第3話 童心
湿気を多く含んだ初夏の風が
「あたしの予備の竿貸すから、壊さないでよね」
「竿……?」
夏鈴に差し出されたのは、長さ1メートル弱の竹の棒。それに裁縫で使われる白い糸を結びつけ、その先にするめを括り付けたものだった。
「これで、釣るのか?針もないのに」
「針なんてつけたら危ないから。ザリガニ釣るのに針なんていらんよ」
「ザリガニ……」
友平は19歳、夏鈴は18歳だ。それが8
嵐のように友平の家に訪れた
「友平バケツ持って。頼むから沼に落ちないでね」
「俺一応先輩なんだけど……」
普通、
そうして歩いてるうちに見えてきたのが、学校のプールほどもある大きな沼だった。手入れされてるわけではなく、源次たちの身長ほどもある草が我が物顔で繁殖している。その草の隙間に、うっすらと赤いものが見えた。
「うぉすげぇ!めっちゃでかいのいる!」
今日何回目かのすげぇを発した源次、つられてその方向を見ると確かにかなり大きいザリガニがいた。
「絶対あれ釣る!邪魔すんなよな」
「えー源次だけずるい。あたしも欲しい」
「花も……触ってみたい」
源軍早くも仲間割れのようだ。
しかも発端がザリガニとは、源氏一族も浮かばれない。
「ほら、竿持って。友平も釣るよ!」
「……」
さも当然と言わんばかりに友平を巻き込んだ。しかし大きさなどどうでもいい友平は、源次が見つけたザリガニよりふたまわりほど小さいザリガニの前にするめを垂らした。
最初は警戒を見せたザリガニだったが、ちょんとハサミでつついた後に食いついた。するめ、自分で食べたかったなどという感想を飲み込んでゆっくりと竿をあげる。
成る程。これは確かに針はいらないな。
おもちゃを離さない赤子のようにザリガニが重力に逆らって浮く。こんなに小さいくせに、竿を動かさないことも意識するためかなり重く感じる。ゆっくり、ゆっくりと竿をあげて——次の瞬間するめが重さを失った。
「あっ」
ぽちゃん、可愛い音と共にザリガニが落下する。普通の魚釣りと違って逃した獲物が悠々と歩くのを見ると腹立たしさを覚える。
「やーいへたくそー!」
「へたくそー!」
源次と夏鈴の野次が飛んだ。見れば向こうは既に二匹も釣っていた。あの大きいのもいる。いくら現地のプロ相手とはいえバカにされっぱなしは気に入らない。
くっそ、と大人気なく毒づいた友平は逃したザリガニの前に竿を下ろした。
見向きもされなかったが、逃げるたびにするめを前に移動させ無理矢理にでも食べさせようとする。その間に違うザリガニもよってきたが、他のに食べさせるなんて友平のプライドが許さなかった。
そうして格闘すること約5分——やっと食いついた。まだ噛み付きが甘いため、ゆっくりと
するめがザリガニの体で隠れ見えなくなる頃、満を持して糸を垂直に引き上げた。ザリガニの体がゆっくりと水面から離れる。一定の高さを得ると、横移動でバケツへと運ぶ。
まるで線香花火のように慎重に、慎重に——
「わっ!」
「ッ!」
落下した。源次のいたずらでつい竿が揺れてしまったのだ。
ザリガニが草の上で起き上がり、まっすぐに川めがけて歩き出す。先ほどとは違い100%人為的ないたずら、だがそれを怒るよりも先に捕獲しなくては。
しかし必死に掴もうとするもハサミを大きく振り上げ威嚇してくる。背面に回ろうとするもそれに合わせてザリガニも動くためどうしても掴めない。
「おっ、掴めんのかぁ」
事の原因である源次が悪びれもせず煽るが、友平はこのザリガニに全身全霊を注ぐ。威嚇をやめるタイミングで……しかしハサミを下ろしたところを狙ってもまたすぐに威嚇される。そうしているうちにザリガニはどんどん川に近づき逃走成功が現実味を帯びて来た。
するとその時、ザリガニが1つの判断を下した。
なんと背中を向けたのである。この距離ならば捕まる前に逃げ切ることができると考えたのだろうか。——しかし甘い。
友平は今日イチの俊敏さで、ついにザリガニのやや柔らかい外殻を捕まえた。
ハサミをあげて抵抗するものの背面の指を掴むのは不可能、完全な友平の勝利だ。
「よ、よっしゃ取ったぞ!」
つい興奮して声を荒げてしまい、ハッと我に帰る。よく見れば源次たちのバケツには既に片手で数えられるだけの数を超えており、一匹で喜ぶ大人を見るのはさぞバカらしくに映っただろう。恥ずかしいほど夢中になっていたことに気付いて赤面する。
——しかし源次たちが見ているのは友平ではなかった。
「おい、誰や」
突如聞こえた、
「——見ん顔だが、どこから来た」
そこには60、70あたりの
「……東京から」
「あぁ?そんな小さな声聞こえすか」
「——佐々木さん!」
地元人である夏鈴が会話を遮る。気後れしていた友平は心の中で安堵を覚えざるおえなかった。
夏鈴と源次が、佐々木と呼ばれた老人の方へ駆け寄り何やら話をしだす。友平の説明をしてくれているのだろうか。その間花は友平の後ろに隠れ、おずおずと様子を伺っていた。
数分話した後、なんとか佐々木は帰った。終始表情を崩すことはなく、帰ってもなおその場にいるような存在感がある。夏鈴が申し訳なさそうに友平に近づく。
「さっきのは佐々木さん……源次の祖父。孫が知らない人と遊んでたからだって。あの厳しさは孫への愛情がゆえだから許してあげて」
「……すごい喧嘩腰だったな」
「婆さんを先に亡くしてね、そこから人が変わったみたいに」
なるほどと納得する。いつか、母を亡くし性格が180度変わった人の話を聞いたことがある。
人の死は人を変える。無意識的に他人の死に自分の未来を重ね、意図せず死と向き合う。己が永遠に失われ、何も感じることのできない虚無の世界の
「俺のじいちゃんがごめん……」
友平を煽った頃とは人が変わったように源次が頭を下げた。ハッとすると皆申し訳なさそうに下を向いていた。
その時友平は気付く、あれが源軍なりの歓迎だったのだと。友平がすぐに馴染めるように気遣ってくれたのだ。それが台無し、むしろマイナスに終わり喜ぶ奴がどこにいるのだろうか。駄目だ悲しませたくない。
「——なんかさ、久しぶりだった」
自分でも、そんな言葉が出てくるなんて思っていなかった。頭で何を言うか決めるプロセスを飛ばし、口だけで喋った感覚。しかし決して心がこもっていないわけではなく、必死に「何か言おう」と脳が命令し続けた結果の産物だ。
「ずっと塞ぎ込んでたからさ、外で遊ぶなんて何年振りか。いや、こんな風に遊ぶのは初めてかもな」
高3では受験勉強に専念し、遊ぶなんてもってのほか。それ以前も体質上遊びに誘われることも少なかった。微々たる孤独が積み上がり、今や賞賛される性格を失って久しい。
だからこそ、誰かに求められ対等な立場で笑い合う今日という日がくるなんて思いもしなかった。誰一人としてここでは友平を先輩として見ない。初めは恨めしくもあったが今は心地よさを感じる。
「うまく言えないけど、楽しかった。ありがと」
友平も照れ隠しから下を向く。
しかし3人は、それを良しとしなかった。
「何勝手に締めてんじゃ、まだ釣るぞ!」
「あたし今6匹釣った、今日のノルマは15匹」
「2匹……もっと釣りたい」
そんな強引さ、今では好きだ。
——その日はまた怒られる覚悟で二度目のザリガニ釣りをして終了した。
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