第32話 その6「びしょびしょ」
「おはようございます。司さん。学校、遅刻しちゃいますよ?」
「……おはよ」
天使の声で、佐種司の一日が始まる。司は体を起こすが、寝起きの状態では思考が全く回っておらず、呆けた顔のまま片穂を見つめる。
情けなく口を開いてる司に、片穂は笑顔で返事をする。
「はい。おはようございます。朝ご飯、できてますよ」
「あさ、ごはん……?」
司は今が朝であることもよくわかっていない。自分が昨日、何をしていたのか記憶が曖昧で思い出せない。
昨日は、確か……。
司が思い出そうしている時に、片穂の後ろから料理を手に持つ導華が司の元へ歩き、口を開く。
「ほれ、昨日は倒れるように寝てしまったからの。しっかりと食べて力を蓄えておけ。またいつあの性根の腐った悪魔が攻めてくるかわからんからの」
肉が中心の料理をテーブルに置きながら、導華は昨日のことを振り返る。
司は昨日、悪魔アスモデウスと戦い、その後家に着いた後は、夕食も口にせず眠りに落ちたのだ。
司の人生での二回目の天使化。それはやはり異常なほどの疲労を司に与えた。前回は天使化を解除した瞬間に気を失ってしまったので、まだ家に自分の足で帰れただけましだが。
「そっか。俺、帰ってすぐ寝ちゃったのか」
「そうです! ですからたくさん食べてください!」
司が状況を思い出した瞬間に、片穂が詰め寄り料理を司へと押し付けるが、
「お前もさっさと回復せんかッ! この脳筋が! 大剣が使えんとあのちょこざいな壁も壊せんだろうに!」
回復が必要なのは、司よりもむしろ片穂のほうだった。片穂は疲労が溜まっているわけではないが、大技を使えるほど天使の力が回復しているわけでもない。
肝心要の片穂が自覚していないと思った導華は声を上げて片穂の頭を叩いた。
「痛いっ! 食べる! 食べるから!」
司から離れた片穂は、自分の頭を少し痛そうにさすりながら料理を食べ始める。
それを見て、司も朝食を口に運び始めるが、少し食べた後に導華へ向かって言う。
「それにしても、あのアスモデウスとかいう悪魔。どうやって倒しましょう」
もちろん導華も朝食を食べている途中だが、司が質問をすると音を立てないように箸を置き、腕を組んで考え始める。
「ふむ……。この前のアザゼルとは対極にいるような存在じゃからのぉ。まず強制契約で誰かが死んでしまう、なんてことは絶対に避けねばならんな」
アスモデウスの脅威は二つ。導華の援護付きの【灮焔之太刀】でも、破壊できなかった鉄壁の盾。そして、人間を『駒』として扱う『強制契約』。
問題は盾よりも、一般人にまで被害が出てしまうかもしれない『強制契約』にあった。
圧倒的な一撃の破壊力を誇る司と片穂には、悪魔化した人間を殺さずに気を失わせるような力の微調整が出来ないからだ。
「そうですね。それはまた導華さんに任せてしまうかもしれないですけど」
「元よりお前らに細かい作業など求めておらん。そちらはワシに任せろ」
「でも、片穂の力が回復しないと、大剣も使えませんし。それまでアスモデウスが待ってくれるはずもないですし」
すぐ来るわけではないにしろ、こちらが万全な状態になるまで待ってくれるほど、悪魔は甘くない。
それを理解している片穂は、申し訳なさそうに下を向く。
「そうですね……。不甲斐ないです」
「片穂よ。今はどれくらい回復しとるんじゃ」
「昨日も戦ったから、今は半分くらいかな。まだ、一週間ぐらいかかると思う」
アザゼルとの戦いから約一週間でも、片穂の力は回復していない。さらに、一週間もの間、あの悪魔が襲ってこないとはどうにも考えにくい。
「悪魔はそんなには待ってくれそうにないのぉ。ワシにも契約者がおれば、あの盾も壊せそうなんじゃが」
司は、言葉を区切りながら導華の言った言葉を繰り返して質問する。
「契約者、ですか?」
「うむ。ただ、やはり人間にも『器』といって適性がないと負荷がかかりすぎて体が持たんし、そもそも信頼関係がないと契約自体できん。今は、このままかのぉ」
悪魔の『強制契約』に人間が少しの時間しか耐えられないように、天使の力も人間が受け入れるには限度があるのだ。
元々天使と人間というものは存在そのものの次元が違う。それを無理やり身体に取り込み、人間を天使と同じ次元まで引き上げるのが、司の行なっていた天使化である。
「誰か、候補みたいな人はいるんですか?」
少し遠くを見て、静かに頷いてから、導華は口を開く。
「……ワシを許容できそうな『器』を持つものは、いることには、いる。じゃが……」
言葉に詰まる導華の代わりに、落ち着いた声で片穂が説明を始める。
「司さん。私たちは天使なんです。もしそういった人がいたとしても、関係のない人は巻き込むことはできません。天使として、人との関わりは出来る限りないほうがいいんです」
「じゃあ、なんで俺は……?」
片穂の説明に対して、司が当然の質問を投げかける。一般人を巻き込まないようにすると言っても、自分もつい先日まで片穂と出会っていたことを忘れていたごく普通の一般人だったのだから。
「片穂を体に取り込んで天使化できるやつなんて普通おらんわ。お前は例外じゃ。普通の人間が片穂を取り込もうとしたら一瞬で四肢が爆裂じゃ」
「そ、そんなにですか!?」
エリート天使、天羽導華をはるかに凌ぐ力の量を持つ天羽片穂のその全ての力を許容するのは、並大抵の『器』では不可能である。生身の体で、天使や悪魔に干渉出来るほどの適性を持つ司のような人間でない限りは。
その『器』の希少さを強調するように片穂は司に再び詰め寄る。
「そうなんですよ! 司さんは凄いんですよ!」
「まぁ、それならそれでいいんだけどさ」
二人が話す横で、朝食を食べて頬袋を作りながら導華は司に問いかける。
「今は、まず回復じゃ。次にアスモデウスが来る前に、できる限り回復せんとな」
「そうだね! 司さん! まずはたくさん食べてください!」
「あぁ……って、あれ?」
朝食を食べようとした司が、その手を止めて急に周りを見ながら何かを探し始めたので、片穂は不思議そうに首を傾げる。
「司さん? どうしました?」
司は何となく時間を確認するためにスマートフォンを手に取ろうとしたのだが、どこを見てもそれが見当たらなかったのだ。
「スマホがないんだ。片穂。どっかに落ちてないか?」
司の言葉を聞いて、片穂はテーブルの下を覗き込みながら片穂は口を開く。
「朝食の準備の時には見かけませんでしたし、テーブルの下にもありませんし……。わからないです」
「いつ失くしたか、思い出せるか?」
朝食を詰め込んだ口内から食事が出ないように器用に口を開いて司に問いかける。それを聞いて司は記憶を遡り、自分がスマートフォンを失くした場所を思い出す。少しだけ思考に時間を使ってから、司はその場所を閃く。
「えっと……あっ! 多分華歩の家だ。落としたとしたらそこしか……」
司が常にズボンのポケットにスマートフォンを入れている。それがどこかで落ちるとすれば座るか、何かしないとポケットから何かが零れ落ちるなど余りない。そして、昨日のんびりと腰を下ろしたのは自分の家と華歩の家のみ。
自宅に落ちていないのなら、残るは華歩の家しかない。
「じゃあ華歩さんに連絡を取りましょう!」
片穂は笑顔で司に提案するが、
「そうだな。まずは華歩に連絡を……ってそもそもその連絡手段がないんだって!」
「はうっ! そうでした……」
司のツッコミで根本的な問題をほんの数秒で完全に忘れていたことを自覚した片穂は、少し驚いてから申し訳なさそうな声を漏らした。
「ワシの鏡も一度機械に力を使って回線を繋がんと出来んからのぉ。直接取りに行くしかないようじゃの」
司はスマートフォンの代わりに壁に備え付けてある時計に目を移して、今の時刻を確認する。
「今はもう家を出ないと学校に間に合わないから、放課後に華歩の家にお邪魔しようかな」
「そうですね! 私も華歩さんともっとお話ししたいです!」
心を躍らせながら自分を見つめてくる片穂の目を見て、司は少し笑いながら返事をする。
「なら。迷惑にならない程度にお邪魔しようか」
「はい! でもまずは学校に行きましょう! 遅刻しちゃいますよ!」
そう言って片穂は勢いよく立ちあがるが、司の目の前の皿にはまだまだおかずと白米が残っていた。
「ま、待て! まだ食べ終わってないから!」
司が食事を掻きこむ姿を見て、片穂は思い出したように声を上げる。
「はっ! 私も食べてませんでした! 不覚です!」
自分もまだ朝食を完食していないことに気が付いた片穂は慌てて食事を食べ始めた。司がガツガツと米を掻き込む一方で、片穂も丁寧ながらも急いで箸を進める。
そして、ほんの五分ほどで司と片穂は全てを食べ終わり、忙しそうに着替えなどの準備を始める。
それを優しく見守りながら導華はテーブルの上の食器を重ね始める。
「片付けはやっておこう。お前らは早く行ってこい」
「いつもすいません。ありがとうございます。導華さん」
司の家の更衣室代わりとなっているバスルームから、着替えが終わった片穂が勢いよく扉を開けて出てくる。
「ありがとう! お姉ちゃん!」
そろそろ家を出ないと遅刻してしまうような時間なので、「うむ」と頷く導華に司は軽く頭を下げて外へ出る。
「まだ、雨か」
外には未だに雨が降っていた。日は登っているはずなのに、どことなく暗い天気が司たちを迎えていた。
「傘があれば雨なんてへっちゃらです! 司さん! 早く行きましょう!」
傘を差してすぐに走り出す片穂の後ろ姿を見て、司は嫌な予感を感じて声をかける。
「か、片穂! 気をつけろよ!」
「大丈夫です! もうあんな失態はありえません! なんて言ったって私は天使なんっ!」
話しながら片穂が何かに躓き体制を崩す。しかし、今回の天羽片穂は簡単には転ばない。
「っと、っと……! ほら! セーフですよ! 司さん! 何度もお姉ちゃんから貰った制服を汚すわけが――」
そう笑顔で話す片穂の横を、制限速度ギリギリで車が走り抜けていった。
案の定、その車が通過した水溜りから跳ねた水は、片穂に勢いよくかかってしまったわけで、
「大丈夫……?」
「びしょびしょ……です」
片穂の体には狙い澄ましたかのように水がかかっており、スカートや腕からはシャワーでも浴びてきたかのように水が滴っていた。
「びしょびしょ、だな」
何を言ったらいいのか分からず、とりあえず片穂の言葉を復唱した司だが、片穂は今にも溢れんばかりの涙を目に溜めて司に詰め寄る。
「どうしましょう司さん! このままだと制服がすぐボロボロになってしまいます! 雨嫌です! 私の制服が雨に一体何をしたっていうんですか!?」
遂には天気から因縁をつけられたとまで勘違いし始めた片穂は、濡れた制服を司に押し付けて心の声を張り上げる。
「やめろ、片穂! 俺の制服まで濡れちまう! 今日もジャージ貸すから! ちゃんと乾かせば大丈夫だから!」
司の言葉で少し落ち着いた片穂は、司から少し離れて寂しそうな顔で司を見つめる。
「うぅ……。司さん、早く学校行きましょう……」
「あ、あぁ」
傘を持つ手とは反対の手で司の袖を掴んで、片穂は重い足取りで学校まで歩き出した。
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