。
「……華歩…………?」
司が華歩の名を呼んだのを皮切りに、教室がざわざわと話し声で包まれる。
そして、司たちにも聞こえるような声で、様々な言葉がヒソヒソと呟かれる。
「家族全員死んだって」
「目の前で両親が殺されたらしい」
「警察が来た時にはもう全員死んでいたんだって」
誰が言ったのか、誰から聞いたのかは分からない。しかし、ほんの二週間で噂はかなり広がっていたようで、あることないことが教室に響いた。
そして、どこからともなく聞こえた一言が、華歩の傷口を掘り返すように、彼女の心の奥に深く突き刺さる。
――弟を、見殺しにしたらしいぞ。
「……ッ!」
何も言われても無反応だった華歩が、明らかな同様を見せる。
「み、皆さん。それは……」
戸惑いながらも片穂が生徒たちに声をかけようと少し立ち上がるが、それよりも先に英雄が立ち上がる。
「みんな。それはさすがに言い過ぎじゃ――」
英雄が生徒たちに声を掛けようとした時、司が勢い良く立ち上がった。
「おいっ! 言っていい事と悪い事があるだろうが! どれだけ華歩が辛い思いしてると思ってんだ! お前ら――」
司の張り上げた声は教室に響く言葉をピシャリと止めた。そして言葉を続けようとした時、司の言葉にさらに声が被せられた。
「大丈夫だから」
司の声を遮ったのは、華歩だった。
「……ぇ?」
突然の言葉に、司は言葉を詰まらせる。そして視線を移した先に立つ華歩は、徐に口を開く。
司が昨日、雨の中で華歩と出会ったときと、同じ笑顔を浮かべながら。
「私は、大丈夫だから。気にしないで、司くん」
「あ……」
今度は、司にも明瞭に感じ取れた。昨日、片穂が言った言葉の意味を、司は痛感した。
寂しそうな、苦しそうな、心の奥底に沈む冷たい何かを無理やり押し隠したような、そんな笑顔。昨日、華歩の家で見せた笑顔は、心から笑っていたのだと思う。しかし、それで全てが解決するほど、人の心は単純ではない。
司には、華歩にかける言葉が思い当たらない。何を言ってあげればいいのか。分からない。そして、ただ頭に浮かんだ言葉を、司は小さく口にする。
「ごめん……な」
司がそう言うと、静まり返っていた教室に再び話し声が聞こえ始める。さすがに同じような言葉を発するものはいない。
教室の雰囲気がいつも通りになった所で、静かに華歩は司の元へと歩いてくる。
「今日は、これを届けに来たの……。司くんのマンションまではわかったんだけど、どの部屋だか分からなくて……」
弱々しく話しながら、華歩は手に握りしめていた機械を司に渡した。
「俺の、スマホ……」
「昨日、私の家に置いて行っちゃったから」
「ありがと、な」
「うん。……あと」
司の礼に返事をした後に、付け加えるように華歩が続けた。
「どうした?」
華歩は一度司から目をそらしてから、一呼吸置いて再び司を見つめる。
「昨日、見たの」
「見たって、何を?」
「司くんが、何かと戦ってるところ」
教室では様々な声が聞こえていたが、その言葉だけは司の耳に異様なほどはっきりと聞こえた。
「……え?」
返事ができない司に、華歩は説明を加える。
「昨日、届けに行こうと思ったんだけど、急に大きな光が見えて、そこの中に歩いて行ったら……」
華歩は見たものをありのままに説明する。街の中で起こった、不思議な光景を。そして、その中心に、佐種司がいたことを。
「どうしたんですか? 司さん?」
「いや、華歩が昨日、何かと戦ってる俺たちを見たって……」
その言葉を聞いた瞬間に、片穂の顔が青ざめていく。嫌な汗を滲ませた片穂は、慌てながら声を出すが、
「し、知りませんよ! わ、私は天使とかでも何でもなくて、昨日は悪魔と戦ってたりなんかしてないですよ! 全部華歩さんの見間違いですよ! 司さんが天使化して戦うなんて普通の人には見えないですし、【縛魔之神域】内では天使の力が関わっていない限り無意識に外に出るはずですし!」
一呼吸で声を出せる限界まで片穂は言葉を出し続けた。その目は今もなお泳いでおり、まだ何かを話そうとしている。
「…………片穂……」
「……なんでしょう?」
「…………ばか」
「うぅ……」
悲しみに染まる表情を浮かべる片穂を見て、司は寂しげに溜息を吐き、華歩へと視線を移す。
「……華歩、詳しいことは後で色々話すから、今日もまた、華歩の家に行ってもいいかな?」
「あ……。うん」
華歩は静かに頷いた。
「なんだ二人でこそこそ話して。片穂ちゃんも急に訳わかんないこと叫び出すし、どうしたんだ?」
二人の間に入った英雄が不思議そうに問いかける。しかし、天使が絡んでしまっている以上、司たちは英雄に何も話すことは出来ない。
「悪りぃ。英雄には言えないだよ。ごめんな」
申し訳ないが、少し突き放すように司が冷たく英雄に返事をすると、英雄は寂しそうに司に近づく。
「なんだよケチくさいなぁ。教えろよー」
「近ぇよ! いつか話すからとにかく離れろっての!」
必要以上に体を寄せてくる英雄を司は引っぺがした。冗談であるのはわかっているが、別に嬉しくも何ともない司は躊躇い無く英雄と距離を取った。
引き剥がされた英雄は小さく笑いながら、
「はいはい。わかってるよ。でもいつか必ず教えろよ?」
「あぁ。いつかな」
優しく笑顔を浮かべながら、司は荷物を背負って英雄に手を振る。
「んじゃ。今日はもう帰るから。また明日な」
「おう。じゃあな」
司は振り返って片穂と華歩に視線を移す。
「行こうか」
「はい!」
返事をする片穂と、その横で頷く華歩と共に、司はもう一度華歩の家へと歩き出した。
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