第11話 その6「いつも通りの」

「言ったぞ? それがどうかしたか?」


「天界に戻ったりはしないんですか?」


 元はと言えば片穂の下界研修の転送時に手違いが起こってしまったのが事の発端であり、天界に帰る手段の無くなった片穂のために司の家を使用しているのであって、当初の問題は導華が来たことで解決したはずと思っていた。


「最初は異常があるなら仕切り直してもいいと思っておったが今回は別じゃ。いつ悪魔が攻めてくるかもわからんのに悠長に構えていられるわけもあるまい。じゃから今回の事態が収まるまでは下界に留まろうと思ってるんじゃ。それに片穂の疲労もかなり溜まっておる。悪魔が来る前に出来る限り体を休めて力も回復させなけばな。いいじゃろ? 司よ」


「俺は別に構わないですけど…」


 司の了承を聞いた瞬間に、片穂は笑顔で司に詰め寄る。


「ありがとうございます! 司さん! まだ下界にきたばっかりで何も出来ていないから帰りたくなかったんですよ!」


「まぁ、導華さんに御馳走にもなったし、片穂に泊めてやるとも言ったからな」


「そうと決まれば片穂! 早速風呂じゃ!」


 元気よく立ちあがる導華に対して司は申し訳なさそうに、


「導華さん。申し訳ないんですけど、俺の家ってユニットバスっていって二人で入るには広さが足りないんですよ」


 司の家はワンルームマンションの一室であるので風呂場はユニットバスになっている。


 今まで一人暮らしだったので不便なことは何もなかったのだが、二人が一緒に入るとなるとかなり窮屈だろう。


「なんじゃそれは。よくわからんが二人で入れないのなら仕方ない。一人で入るとしよう」


 導華がするすると着物の帯を目の前で解き始めるので、司は慌てて、


「と、導華さん! 何急に脱ぎ始めてるんですか⁉︎」


 司の混乱を見て、導華は不思議そうに、


「なんじゃ、裸ぐらいで恥ずかしがっておるのかお主は。まぁそんな年頃なら仕方ないかのぉ。ワシはこっそりと向こうで脱ぐとしよう」


「は、はぁ……」


 導華は風呂へ歩いていくと、すぐに脱いだ着物をこちらに投げつけてくる。


「ワシの着替えを準備しておいてくれ! 頼んだぞ!」


 バタン! とドアを閉めると、すぐにシャワーの流れる音が聞こえ始める。


「凄い人だな。お前のお姉さんは」


「そうですね。いい意味でも、悪い意味でも、凄い姉ですよ」


 片穂の笑顔を見ながら、投げられた導華の着物を畳む。


「そういえば、導華さんってなんで着物なんだ?」


 司の手にあるのは足の丈が短くなった可愛らしくも古風な橙色の着物である。今の日本だと着物を普段着のように着る人は限られていると思っていたのだが。


「あれ? 言ってませんでしたっけ? お姉ちゃんってもう二百歳は越えてますよ?」


「……え? 二十歳じゃなくて?」


 きっと自分が聞き間違いをしてしまったと思い、司は訊き返す。


「たしかその着物も、えどばくふ……でしたっけ? それが日本を治めている時にしょーにん? っていう知り合いの方に無理言って作ってもらったと言ってましたよ?」


「マジかよ」


 驚くことすら出来なかった。現実味が無さ過ぎると驚くことすらできないようだ。


「それよりも導華さんの着替えを探さなくちゃ」


 畳んだ着物を床に置き、司が棚を漁り始めようとすると近くに自分のジャージが置いてあるのが見えた。


「そういえば、片穂はワンピースに着替えたんだな」


 家ではジャージだったのに、服がワンピースに変わっていたことに司はようやく気付いた。


 棚を探しながら司は片穂に話しかける。


「はい。悪魔との戦闘だったので汚れたらいけないと思ってワンピースに着替えてから行きました。天使化中に服が破れても直りますけど、もし人間の体の時に破れていたら力で直らないですからね」


「天使の力も万能ってわけじゃないんだな」


「そうですね。基本的に天使や悪魔の力は下界の物に物理的な干渉は出来ないようになっていますから」


「だからあんな激しい戦いをしても住宅街に傷一つつかないのか」


 司の疑問が一つ解消する。思い出してみると、初めて片穂の天使化を初めて見た公園も、さきほどの戦いがあった住宅街も、空中で戦ってた時間こそ長いがそれだけで周りの物が何も壊れないのは不思議に思っていたのだ。


 片穂は司の言葉に「はい」と返事をする。そんな話の最中も司は棚を漁って導華の着替えを探していたのだが、


「体育着しかねぇぞ」


 片穂に渡す着替えですらなかったのにどうして導華の着替えが準備出来るなんてことがあるだろうか。棚から出てきたのは片穂に貸したジャージ同様に司が高校で使用している『佐種』の刺繍入り体育着のみであった。


 どうしようと考えていると風呂場の扉がバン!と開き、


「上がったぞ! 司よ! 着替えを寄越せ!」


 全裸のまま堂々とタオルを肩に掛けて出てくる導華に最初に反応したのは片穂だった。


「お姉ちゃん! 司さんもいるんだからタオル巻いて出てくるぐらいできないの!?」


 片頬は司が腕に抱える体育着を取ると導華に押し付けて再び風呂場へ入れる。


「とりあえずこれ着て!」


「全く、ワシの体なんか見ても別に何も変わらんだろうが。何をそんなに隠す必要がある」


「ダメな物はダメなの! さっさと着てってば!」


 顔を赤くしながら片穂は無理やり扉を閉める。


「もう……お姉ちゃんってば……」


 片穂は疲労を顔に浮かべながら溜息をついた。




 片穂の溜息から一時間経つ頃には全員の就寝準備はほぼ完了していた。


 体育着とジャージ姿の天使は司のベッドに、司は床にタオルを敷いて横になる。


「今の日本の寝床はフカフカじゃのぉ」


「導華さーん。もう電気消しますよー」


 さすがに疲労で眠気が強くなってくる。楽しそうな導華には申し訳ないが、早く眠りたいので返事が返ってくる前に電気を消す。


「おやすみなさい。司さん」


「おう。おやすみ」


 片穂の笑顔は司の鼓動を速くさせる。部屋が暗くなっているので顔が赤くなっているのが片穂に気付かれないのに感謝しながら司は横になって瞼を閉じる。しかし、


「……寝れない」


 眠気はあるのになかなかに寝付けないもやもやした感覚。三十分程度目を瞑っていたがそれでも眠りに落ちることは出来なかった。


 昨日は片穂と出会い、そして今日は導華。一気に色々なことが起こりすぎて今でも天使という超常的存在が横で寝ているということの実感が湧かない。つい数時間前には悪魔に殺されてしまうかもしれなかったのに。


 寝付けない司は体を起こす。横を見ると姉妹二人の天使の様な寝顔が、いや、本当の天使の寝顔が視界に入る。二人は向かい合い、導華を片穂が抱きしめるようにすやすやと眠っている。


 悪魔と戦っている時や、話している時は導華が姉の様に見えるが、こうして二人の寝顔を見比べるとどう見ても片穂が姉に見える。元々導華の外見が中学生ぐらいにしか見えないので大人びた風貌の片穂と並ぶとその違いは明らかである。


 それにしてもなんて安らかな寝顔なのだろうか。悪魔と戦っていたことなんてなかったような。平和そのものを感じる寝顔だった。見ているこっちまで心が穏やかになってくる。


 そんな寝顔を見ている内に司の眠気がさらに強くなる。今度はしっかりと寝ることが出来そうだ。司はもう一度横になって毛布代わりのタオルを掛け直す。


「おやすみ」



 司は静かに夢の世界へと沈んでいった。





 芳ばしい匂いが、司の鼻腔をくすぐる。匂いを感じとった司はゆっくりと目を開けるが、朝日の眩しさに半分も目が開かない。司が寝起きで惚けた顔をしていると台所から明るい声が聞こえてくる。


「起きたか司! もう朝食の準備は出来ておるぞ!」


 小さな天使が料理を準備している。それを司が寝ぼけたまま眺めているとベランダから片穂が入ってくる。


「あ! おはようございます! 司さん。今日もいい天気ですよ」


 片穂が手に持つのは普段司が洗濯物に使っている籠。そしてベランダから入ってきたのだから恐らく洗濯物を干してくれたのだろう


「おはよう、片穂。悪いな朝から」


「どういたしましてです!」


 片穂の笑顔を見ながら、司は目を擦りながら起き上がり、台所へ歩く。


「おはようございます。導華さん。手伝いますよ」


「なに、もうほとんど終わっておるから座っておれ」


 言われるままに座ると、一分も経たないうちに料理が運ばれてくる。


 テーブルに置かれたのは焼き鮭とみそ汁、白飯といういかにもな朝食で、司は「いただきます」の一言と共に朝食を食べ始める。


 どれも美味しく出来ているので自然と箸が進む。黙々と食べ続けているため、十五分程度で食べ終わる。

 司は食器を片づけながら導華への礼を言う。


「朝ごはんも美味しかったです。ありがとうございます」


「はっはっは! これぐらいお安いご用じゃ!」


 笑う導華を見ながら片穂は頬を膨れさせて、


「むぅー。司さん! お姉ちゃんばっかり褒めすぎですよ!」


 不満そうな片穂の機嫌を直すために司は笑顔で、


「そしたら次のご飯は導華さんと作ってくれないか?導華さんに教えてもらえばきっと片穂の料理はもっと美味しくなると思うんだ」


 今日はきっと導華と共に一日を過ごすはずなので、料理の腕を少しでも磨いてくれれば自分が苦しむことも無くなるだろうという司の微かな願いが籠っていた。


 司の言葉に片穂も笑顔で答える。


「本当ですか!? なら頑張ります!」


「導華さんも、よろしくお願いします」


「うむ! 任された! 洗濯も掃除もついでにやっておこう」


「そんなにしてもらわなくても大丈夫ですよ?」


 申し訳なさそうな司の顔を見て、導華はにかっと笑う。


「はっはっは! 気にするでない。司には色々と借りがあるからの」


 借り、とは家に泊めたことだろうか。司は気にしないで素直に厚意に感謝する。


「ありがとうございます。じゃあ四時くらいには帰ってきますのでそれまでよろしくお願いします」


 制服に着替えて登校の準備を済ませた司は靴を履く。


「司さん!」


 司はゆっくりと振り返る。


「いってらっしゃい」


 今まで何度も見た、太陽の様な明るく、温かい笑顔。司の心が満足したように穏やかになる。


「おう。いってきます」


 きっと今日はいつもと変わらない、なんでもない一日なのだろう。でも、その中にほんの少しの存在が入ることで、その日常がここまで色鮮やかに、美しく見えるのだ。


 佐種司は、いつもと変わらない日常へいつもとは違う心で踏み出した。




「よう! 久しぶりだな!」


 司が学校の教室に入るやいなやクラスメイトの嘉部英雄はいつもと同じように話しかけてくる。


「お前はそれしか言えねぇのかよ」


「そんなこと言うなって! 俺は司に会うのを毎日楽しみにしてるんだからよ!」


「そりゃどーも」


 いつもと変わらない会話しながら、司は席につく。いつもと同じように担任がホームルームを始め、いつもの様に一限目が始まって、そしていつもと同じように―――


「おいおい……嘘だろ……?」


 司が何となく窓の外を眺めた時だった。家を出るとき、今日の天気は雲ひとつない快晴だった。洗濯物を干してくれた片穂もいい天気ですよ、と言っていた。


 自分の記憶に違いはないはずだ。それでも、司は自分の記憶を疑ってしまった。


 空が、暗い。否、黒い。うじゃうじゃと、悪の象徴が集まっている。


 何千もの悪魔がいつも通りの空を黒く染めていた。

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