第8話 その3「おむらいす」

 

 そして、何の問題もなく、必要な材料を買いそろえて、無事に帰宅し、意気揚々と天羽片穂ちゃんはオムライスを作ってくれたわけで、そこまでは何の問題もなかったのだが、


「これが……オムライス?」


 動揺する司の言葉に、片穂は笑顔で答える。


「はい! おむらいすです!」


 テーブルに置かれた料理は司の知っているオムライスとは一線を画した正体不明の物質であった。


 一言で要約するならば、黒い。悪魔に負けないぐらいの暗黒。むしろこっちのほうが危険な香りがしているのは今日一日の間に色々なことがあって疲れているのだろか。


 第一にこれは『おむらいす』であって『オムライス』ではないのか? この二つは似て非なる物だったのか?


 しかし、片穂はレストランでオムライスを食べてこの料理を作ることを決心したはず。


 それならば『オムライス』と『おむらいす』に違いはないはずなのだ。いや、あってはいけない。それなのに、それなのにここまで両者に違いがでてしまうなんて。何かしら人智を超えた力がこの物質に働いているとしか思えない。


 天使、恐るべし……。


 だが、そんな司の混乱に、混迷に、片穂は一切気付かない。


「初めての料理で美味しくできているかわかりませんが……美味しくなってほしいっていう気持ちはたっぷり入っていますよ!」


 その気持ち、想い、心を、無下にできるわけねぇじゃんかよ。ちくしょう……。


 司は、覚悟を決める。



 ―――この『おむらいす』……何があっても美味しそうな顔をして食わなきゃいけないッ! もう……どうにでもなれっ!



「い……いただきます!」


「はい。召し上がれ」


 いい笑顔じゃねぇか。ちくしょう……。



 佐種司は、完食した。あの漆黒の『おむらいす』を、全て胃袋に詰め込んだのだ。一切の苦痛を顔に出さず、「うまい」とひたすら呟き続けた。


 何が美味いのかは、司の味覚では発見できない。『おむらいす』を詰め込んだ司の内臓から悲鳴が聞こえる。助けて、助けて、という悲痛な叫びが。


「あの……お味はいかかでしょうか?」


 苦しい。不味いという感覚すら分からなくなってきた。


 それでもなお、司は力を振り絞って見栄を張る。


「あぁ……最高だぜ。ただ、この上なく満腹だ。少し、寝させてくれ」


 司の感想を聞くと、幸せが満ちて滲みでそうな笑顔で、


「それはよかったです! 後片付けは任せてゆっくり休んでくださいね」


「おう。おやすみ」


 司はゆっくりとベットに倒れこむ。

 司の視界が霞んで、前が徐々に見えなくなる。

 今日は疲れた。もう、休もう。俺は、頑張ったんだ。


 こうして、佐種司の天使と過ごした非日常第一日目は幕を閉じた。





「…………ん。……さん」


 声が聞こえる。綺麗で透明な、優しい声。


「司さん! 朝ですよ! 起きてください! 学校遅刻しちゃいますよ!」


 片穂の声によって、司は目を覚ます。


「……はっ! ……ここは!?」


「おはようございます。司さん」


 朝でも昨日と同じ笑顔で片穂は司に話しかける。それと同時に、昨日の夜の出来事を思い出す。おぞましい、悪魔との戦いを。


「片穂……? そうか。俺、生きてたんだな…」


 命が未だに自分の中に留まっていることに心から安堵する。


「どうしたんですか急に。命を狙われることなんてありました?」


 片穂は不思議そうに顔を傾げる。片穂は司が昨晩『おむらいす』と死闘を繰り広げたことには全く気付いていない。


 美味しい、と喜んで『おむらいす』を完食したと、片穂は思っているのだから。


「いや、むしろ自ら火の中に飛び込んでいった感じだな」


「いつの間に死線を越えていたんですか!?」


 皮肉混じりの冗談を素直に信じる片穂には怒りも湧いてこない。

 あの戦いは自分が望んだ戦だ。後悔は一つもない。


「いや、いいんだ。今生きているならそれで、かまわないよ。何も心配しなくていいんだ」


「そうですか……。なら、いいんですけど…」


「それはそうと、このとてもとても香ばしい匂いはなんだ?」


 台所から、ふわりと香ばし……くない。違う。この焦げた精神を抉られるような臭いを、司は知っている。その恐ろしさは、体が覚えている。


「朝ごはんです!」


 恐怖を堪えて、問いかける。


「ちなみに、何の料理を、作ったんだ?」


「おむらいすです! 昨日司さんが美味しいって言ってくれたので昨日よりも多めに作ってみました!」


 笑顔の天使が、司の命を無自覚に奪いにきた。

 瞬間的に司の口から言葉が溢れる。


「や、やべぇ! もうこんな時間だと!? これは学校に遅刻してしまう! 残念だけど朝ごはんを食べてる時間がもうない! 悪いけど、おむらいすは夜までとっておいてくれ!」


 体と声帯が、司の思考を追い越して動いていた。気がついたときにはすでに制服に着替え終わっているほど、全身が『おむらいす』を拒絶した。


「そうですか……残念ですけど、仕方ないですね! 学校、頑張ってください!」


 片穂の残念そうな表情に司の良心が傷つくが、行くしかないのだ。自らの命を守るために。


「あぁ! 行ってきます!」


 司は逃げるように家から飛び出した。



 司が通う高校はこのためにわざわざ田舎から上京してきただけあって自宅から徒歩十五分以内で着くかなり近い距離に位置している。そしてこの高校は都内の中でも偏差値は高いほうで、有名大学への進学数も少なくない。


 そんな高校になぜ司が通っている理由は、司が中学まで娯楽施設など一つもない片田舎で過ごしていたことにある。田舎暮らしで休日にやることが一つもなかったので、受験勉強をする時間が自然と長くなった。


 元々教科書の内容を理解するのは速かったし、学校には人数が数えるほどしかいなかったので先生が個人的に勉強を教えることがほとんどだったので、当然学力の向上も速かった。


 受験をする頃には、司の偏差値は合格するには充分なほど上がっていた。そして危なげなく受験を潜り抜け、入学してから一年経った今に至る。


「おはよう……」


 教室に入り、暗い面持ちで自分の席へ歩き、その雰囲気のまま友人へ挨拶をする。


「おう! 司! 久しぶりだな!」


 そんなことは気にもかけず、司の高校の友人、嘉部英雄は返事をする。


「久しぶりって……。一昨日ここで会ってるじゃねえか。何言ってんだお前」


「そんな冷たいこというなって。長い付き合いじゃねえかよぉ」


「高校一年の二学期に知り合ってからまだ一年も経ってないのに何が長い付き合いなんだよ。全くお前ってやつは」


 そんなことは言いつつも英雄とはこの高校の中で一番仲の良い友人で、高校一年の夏休み明けから基本的に休み時間や昼食は英雄と共にしている。


 嘉部英雄は『英雄』と書いて『ひでお』と読むのだ、と胸を張って自らの名前を周りに自慢し、周りが笑おうとも気にせず、いや可笑しくて笑われているということに気付かず笑い飛ばす神経の図太い人間だ。


 その上、自毛が元々茶色で、教師に黒染めしろと言われても「今まで髪を染めたことがないのでやり方が分かりません。教えてください」と言うほど自分の意見を押し通す男である。



 その一件から英雄は髪について教師に何か言われることはないようだが、教師陣からの人気はあまり高くないようだ。


 しかし、無駄に正義感も強い男で、困っている人を見かけて助けが必要だとわかると、損得関係なく助けることも何回か見た。顔も悪くないので、女子からの人気も少しばかりあるらしい。


 友人になったきっかけはとても些細なもので司が国語の教科書を忘れたので席が隣だった英雄に見せてくれと頼んだ時のことである。


 司が英雄の教科書を覗き込んだが、そこに写る著者の絵に大量の落書きが描いてあった。絵に写る顔は原形を留めておらず、風格や威厳は全て消え、大型バイクに跨る特撮ヒーローへ成り果てていた。


 そんな絵を不意に見てしまった司が笑いを必死に堪えていると、「俺の絵、上手いだろ」と自慢してくる英雄の自慢げな顔が止めとなり、授業中に吹き出して先生に叱られる始末。


 それから英雄とは話すようになり、互いに部活動に入っていない二人は夏休みにも何度か遊び、さらに意気投合、という訳である。


 英雄の言葉を軽く受け流しながらふと窓の外を眺めると、窓際の空席に気付く。


「あれ……華歩、休みなのか?」


 梁池華歩。彼女も司のクラスメイトの一人である。一年生の時も同じクラスで、一時期隣の席になっていたことがある。


 基本的に寡黙な女の子で休み時間も本を読んでおり、あまり友達と話しているところは見ない。髪も全体的に長く、眼鏡をかけている上に前髪が目にかかって目元が見えなくなっているのもまた華歩の印象を悪くしていた。


 実際、司も同じようにいい印象はなかったのだが、ある日寝坊して遅刻しそうになった時のことである。


 その日司は弁当を持っていかずに学校へ行き購買でパンを買おうとしたが財布を家に忘れた事を思い出して自分の席で途方に暮れていた。


 隣の席では華歩が静かに一人で昼食を取っていたのだが、空腹に苦しむ司を見かねてそっとおかず一品と白飯を少々分けてもらったのが話すきっかけであった。


 華歩は司ほどではないが、少し遠い場所から高校に通っているため同じ高校に同じ中学校の知り合いが誰も進学しなかったせいで人見知りも合わさって友達を作れずにいたらしい。


 そんな内気な少女に心配されるほど、司の空腹は目に余る様子だったようだが。


 弁当をきっかけに話すようになってからは別に他と変わらない優しい女の子だとわかり、最初の暗い印象は無くなっていた。


 しかし、華歩が学校を休むところは見たことがなかったので少し心配し、英雄に問う。


「噂で聞いたんだけど、あいつ家庭の事情がかなり複雑で学校に行ってる場合じゃないらしいぞ」


 あまり周りに聞こえないように英雄が囁く。


「そうなのか。心配だな。何か出来ることがあれば何かしてやりたいんだけどな」


「たしかに心配だ。でもな、変に他人が家庭の事情に関わったところで、俺たちには何も出来ないわけなんだし、余計なお世話かもしれないぜ?」


 正義感は強いと言っても英雄は助けが必要な状況だと判断して手を差し伸べる人間なので、むやみに他人の事情に関わるころはしない。逆に迷惑になってしまったり、最悪状況が悪化してしまうこともわかっているからである。


 それでも、司の華歩への心配は消えない。


「それはそうだけどさ、そんなこと言っても華歩は一年生の頃からの友達だからなぁ」


「おいおい。俺だって一年の頃からの付き合いじゃねえかよ。悲しいぜ?」


 ニヤリと微笑みながら、英雄は顔を近づけてくる。


「気持ち悪っ! さっさと席に戻って授業の準備しろ!」


「へいへいわかりましたよ」


 司に突き放された英雄は、溜息と愚痴を吐きながら自分の席へ戻る。


 その背中を見て、司は授業の準備を始める。そしてすぐにクラス担任の教師が教室に入り、ホームルームが開かれる。そのままいつも通りに時間が流れ、一つずつ授業が終わっていく。


 今日は諸事情により弁当を持ってくることができなかったので昼休みの間に購買でパンを買って腹を満たす。昼食を取りながら英雄と雑談している内に昼休みが終わり、午後の授業が始まる。


 何時間も授業があったが、司はずっと上の空だった。


「今頃、片穂はなにしてんのかな」


 誰にも聞こえないように独り言を呟く。家事を任せると言ってしまったが、あんな料理を作ってしまう片穂が家事を熟すことができるとは思わない。


 帰ったら最悪家が壊れている可能性までもある。考えれば考えるほど不安が募っていく。


 しかし、そんな不安よりもやはり昨日の出来事の方が司の頭の中を占領していた。昨日はなんという非日常だったのだろう。思い出すと朝から片穂に振り回されっぱなしだった。


 探し回って、飯を奢って、挙句の果てに私は天使です、なんて簡単に信じられるわけない。なのに、心のどこかで納得している自分もいる。期待していたのだろうか。こんな摩訶不思議な出来事が起こってほしいと、願っていたのだろうか。



 それとも、俺は片穂に――――――



「おーい佐種。ずっと空を見上げてるようだが、黒板はそこには無いぞー」


 司の思考が教師の言葉で遮られる。


「え……あ、すいません」


 教室にクスクスと笑い声が響く。司は白紙だったノートを板書で埋め始めた。授業の半分以上を聞いていなかったので板書を書き写している内にチャイムが鳴り、終業の時間を生徒に伝える。


 放課後を迎えた司は椅子に座りながら背伸びをして授業で固まった体をほぐす。


「今日も終わったぁ。腹減ったー」


 司が伸びたままぼやいていると、英雄が顔を覗き込んでくる。


「そういえば珍しいな。司が弁当を持ってこないで購買のパンを食べてるだけでも珍しいのに腹が減ってるなんて。長い付き合いだけど初めて見るぜ」


「いや、飯には複雑な事情があるんだよ……ってあぁあ!!」


 帰ったら、『おむらいす』が待っているではないか。完全に忘れていた。いや、もしかすると頭が記憶することを拒んだのかもしれない。


 なんにしろ、放課後にのんびりと英雄と雑談している時間はない。家に帰って、片穂がどうしているかを確認しにいかなければ。


 司は急いで帰りの支度を始める。急に動き始めた司を見て、英雄が驚きで表情を変える。


「ど、どうした司!」


「わりぃ! 用事思い出したからもう帰る! じゃあな!」


 流れるように教室を出ようとする司の勢いに呑まれ、英雄は司の挨拶に手を振って返事をすることしかできなかった。


「お、おう。じゃあな」


 走って教室から出ていく司を英雄は見送る。


「一体、なにがあったんだ?あいつ」


 腕を組んで司の不自然な挙動について少し考えてみる。


「まぁ、いっか」


 司の挙動について、英雄の興味は皆無だった。思考を止めた英雄は、ゆっくりと荷物をまとめて、教室を後にした。





 学校から駈け出して帰路についた佐種司は急ぎながらも思考を巡らせていた。


 家への道中に『おむらいす』の対処法を考えなくてはいけない。片穂のあれはすでに才能だ。『おむらいす』の材料は一般的なオムライスと全く一緒なのだ。それなのにどの過程であそこまでの変貌を遂げてしまうのか。


 異常な化学反応でも起きているとしか思えないほどの変化。そして何よりも怖いのがあの『おむらいす』を美味しく出来たと信じて満面の笑みを浮かべてくる所である。


「あんな笑顔で召し上がれって言われて断りきれる男なんてこの世にいねぇよ」


 きっと友人にこの話をしてもそれくらい断われる、と言うだろう。だがしかし、実物の破壊力は洒落にならないのだ。


 はぁ、と大きな溜息を吐きながらついに家の玄関まで着いてしまった。


 この扉の向こう側は一体どうなっているのか、想像もつかない。


 それでも覚悟を決めて、司はドアノブに手をかける。


 鬼が出るか蛇が出るか、司は徐に部屋の中を覗き込む。


「ただいまー。って……あれ?」


 薄暗い部屋の中は今朝と変わっていない。変化といったら、司が今朝脱ぎ捨てた寝巻が畳まれて床に置いてあるだけ。


 そして、テーブルの上に黒い物体が一つ、皿の上に盛られている。そして、当の本人は司のベッドでぐっすりと眠っている。


「改めて見ると、やっぱり美人だよなぁ。こいつ」


 ベッドに腰掛け、片穂の寝顔を見下ろす。無防備な天使。均整の取れた美しい顔立ちはいつみても司の心の温度を上げる。ほんの少しだけ開いた口から漏れた息が司の手に当たる。


 こんな可愛らしい女の子が本物の天使だなんて、やはり信じられない。でも、天羽片穂はここにいる。嘘じゃないんだ。


 司がふと視線を移すと机の上の『おむらいす』の違和感に気付く。


「あれ、これって……」



 まだ、『おむらいす』が温かい。



 他の家事がよくわからず、唯一司に褒められた『おむらいす』を電子レンジで温め続けていたのだろうか。違う。司は朝の言葉を思い出す。


 朝、司は「夜まで取っておいてくれ」と言ったのだ。家を出る瞬間の一言を、この天使は真面目に守り続けてくれたのだ。


 司の胸に罪悪感が押し寄せる。こんなに一途に司のために待っていてくれたのに。


「食うしか、ねぇか」


 苦しみを噛みしめて、片穂の優しさが籠った凶器を食べる。今回は顔に感情を出せるので昨晩よりも苦痛は少ない。


 なにより、こんなに想いの詰まった料理を食べないなんて、そんなことは出来ない。


 苦しみの中、内臓の拒絶を押し切り無理やり押し込んだ司は、「コンビニのバイトに行ってきます。何かあったらここまで」とコンビニの場所を記した地図と共に置手紙を書き、準備を整え、バイトへ向かった。

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