第28話 目覚めれば、そばにいて

「『繰り返す運命』なんて言うけれど、実は『輪っか』じゃないんだよね」


石名原はその手に輝きの曇った銀色の輪を見せた。金属の周囲を反対側の手の指でなぞる。輪のようなそれは側面から見てみれば厚みがあった。バネの形状をしていて、実際に何かのスプリングなのだろう。どうしてそんなものを持ち歩いているのかは全く不明で、相変わらず謎めいている。


指がバネのらせんを辿って一周してみれば金属の厚さの分だけおそらく位置がずれている。実際に動かして回っているのはバネの方で、きっと指ではうまくなぞれないのだろう。そしてズレはごくわずかではっきりと確認できるほどでもない。


「おんなじところに戻ってきたように思えても実は違う。すごく遠回りをしているようで、少しずつ進んでるんだよ」


駐車上で唐突に始まった石名原の話。そういえば、鈴乃は彼女に「運命」の話をしただろうか。「人はどうして同じことを繰り返してしまうのか」という内容だった気がする。鈴乃が落ち込んでいるのではないかと感じて励ましてくれているのかもしれない。だとすれば心遣いはありがたいけれど、落ち込んでいるのとは少し違う。


鈴乃はただ「繰り返さない」ためにはどうするべきかを考えていた。石名原の例えを採用してしまうと「少しずつでも進んでいる」のだから、「繰り返しに見えてもいい」……ということにならないか。それではいけないのだと思う。


反応を返さなかった鈴乃に石名原は、両手で持っていたバネを左右に引っ張って伸ばして見せた。その間の抜けた感じが石名原らしくもあり、手品でも始まるのかと思ったが違っていた。彼女にしてみれば至って真面目に、鈴乃からしてみればいつものように蛇行して、先の見えない話は続いていく。


「バネになるような金属って、限界を越えて引っ張ると元に戻らなくなるよね。それって、近道を探って『自分を見失ってしまうこと』に似てるかなって思う。引っ込みがつかないからってその限界以上に引っ張ってしまうと、千切れてしまう。でもね、もう戻そうと思っても伸びたバネは戻らない」


「金属の強度」と「自分を見失うこと」の類似点。そんなものがあるのだろうか。あったとしてもこじつけ。無理矢理だ。石名原は何かを戒めるつもりなのか。実演して見せようと、石名原はうなりながらバネを引っ張っているが、とても切れそうにもない。金属を引き千切るなんて芸当は余程の力持ちでなければ不可能だ。思いついてできることではない。仕方もなく、諦めて石名原は話を続けた。


「『遠回りしながらでもいつかは答えに辿り着ける』。それはらせん状バネの形に似てるよね。とは言っても、与えられた時間は有限だし誰だって苦しい思いはしたくない。そして人は、『自分の歩いている道が正しいことをずっと信じてはいられない』もの。……だから答えに見えるものがあったなら、背伸びをしてでも近い道を行こうとする。それがね、もちろん正解ならいいんだよ。でも、間違いだって気付いたときには、


運命の話をしていたのではないのか。石名原の話が混迷し始める。たとえ話でいったい何が言いたいのか。そして、誰を咎めたいのかはっきりと言えばいい。それも相変わらずなのだが、迂遠な言い回しが過ぎてついていくことは困難だ。鈴乃は、答えを急かした。


「つまり、どういうことですか」

「あ、うん。金属の『降伏点』が近道できる限界で、それが幸福の限界、『幸福点』だったりするのかな……なんて」


「降伏」と「幸福」、笑えない冗談だ。ただの同音異義語。しかも「幸せ」と結びつけて考えるなんて一種の認知の歪みではないか。示唆しているその意味にしても、この場にいる誰にとっても冗談にはならないものだ。「幸福の限界」とはなんだ。


石名原はユーモアが得意ではない。それは分かっていたこと。しかし今、運命や幸せと並べて語るということは、彼女は、鈴乃や直日、そして楓――カクハヤミ、過去のハツチやシトリたちを「伸びきったバネ」だとでも言うのだろうか。ただ、間違えて目の前にあったものをつかんでしまっただけではないか。


そう、溺れそうになって目の前にあったものをつかんだだけ。


「千切れてしまえば、自分がその道を歩いてきた理由さえも分からなくなってしまう――」

「――つまんない冗談は、やめろよ」


声をあげたのは縁司だった。石名原の言葉を遮って、縁司は噛みつくような剣幕で睨む。「歩いてきた理由が分からなくなる」という部分でまた引っかかる。石名原は何気なく喋っているのではなく、意図的に何かと結びつけて語っている。そう鈴乃は判断した。自分が知っていることを知っているのは自分だけ。しかし、どうして重なるのか。今は、鈴乃にも縁司の気持ちが理解できる気がした。


「こんなときに言える冗談じゃないだろ。……それは、あんたが言ったのか? 違うだろ、きっと兄貴だ」

「違うよ。……立花くんは、こんなこと言わない」


半目で縁司を見た石名原。どこかあざ笑うように見えるのは、鈴乃の感情の仕業なのかもしれない。詰め寄られても動揺することなく平然と答える。そんな様子がまたさらに冷酷に思えてくる。


「……そうだな。兄貴はそんな回りくどい言い方はしないな。『もう役に立たないから捨てろ』っていうんだろうな」


縁司は毒づいて下を向いた。きっと縁司も石名原を高く評価していたのだろう。鈴乃も、そしておそらく直日も、石名原のことは嫌いではない。だからこその反応だといえる。そして、話題に上がった「縁司の兄」とはそんな直截な言い方をする人だったのか。しかし感情的になってしまうのはやむを得ない。そのわけは分かっていた。


3人が苛立つはっきりした理由がある。それが病院この場所にいる理由でもあった。直日の意識が戻ってこない。楓が消えた直後に直日は意識を失った。


はじめは楓の「戻ってこられなくなる」という言葉を思い出して、楓たちが向かった場所に行ってしまったのかとも疑い、気も動転した。冷静になって考えてみれば早まった考えだと分かる。そのとき鈴乃たちは身体の自由を取り戻していて夢の世界――「神域」も消えた後のことなのだ。


直日は戻ってきているし、鈴乃と一緒に楓の名を呼んだことも覚えていた。まだ、直日は現世に自分を残しているはずなのだ。


そんな状況での石名原の空気を読もうとしない発言。おそらく縁司が怒りを露わにしたのは、帰ってこないことと元に戻らないことを重ねたからだ。しかし鈴乃には気付いていることもあった。もし、直日や鈴乃たちを役に立たないバネなどに例えて非難するつもりなら、石名原自身はどうなのだろう。誰よりも先に自分のことを篩にかけているのではないか。彼女は自分も含めて、それでも「役に立たないもの」に振り分けたのか。


石名原はあの日の前日、織津神社にに行っている。おそらくなんとなくではないはずだ。だとすれば、どんな意味があったのか。


「あなたは、楓と何を話したんですか。楓に覚悟を決めるように促したのは……あなたですね」


鈴乃の問いに石名原はしばらくの間、無言でいた。そして動かない空気の中で石名原は目を閉じて、ひとつ頷いた。自分で尋ねたことだった。しかし鈴乃は返ってきた石名原の答えに驚く。


「そうなのかもしれない。彼女とは特別な話はしてないと思う。ただ、『楓』という名前の人物に会って、後のことはこの世界の人たちに任せてみたら……って言っただけ」


石名原は「楓に会った」と言った。たとえ話ではなく、楓が鈴乃と直日以外の人間に認識されて、言葉を交わせたという。


よく分からない感情が湧き上がってきて鈴乃の中に満ちていく。少しの喜びと、それ以上の悔しさと憤り。石名原のしたことはきっと間違いではない。楓は誰かに背中を押されたからやっと終わりにすることができたのかもしれない。かといって、楓の望んだ結末は友人として鈴乃に割り切れるものではない。幼馴染みの友人を失って、そして今だって。


何かを選んだからといって、傾いた天秤が掲げる方に何も載っていないわけではない。全か無ならば選択にさえならない。迷うからこそ選ばなければいけないのだ。鈴乃はこの機会に以前から思っていたことを尋ねてみようと思った。


「――あなたはなんですか」


鈴乃の唐突な問いにも目を閉じたまま、石名原は穏やかな調子で応じた。


「――わたしは石名原 古都見。つまらなくて変わってる、ただの人間。……だけど、『篠宮 楓』さんはわたしのことを『今宮の姫いまみやのひめ』と呼んでいた。どんな意味で言ったのか、速瀬さんなら分かるのかな」


目を開いた石名原が鈴乃を見つめる。その瞳の輝きが、鈴乃の右目にはわずかに深緑に映って見える。石名原は鈴乃を試しているのか。あるいは自分の言った言葉の意味が本当に分からないのか。返ってきた質問に鈴乃は答えられない。知らないからだ。


楓が「姫」などと呼んだ存在は、ただの人間なのか。鈴乃は、楓や石名原のようにたくさんのことを知らない。鈴乃が知らないことは石名原にも分かっているはずだ。だとすれば、彼女はどうして鈴乃に問うのだろう。それは、石名原の知らないことを鈴乃が知っていると考えたからではないか。であれば、彼女はその意味を本当に知らないということになるのか。思惑はまだ分からない。


聞いておかなければいけないことはもうひとつある。


「『立花 縁司のお兄さん』はどこにいるんですか」


鈴乃のふたつめの問いには、弟の縁司が当然に反応した。「どういうことだ」と。実際におかしいのだ。一番事情に詳しかったはずの人間がいつまで経っても現れない。姿形はおろか、声だって鈴乃は聞いていない。書き残したものもない。本当にいるのか。いるのであれば何処だ。


「わたしには分からない。……でもきっと、遠いところ。立花くんのことだから『高天原』も『根の国』も、探究心の赴くままに、気の向くままに……じゃないかな」


意味不明だった石名原の言葉が理解できるものになった。鈴乃にも、理解できてしまった。『高天原』も『根の国』もここではない場所。現世うつしよを探しても見つからない場所ではないか。それはつまり、当人はもう『この世』にはいないということにならないか。


「そんなこと……聞いてないぞ」

「立花くんは、思ったことを言って、やりたいことを追いかけるから。まるでこちらのことなんて見てないふうで。わたしは、立花くんに同意なんてしてないけど。……留守番は立花くんがわたしに残した頼み事。だから、しかたないよね」


縁司の独り言に石名原は答えていないけれど、そんなふうに応じた。首を傾げて苦笑する石名原。代理とはそういうことなのか。しかしずっと終わらない留守番だ。いつまで待っても帰って来ないのなら、それは代役とは言えない。「伸びきったバネ」とはまさに帰ってくることのない縁司の兄のこと。鈴乃はそう思ったが、確認することを躊躇ってしまう。石名原は気付いているのだろうか。それは仕方ないと言いながら、まるで恨み言なのだ。


石名原の両手に握られただらしなく垂れ下がったバネを見る。細い金属でできたバネはもう伸びてしまって元には戻らない。だとしても、だから何だというのだろう。「遠回りしながらでもいつか答えに辿り着ける」と石名原は自分で言っていた。金属は引っ張られると変形する。一定を超えると元に戻らなくなる。しかしそれは本当の限界ではない。塑性変形を生じるだけ。さらに力を加えた後、変形が一点に集中して破断する。石名原が手にしているバネはもう、千切れているのだろうか。


鈴乃は踏み出した。石名原に詰め寄ると、わざと乱暴にその手からバネの片側を取り上げる。石名原は驚き呆気にとられたように鈴乃を見た。


「わたしは放さないから。だから、『伸びきったバネこれ』を引き千切ってみせて」


鈴乃は強い想いを込めて両目で睨んだ。鈴乃にはカクハヤミの蛇眼のような力はない。けれど気の抜けた顔で情けなく笑う石名原の心を揺さぶれたなら、それでいい。――目が覚めたふりなんて、やめてしまえ。と。


石名原だって思ったことを言って、やりたいことをやっているだけ。まるでこちらのことを見ていないのは縁司の兄と同じではないか。金属の糸がそんなに簡単に切れるわけがない。手に食い込めばそちらが切れるくらいで、ハツチの鋼糸のように身体を刻まれることだってない。千切れた後のことなんて千切ってみせてから言えばいいのだ。


何かを失敗しても、生を諦めない限り人生は終われない。それは過酷で、ときに凄惨で、目を背けたくなる事実かもしれないけれど、「待つ」と決めたのだ。であれば終わりがくるまで待ってみればいい。それが無駄かどうかはまた自分が決めれば良いのだ。それは鈴乃から石名原への意趣返しともいえる。


鈴乃の挑戦に、石名原は、手に残されたバネを引っ張ろうとして、やめた。


「なるほど、そう……なのかも、しれないね」

「実際にどうなのか考えても分からない。なら、どうだっていいんじゃないですか。いて欲しい人が、ただ、今はこの場所にいない。それだけのこと。そんなふうに思うことが希望になるんなら、それでいい。……なんて、あなたは馬鹿げてると思いますか?」

「それは。……うん、確かに、馬鹿げてる。……でもね、わたしはバカだから、それくらいでちょうどいいのかもしれない」


空いている方の手のひらを額に当てて、呆れた顔に苦笑いを作ってみせる石名原。笑えるのなら、笑えばいい。作りものの表情のまま、石名原は鈴乃から数歩後ずさって距離をとった。彼女の両手が表情を隠す。そして小さく何かを言った。おそらく「ごめん」と言ったのだ。そのまま後ろを向くと顔を覆ったまま石名原は崩れるようにしゃがみ込む。もし笑えないときは笑わなくてもいい。鈴乃だってそうするのだ。もう他にないのだ。石名原は鈴乃よりも少し大人だったけれど、鈴乃よりもずっとひねくれている。


近道をしないことは堅実というよりも、もしかしたら答えを先延ばしにしているだけなのかもしれない。丁寧に苦しみもがいて、違う無数の不幸が生まれるのかもしれない。ではそれは徒労で無意味なことなのか。鈴乃にはいくつかの出会いがあって、苦しみにまみれていただけではない。触れてはいけないと目を背けてきた喜びがあったはず。どこかの時点で気が付いていたのだ。遠回りすれば後悔は増える。けれどその中に出会うものや触れるものだってきっと多い。自分が知っている全てが、全てではない。


沈む闇が深ければ深いほど、小さな明かりは目に焼き付いて離れない輝きになる。もし光だけが目の前にあったとしても、光は光ではあれないだろう。影が差して明暗が生まれ、はじめて輝きとして感じ取ることができる。小さな光の群れを集めて、目が眩んで、自分の輪郭を失ってしまうほど輝けば、もうそこに自分はいない。苦しみの日々に急いて終わりを求める必要もない。一時の救いを追いかける生があってもいいのではないか。どんな一生も始まって終わる。どんなふうにすごしても。


永劫回帰だと思えた運命の輪。苦しみに満ちたいくつかの呪われた生が、ようやくその終わりを迎えた。喜びがわずかでも皆無ではなくて、耐えがたい苦しみが続いてもいつかは燃え尽きる。楓が、そしてハツチやシトリが長い道のりの先を行き教えてくれた。であれば苦しみの中に、生きるための輝きを見つけて集めていけばいい。偽物でもいい。真理から遠く離れていていても、生きることがいくらかましに思えて、それが幸せになるのであれば真贋などただのレッテルかもしれない。


篝火になる明かりはいつもどこかにあるはずで、目的地なんてないのだ。もとより「自分」なんて存在は不確かで、人の命とは「一生」と名付けられた、時の瞬きなのかもしれない。そんなふうに感じられたならいい。そう鈴乃は思った。




白い部屋の窓が少しだけ開いていて、微かに冷たい風が入ってきた。鈴乃は首筋に寒さを感じて開いていた隙間を閉める。季節が深まって山の景色は色とりどりに染まる。燃え立つような赤。明かりが差すような黄色。そんな紅葉が落ちて冬は訪れる。


静かに眠っている直日。目が覚めているときが今ではないだけだ。物語の続きを読もうと本を開いてやめた。ベストセラーで映画やドラマにもなった有名な物語らしい。結末も見聞きして、なんとなくは知っている。床頭台には直日の親族の誰かが持ち込んだアナログの時計が置いてあった。秒針は当たり前のように、右回りに一秒を刻でいく。刻々と針が進む。


たとえば、鈴乃が祈り、強く願えば次に開いたページの内容が書き換わるなんてことがあるのだろうか。誰もが知っていることとはなんだろう。誰かにとって事実らしいものがたくさん集まってできた事実は真実なのだろうか。鈴乃はあまりそれに興味がなかった。真実が誰かを救うとは限らない。尤もらしさが確かな価値を持つ世界に自分は生きてきただろうか。気付けないだけだとしても、人の幸せは知らない誰かが量って決定するべきでないとは思う。


かたわらに寄り添って目を閉じた。それは直日のためではない。自分自身の救いのため。犯した過ちと償いが自分を決めて形を作る。罪と償いが自分のあり方を規定していく。そんなふうな生き方だとしても、それはもう変わらないとしても、ただ思う。違うものが信じられたならこの先、鈴乃は――ふたりの一生は、どんなものになるだろう。誰かが決めた運命の結末をふたりは書き換えることができるだろうか。


強く思っても何も変わらない。けれど、変えようとすることが希望になって変わると信じることが救いになるのなら、そんな生き方をしてみてもいいのではないか。馬鹿げているくらいでちょうどいい。それは鈴乃にも、直日にだって言えることなのかもしれない。


ふと背景の色が透けて薄れていく。鈴乃が目にしたアナログ時計の針が進むことを躊躇っていた。そして完全に停止する。クロノスタシス――それが錯覚であることを疑う前に、鈴乃は自分が目を閉じた状態だったことを思い出した。だから、動揺なく断定ができる。今、自分の目に映り、見えているものは夢だと。


「鈴ちゃんがそばにいることは知ってる」

「そう」


柔らかい声。直日が穏やかな表情で鈴乃の顔を見つめていた。


「人との繋がりも大切にしないと。ここにずっといたら、まるで友達がいないみたいだよ」

「……ナオにしては、嫌みな言い方するね」


友達が少ないことを批判される筋合いはない。


「当然だよ。ぼくは『直日』じゃないから」

「……そう。だったら、わたしも『鈴乃』じゃない」

「鈴ちゃんがみてる夢なのに、それは苦しくないかな……」


直日の苦笑い。


「そんなことはない。じゃあナオは、どうして夢をみているのが『鈴乃』だと言えるの。……自信があるんなら、ちゃんと確かめてみるといい」


そんな鈴乃の思惑を持った言葉。あからさまな誘導に、直日は笑ったまま何も言わない。


辺りの景色は一変して空間が開けた。正面には直日。見回してみても何もない。わずかに上層に雲を見つけて、鈴乃は今いる場所が上空だと分かった。その瞬間に空が青いことに気付いて、空は遙か遠くへと、そんなふうに青く澄み渡っていた。


冬の低い雲は視界にはなく、秋の残った世界。近くから遠くまでが一望できた。


足下に目を向けると大地があった。植林された杉の林に混ざって、赤や黄色に色付いた樹冠がまだまだ残って見える山の姿。川に沿い繋がった細い道には、所々に点在する屋根が見えた。そして段畑に収穫を終えたあとの棚田。人の暮らしがそこにある。少し遠くには湖があって、それは君ヶ野のダム湖だと分かった。


振り返れば双峰大洞の向こうに倶留尊くろその山体も見える。こんなに高い場所から見渡すことなんてないけれど、その眺望が鈴乃と直日の生まれ育った場所だということは分かる。


伊勢いせの国、壱志いしこおり。その昔、廬城いおきかわと呼ばれた雲出川の上流。宕野郷たきのごう、そして余戸郷あまるべごうと記された山奥にある村里の風景。


「ナオ――春になったら、桜を見に行こう」

「うん、三多気は久しぶり。――君ヶ野は秋もきれいなんだって」


近くても遠い場所。観光地にしようとすると、地元の住民の足が向かなくなってしまうこともあるのだという。見慣れた風景であれば、わざわざ煩わしい思いをするために出かけたくはないと。まして鈴乃たちにはずっと制限があった。今ならば何処にだって行けるのだろう。


では遠くまで行くのか。そうしなければいけないだろうか。むしろ、過去になった今だから――。


「秋には――君ヶ野も、日神ひかわの渓谷もきっと素敵だけど、『織津』に人を呼んで寂しげな紅葉を賑やかにしてみたい」

「――うん。それは、いいかもしれない」


そばにいて欲しい誰かが、そこにいると気付いてみたい。ともに過ごした誰かを大切にしてみたい。きっと目の前の景色がずっと色鮮やかに素晴らしく感じられる。それは思い出になってもずっと変わらない。


夢の中で夢を見れば、その夢は覚めるのだろうか。それとも、もっと遠くへ行くのだろうか。たとえどんなに離れていても、「ここ」はずっと変わらない。決められた未来への道を離れて、鈴乃の心の中の「大切にしたかった今」が今、「大切な今」になっていく。


希望と絶望の先に、それでも望むもの。願いとはそうやって叶っていくのかもしれない。

大切な誰かが目覚めればそばにいて、優しく微笑みかけてくれるから。


だから鈴乃は――。

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