第4話 転変

7月上旬に大垣の地へと根を下ろした友平だったが、気がつけば既に世間では夏休みシーズンに突入した。

つまりそれは、友平が一人暮らしを始めて一ヶ月近く経過したということだ。自炊の基礎は知識として知っていたが、いざ自分で実行してみると思うように行かない。

一月ひとつきの間に岐阜、福井を中心としたドラッグストアのバイトが決まり、それなりに忙しさのある毎日。どれだけ疲れて帰っても、待てば飯が出るなどぬるま湯に浸っていたことを痛感した。しかし人は生活に刺激があればあるほど、振り返った時に長く感じる傾向があると聞くがまさにそれで、この一月はとても長く感じた。

ここでは珍しい義足も、東京のような冷ややかな目で見られることもなくいつしか日常へと溶け込む。それが心地よく、友平の心の穴をゆっくりと埋めた。

友平が岐阜に住むことに期限はない。つまり、このまま一生を過ごそうがどがめられるいわれはない。察するに父の意図は「やりたいことを見つけてこい」だろうか。未だ目処すらたっていないが、このまま安寧あんねいで満たされた生活を続けるのもいいと思う。

——そんな時、目の前の小さな間違いに気がつく。

「ここ、単位mol/Lじゃない」

「え、嘘?いやでも答えには……書いてないや」

化学基礎、そう書かれた教科書が友平の手の中に、さながら教師のように収まっている。友平が当時使っていたものとは違うが内容はほとんど変わらない。

「ここも、答えは②。いくら希釈きしゃくしても酸から塩基、塩基から酸には変わらないって昨日教えたよね」

「うー、全然覚わらん!」

夏鈴が頭を抱え絶叫した。

小学生組より遅く、先日から夏休みに入った夏鈴。高校受験を控えた中3ですら遊びまくった過去を持つ彼女は当然母親からも信頼されていない。それを踏まえて初日に友平に野菜を送ったのだろう。あの時の野菜が面倒な形で功を成したようだ。直接家に赴き教える家庭教師、賃金が発生しないので教える時間は1〜2時間程度だが、一食分ご馳走してくれるとの話なので暇を持て余していた友平にとっては悪くない話だった。

しかし、最初の授業では勉強をしなかった。理由は夏鈴の部屋が見るも無残な姿だったからだ。

「くの字」を横にしたように漫画が放置してあったり、茶渋のついたマグカップ、落ちた小テストなど女子の部屋の中でも最底辺の部類。下着が放置されていた時は流石に目を覆った。

人の部屋の掃除というのは、何をどこに置けば良いのか非常に困るので友平は埃などの掃除に専念した。机の裏などにくしゃくしゃになった紙などがあると高確率で悪い点数のテスト系なので、勉強を教える前に夏鈴の実力を嫌でも把握してしまった。1日を費やしてなんとか部屋と呼べるレベルにし、理系科目から解説していく。

夏鈴の志望は農学部、狙うのはあまりレベルの高い大学ではないが、まず夏鈴のレベルが高くないので夏は猛勉強の予定となっている。

「……ここの計算、よくできたな」

「え?簡単だと思ったけど」

よく見れば応用問題が解けていた。化学の偉人の名前を聞いたら生物の偉人の名前が飛び出るような頭だが、磨けば光りそうな一面もある。

この応用問題で友平が今日指定した分の課題が終わった。夏鈴が大きく伸びをする。

「はいお疲れ、復習はしとけよ」

「はーい」

絶対しないな、そう思うかたわら友平も自由になった解放感を感じていた。友平もつられて伸びたくなる。

「これから源次の家行くけど、友平も来る?」

「源次の家っていうと……佐々木さんとこかよ。またなんで」

「畑の手伝い」

——大垣は名古屋に近いが通うには遠い。

そのためかこの辺りの若者はことごとく都市へ移り住み、農業の担い手を欠く現状だ。いつまでも世代交代できず、自慢の畑を泣く泣く枯らす人が後を絶たない。佐々木宅も例外ではないらしい。

かく言う友平もそれは実感していた。と言っても義足が枷となり泥にまみれる仕事は到底できないが、それこそどうしても人手が欲しい時は水やりなどの汚れない仕事を頼まれたりもする。それが案外楽しかったのは記憶に新しい。

最初来た時はどこまでも続く田園風景と思っていたが、その裏に隠れていた努力を知り、今や田や畑を見るたびに頑張ってるんだなと思うようになった。

佐々木とはあのザリガニ釣り以来まともに話したことはなかったが、遠目に農作業をする姿を見ることがあった。

「今日も暑いな……なるべく汗をかきたくない」

クーラーの効いていた家から出ると、窓越しだった蝉の声が直に耳朶じだを叩き友平は顔をしかめる。直射日光をまともに浴びて友平はナメクジに塩をかけたようになる。

佐々木の家は友平の家から10分ほど歩いたところにある。夏鈴曰く、佐々木と源次の家は隣接しているものの別の家だ。元々あった佐々木の家の隣に何年か前に家を建てたが、妻との生活を選んだ佐々木は新築に移り住まなかったそうだ。それは妻亡き後でも変わらず、実質佐々木は一人暮らしとそう変わらない生活をしている。

田んぼを数えて6つ、小川を1つ越えると、ようやく家が見えて来た。黒い屋根の古びた家だが、決して崩れそうな印象はない。雑草もなく手入れされているのが一目でわかった。

「こんにちは佐々木さーん!」

インターホンもない家ではこうして声で主人を呼ぶ。呼び鈴のない飲食店で店員を呼ぶのをためらうタイプの友平にはできそうにない。

数秒してシャツ姿の佐々木さんが姿を現わす。嫌な記憶がフラッシュバックしつい肩に力が入った。

——しかしかつての怖い印象とは裏腹に、夏鈴と友平を歓迎した。

「こないだは済まんな。ついカッとなったわ」

「気にせんといてー」

荘厳な声をしていたはずが、幼子をかわいがるような老人らしい声になっていた。友平はそれに肩透かしを食らう。

居間に通された友平と夏鈴。最近は岐阜弁にも慣れて来て、違和感を感じることも少なくなった。夏鈴のような若者はほとんど使うことがないが、歳をとった人ほど使う傾向があるようだ。

「今お茶持ってくるでな」

そう言って佐々木さんは席を立った。それを見計らったように夏鈴が耳打ちをする。

「佐々木さん、すごい愛妻家で知られていたんだけど、妻を失ってから家以外では人が変わったようになるんだって」

この歳になっても、未だ妻を大好きでいられる。そんな生き方ができる佐々木さんを羨ましく思った。

ふと、テレビの横に置いてあった写真に目がとまる。それはおそらく、亡き妻と佐々木さんの写真。どこかの神宮じんぐうと思われるところで、満面の笑みを浮かべる二人の男女。

よく見れば、木枠の両端の一部分だけが黒ずんでいた。そこだけが汚れる理由があるとすれば手垢、何度も何度もその写真を手に取ったのだろう。

「それはな、婆さんと40年目の新婚旅行の写真。あれは楽しかった」

目の前に麦色のお茶が置かれ氷がコロンと鳴る。

「……綺麗ですね」

ふとそんな言葉が漏れた。

それを聞いた佐々木さんは一つ満足そうに頷いた。


その後、畑仕事の手伝いの話はどこかへ行き下世話な話が続いた。岐阜の田舎に住む佐々木さんは東京というところがイメージできず、友平の育った東京の話をすると信じられないように目を丸くした。

その時、ジリリと電話がどこかで鳴る。音の先をみると、今や絶滅危惧種と言っても過言ではない黒電話が鳴っていた。

「今でる————」

——時が歩みを止めた。そう感じたのは友平だけじゃないはずだ。

老体がゆっくりと重力に依存する。重い音が空気を伝わり、認識できない速度で脳に伝わるも理解におよそ3秒かかった。

佐々木さんが胸を押さえて、倒れていた。

「——かっ……くず……くずりをっ」

明らかに異常事態。薬程度でどうにかなるとは思えない。

それに友平らでは薬の位置もわからない。

「夏鈴っ!救急車!」

「う、うんっ!」

尋常じゃない苦しみ方。押さえている位置は心臓。

——心臓病、心筋梗塞……

思い当たる病名が脳を駆ける。

「しっかりしろ!今救急車呼ぶから!」

意識の確認として声をかけるも帰ってくるのは呻き声だけ。既に意識が朦朧もうろうとしていてもおかしくない。

救急車を呼んだ夏鈴に、ダメ元で薬の場所を探せと指示する。

「くそっ、なにか持病でもあったのか……こんなタイミングで……」

友平は音を立てるほど強く噛みしめる。しかしそんな時、また異変が現れる。

——先ほどから打って変わって、まるで寝ているかのように体が脱力している。

友平は目を見開く。

すぐさま脈、呼吸を確認する。最悪の場面で、予想があたってくれた。

「心肺……停止」

言うや否や友平は佐々木の胸部にクロスさせた両手をあてた。

荒い呼吸に合わせて強く、強く、強く押し込む。

AEDなんてない。友平が助けるのだ。

回れ……回れ……と呟き血液を循環させる。30回を数えると次は人工呼吸をする。胸部の膨らみを2回確認しまた胸骨圧迫にうつる。

救急車が来るまで最短15分——それまで命を繋ぐ!

「はぁっ、はあっ、死ぬなぁぁぁぁっ!」

友平の叫びが虚しく響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る