第5話 二度

陽が傾き、橙赤の世界が訪れた。

まだ7月だというのに、空が燃えている。

高校の頃、こんな景色を見たことがある。あの時は感動を覚えたものだが、今はなにも心に響かない。


——人を殺した。


真っ赤な手術中のランプが消えた。

数時間の間閉ざされていた鉄扉てっぴが重々しく開かれ、緑の上下スクラブを着た医師が出てくる。

「佐々木さんの息子さんですね」

ここには源次と、源次の両親も当然いた。血の繋がりのある父親に声がかかる。

手は尽くしましたが、そんな言葉が聞こえた。

友平は頭をハンマーで殴られたかのような錯覚を覚えた。視界が揺れ、呼吸すら今できているのかわからなくなる。

誰かの幼さのある絶叫が聞こえた。嗚咽も聞こえた。それらは全て友平のものではない。

まるで口を溶接されたかのように言葉を発することができない。今ここで喋ることすら罪に思えてくる。

——救えなかった。

その時医師は、救急車が来るまでの間の処置はよかったとフォローを入れたが友平の耳には届かなかった。


家から見える夕日が揺れる。この景色を見ることができなかった人が一人いた。

頭ではわかっている。友平に非はないと。

もし殺した人がいるとするならば、それは病気を患った佐々木自身だ。

しかし、自分を責めることをやめてしまえば、亡くなった人に申し訳ない。そんな気がしてならない。

——時間が、解決してくれるのかな。

ひどく自分を責めるかたわら、そんな楽観的な気持ちもあった。

よっぽどのことがなければ、最初に触れる死は他人のものとなる。もうあの人はこの世にいない。僕と一緒に笑ったあの人は、どんなに苦し逝ったのだろうか。答えの出ない、現実味を帯びた想像すらできない妄想に浸る。

結局、どうしようもないことはどうしようもないのだ。いつか突然平気になるわけではない。

そんな時は、時の激流に身を委ねる。流れる水が汚れを取るように辛い記憶も洗い流してくれる。

しかしそれは、他の打開策をさぐらない体のいい思考放棄。今の友平は、それに甘んじることしかできなかった。


夕暮れの静寂の終わり、それを告げるのは二つのドンという荒々しいノックの音だった。

「友平!いるんでしょ!」

金切り声に近い夏鈴の声が本日二度目の非常事態を告げていた。


「今みんなに声かけて探してもらってる!夜になる前に見つけな、山に入られたら面倒や!」

「源次ー!どこだー!」

源次がいなくなった。

手術室の前でもう帰らぬ人となったことを聞くと、源次は病院を飛び出した。病院から見知った場所までは遠い距離ではない。両親も制止をかけたが、まだ精神が発達していない子どもには悲しみの流し方がわからない。体を動かすことで感情表現するのも珍しくなく、それを汲み取ったのか両親もそれ以上止めなかった。

それが仇となり、現場にいたる。源次は6時を回った今も帰らず大人含め手の空いている人で捜索することになった。

「……いない。どこかに隠れてるのか!?」

「隠れる場所……?そう、あたしたちがよく使ってた秘密基地、橋の下……?」

「川かよ……」

友平は舌打ちした。昨日雨が降ったため川が増水している。台風の時などと比べると微々たるものだが、流された可能性はゼロではない。

「とにかく、その川に向かおう。案内頼む」

「わかった」

ずっと堤防沿いを走り、ようやくその橋が見えてきた。橋の下というで河川敷のことかと思ったが、橋と橋のかかる斜面の間にできた隙間に基地を作ったようだ。ここならどこから見ても死角になるし冠水の心配もない。

「源次!いるのか!」

切れる息の隙間から源次を呼ぶ。

すると案の定、源次の坊主頭がちらりと覗いた。

「いた!」

夏鈴が歓喜の入り混じった声で叫んだ。しかし、源次の方はそうでもなかった。

源次は友平と夏鈴の存在に気づくと、逃げるようにして河川敷に降り立った。そしてそのまま、川へと。向こう岸まで目測40メートル。

二度目の最悪の想像、源次の矮躯わいくで果たして川を渡れるのだろうか——

「やめろ源次っ!流されるぞ!」

「うるさいっ!」

源次は注意を振り払って、濡れるのも厭わず川へと入った。この川は、10メートルほど進むと積み重なり足場の代わりを果たす岩がなくなる。つまり急激に深くなる。

友平と夏鈴は斜面を滑るように降りる。そして河川敷へと足を伸ばした刹那。

源次がバランスを崩し一瞬その姿を消した。またすぐに起き上がって向こう岸に向かえばよい。

しかし、再び源次を見たのは消えた地点から大きく右に逸れた地点だった。

——明らかに流されている。

「ッ……」

「待て夏鈴!追いつけない、先回りするぞ!」

河川敷に一刻も早く降りようとした夏鈴を制止し、命令に近い提案をする。

幸いなことにこの川はCを逆にしたような形をして流れている。Cの例えで行けば起点と終点を結ぶ際、Cに添って結ぶより上と下の直線距離の方が近い。流される速度が早くても理論上は追いつくことができる。

「夏鈴っ、救出は任せる!」

この時ほど義足が恨めしく思ったこともない。二人が全力を出した場合明らかに速度が変わってくるし、まず泳ぎすら満足にできない。

しかしやることはある。源次を救出したとして、呼吸困難の状態や水を大量に飲んでいたら一刻も早い医療機関の受診が求められる。

友平は携帯を取り出し素早く119を打ち込んだ。

その時、道に夏鈴のブラウスが落ちていることに気づく。

通常、水難者を救出する場合は浮力のあるものを渡すのがセオリーだ。水難者にしがみつかれ、救出者自身が溺れるためである。

やむなく直接行く際にはいくつか条件がある。一つ、何か救命道具(ライフセーバーなど)を持つこと。二つ、衣服を脱ぐこと。

今の場合1秒を競う緊急事態、それに加え辺鄙へんぴな田舎に浮力のあるものなどが落ちてるとも思えなかった。だがこの川、源次には深いかもしれないが高校生ほどの身長になれば胸ほどまでの深さしかない。よって条件を満たさずとも救出、及び水難者、救出者双方の生存の確率が現実的なものとなる。

したがって必ず守るべきは服を脱ぐこと。服は水中では水を吸い重さが増す、そのため満足に泳ぐことができないからだ。

しかし自体は彼女の英断に感心する暇すら与えないほど緊迫していた。

友平が源次の流された地点の対極側に着く頃には、下着姿の夏鈴が河川敷へと降りた後だった。

見ると、水しぶきが強く上がる場所がどんどん近くなってきている。

夏鈴が間に合うかは——五分五分だ。

川に見られる大きな石をうまく使い、夏鈴は止まることなく河川敷を跳ぶ。その勢いを利用し、川に飛び込んだ。

一際大きな水しぶきがあがり——源次はその中に吸い込まれる。

——夏鈴のその腕には、小さな坊主頭が収まっていた。

安堵したい気持ちを抑えて、友平も急いで堤防を飛び降りる。もし体に異常をきたしていたら一刻も早い応急処置が必要となる。

悪路に何度も転びそうになるが、すんでのところでバランスを保つ。

友平が川の水に触れるまで近づく頃、夏鈴もまた源次を抱え岸に上がってきた。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

それが杞憂と知るのは、そんな少年の嗚咽の混じった謝罪が聞こえたからだった。


赤子よろしく抱えられた源次には目立った外傷もなく、本当にただ流されただけだった。

そこから3分ほどすると、友平の呼んだ救急車のサイレンが聞こえてきて3人で顔を見合わせた。そのあと赤くなる人物が一人。

——思えば夏鈴は下着姿だった。

友平は上着を脱ぎ夏鈴に渡す。

「走ったから汗くさいけど、ないよりマシだろ」

「……うん」

二人の間に変な空気が流れたが、間の源次のせいでシュールな絵になった。


救急車の到着に合わせるように、源次が見つかり保護されたという情報が出回る。それを聞いた親はすぐに源次の元へ駆けつけた。

「……ごめんなさい」

源次が年相応の謝意を見せる。それを聞いた父親は意外にも微笑みで返す。

「じいちゃんが死んで、どうしていいのかわからんかったもんな。それは源次なりに『戦った』ってことだ」

そう言うと手を頭にポンと乗せた。母親は甘やかすな、とでも言いたそうに顔をしかめていた。

「逃げることだった戦うことの一つだぞ?ただ逃げっぱなしは違う。いつかもう一度戦うために逃げるんだ。いつか源次が大人になって、そんな時に今日のことを振り返ればいい」

父親はその手で源次の頭をくしゃくしゃとやる。源次はイマイチ理解していないようだが、友平の胸には深く響いた。

「助けてくださりありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらよいか……」

うやうやしく頭を下げられ、困惑する友平と夏鈴。二人は、祖父の最期に立ち会ったような存在であり、恨まれても仕方ないとすら思っていたのに、そんな気配など微塵も感じない。

——なら、自分がくよくよしてる方が罰当たりだな。

そんな感想を抱く友平。

波乱万丈な1日が、日没と共に沈んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る