第27話 眠りにつくまで

ヤキハヤミを名乗った直日の赤は、楓の赤とは色も、持っている意味も違う。楓の赤が白の赤だとすれば、ヤキハヤミの赤は黒の赤だろうか。色は人の目に見える範囲で認識されて名を付けられるもの。その色の名前を知らない鈴乃には簡単に言葉に変えることができなかった。纏っている色の名前は分からないものの、自ら「荒ぶる別御霊」を名乗るそれが穏やかな存在ではあり得ないことだけは分かった。


ヤキハヤミは半目で妖しげな笑みを浮かべる。そして楓の方へと一歩、前に歩み寄る。白い輝きがむしり取られて黒の光がカクハヤミの領域へ侵入する。かつての主従関係も力の差は明らかに見える。それを受けてか鈴乃の身体を操るハツチが身構えた。鈴乃の手に黄金色の光が出現する。黄金の輝きはその昔、実体を持っていたカクハヤミと、荒魂ヤキハヤミと化した巫女、シトリの命を絶った「天孫の証」だという光の剣だ。


「やめよ、ハツチ」


止めたのはヤキハヤミではなく、楓の方だった。カクハヤミの姿の楓は表情を変えず、荒魂ヤキハヤミを見据えたまま。


「『ヤキハヤミ』よ、わたしは世が乱れることを望まぬ。そして、人の営みには干渉しないのが古きものの掟である」

「そのような約定は知りません。カクハヤミ様の仰る、その『人の営みこそが世を乱している』のではないですか。わたしは与えられた『神』としての使命を果たすのみ」


そしてヤキハヤミの視線が鈴乃に向けられる。


「ハツチ様、あなたは『ともに行こう』と仰ったではありませんか。……それなのに、どうして?」


蛇眼が鈴乃を睨んだ。黒の光が波動の輪となって迸る。その視線はおそらくハツチに向けられたものだったが、まるで蛇に睨まれた蛙のように鈴乃の心は締め上げられて、意識を失いそうになる。「神」の威光とはこれほどなのか。しかし鈴乃の声を借りるハツチは動じることもなくヤキハヤミの言葉に落ち着いた声で返す。


「裏切りだと思ったのだな。それでも、わたしはお前と『ともに行く』。わたしたちのあるべきところへ」

「それは、どこですか。空の彼方ですか。地の底ですか。天津神のあなたが行ける場所にわたしは立ち入ることができません。そして、もう人として消えることも叶いません。……そうなさったのは、あなたの『身勝手』なのですよ」


ハツチは、自分の期待を一方的にシトリに押しつけて引き戻した。その過去が本当ならその責めを受けるべきなのはハツチだろう。決して世界が背負う運命ではない。けれど……。そんなハツチはヤキハヤミの言うように天津神が行ける場所に行くのだろうか。可能だとしてもヤキハヤミとなったシトリと「ともに行く」ことをまた選ぶのではないか。たとえそれがハツチの身勝手であったとしても。しかし見捨てたつもりではないという弁明も、鈴乃がハツチであったから知りえたこと。誰かの言葉を信じるというのは容易いことではない。そしてカクハヤミである楓の声が、また違う視点で鈴乃の思考を補足した。


「この世に『身勝手』ではない人などおらぬ。そうでない人がいたとすれば、それはというものを持っていない存在だけだ。……お前とて、お前の知らない世界で今も生きている、見たことも言葉を交わしたこともない者たちもろとも、全てを私怨で滅ぼそうというのだろう。それは『神』の使命などではないのだ。それはお前の『身勝手』だと言える……そうではないか?」


楓もその蛇眼でヤキハヤミを睨んだ。しかしその眼光にはヤキハヤミの蛇眼のような力の発露はない。楓は表情を変えないが、力比べになれば敵わないことは気付いているはずだ。それでもかつての自分の巫女を諭すように見つめている。


「カクハヤミ様は、わたしに他に選ぶ道があったというのですか?」

「選べたのではないか? シトリという娘として今ではない形の未来も。……お前は、『与えられた神の使命を果たす』と言ったのである。ではその使は誰に与えられたのだ? シトリ、『お前自身』ではないのか。それは自分で選び、己に与えた使命であろう」


楓の突き放すような言い方に、ヤキハヤミはさらに表情を険しくした。地下を何かが流れるような音とともにジリジリと黒と白の境界が音を立てる。


「それは、あまりの言い様ではないでしょうか。わたしは『人』として最後を迎えたはずなのに。……もう一度生きる機会を与えられてみれば、そうする他になかったのですよ!」


ヤキハヤミの怒りが形となって発現する。黒い輝きの奔流が鎌首をもたげると、カクハヤミに襲いかかる。


「狼藉はやめよ」


楓の瞳が輝く。赤から白に一瞬で色が変化すると、放射された黒い光が消し飛んだ。


「人としての生に後悔はなく、『神』として生きることにしたと? もう一度与えられた命、どうしてお前は人としての望みを放棄することを選んだのだ」

「……与えられた役割は、果たさなければいけません」


何を拾い上げるかでその存在が決まることをハツチは知っていた。拾い上げるのはシトリだと。そこに自由はあったのだろうか。それは本人にしか分からない。


「もう一度、問う。その役割は誰が与えたのだ。カクハヤミわたしなのか、アメノハツチだったのか? そうすることをお前に望む誰かが、そのときそこにいたのか?」

「……人が滅ぶことをが望んでいた……というのですか?」

のではない。そのときにのだろう。その手段として『神』であることを利用しようとしたのではないか」


言い回しに引っかかりがあって鈴乃には楓の言葉が意味することを一瞬で理解できなかった。「望んでいた」か「望んだ」かにどれほどの違いがあるのか。しかし「利用した」という言い方は明らかな非難だろう。ヤキハヤミは険しい目付きのまま戸惑いの表情を浮かべて黙り込んだ。それは肯定ではないにしても簡単に否定もできないことを意味していた。


「かつて、わたしは『神』であることを。それが、人々のためだと信じて、わたしの望んだ世界を創るためにのである。……しかし今ならばはっきりと分かる。『自らの想い』を自らで実現し、自分自身が満足するための言い訳に『人々の想い』を利用したのだ」

「……?!」


ヤキハヤミが唖然とした表情をする。カクハヤミという神の始まりを語った楓。しかし鈴乃にはカクハヤミが選んだ道が悪いことだとは思えなかった。たとえ楓が自身を卑しめるような言い方をしていても非難されるほどのことだろうか。本人が何を望もうが、人々に望まれて「神」となったのが事実ならば何も問題はないのではないか。しかし楓は首を振って続けた。


「その通り。それ自体に善悪などない。しかし、わたしは『神』となることをのではなく、与えられてに過ぎない。つまり、その意味を知らず、などなかったのだ。『人』として望むことと『神』として望むことは遠くかけ離れていた。『神』とは多くの『人々の想い』が創るもの。一時の個人の意思でなるような存在ではない。……よく見るがいい、お前たちの目の前の存在を」


楓はカクハヤミの「神」としての威厳を、品格を否定する。そして大げさな口ぶりのまま自らを見ろという。そこに何が見えるというのか。


「目の前の『神』なる存在が、その役割を果たせたように見えるか。果たせていたように見えているか。……お前たちに全てを押しつけて逃げ出したのは誰なのだ。隠れて覗いていたのは誰か。それはだったのではないのか?」


全ての元凶は自分なのだと言わんばかりの楓。はたしてそれが正解なのか鈴乃には分からない。夢の中でハツチとして経験したほんのわずかな断片しかカクハヤミのことを知らないのだから。


「お前たちに与えられた全てが、本来はわたしの役目だったのだ。果たそうとするのも、果たせないことを受け入れて終わりにするのも全てわたしが選ぶことだった。もしヤキハヤミに『神』としての使命が与えられて、果たせなくなったとしても咎める者などいないと断言しよう。まず咎められるべきわたしがその咎を受けずにいるのだから」


楓の本音なのだろう。「全部にけじめをつける」と楓は言っていた。ハツチがシトリを呼び戻した責任も、シトリが人の滅びを選択した責任も、始まりの自分が引き受けるべきだと。しかし事態はとうの昔にカクハヤミの手を離れているのだ。自らは依り代を持たない亡霊に過ぎない。対して荒魂のヤキハヤミは実体を持った「神」である。ハツチの協力を得ても消えてなくなるまでのわずかな時間で何をするというのか。どうやってヤキハヤミを従えるのか。もしそのすべがあったとして何ができる。


「まだそんなことを言っているのか、カクハヤミ」

「……それはあまりの言い様です! わたしにとってカクハヤミ様はどなたよりも立派な『神』でした。それはいるのです。これ以上カクハヤミ様を貶めるようなことは……」


ハツチとヤキハヤミが、鈴乃と直日の声で言った。


「この世ではないところにカミが還る場所がある。――わたしはハツチとともに行こうと思う。ヤキハヤミ、お前も来てくれるならわたしは嬉しい」

「それは……っ!」


できない、のだろう。いわば「神」の自死だ。力尽きて遙か昔に消えたはずのカクハヤミの和魂にぎみたまの欠片。天津神の道を外れて自らその道を選んだハツチ。ヤキハヤミにはふたりに付き合わなければいけない制約もない。


「……違うな、わたしは嘘ばかりである。この今になってもまだ、誰かが来てくれないと寂しいなどと言っているのだな」


楓はカクハヤミの威容のまま、肩を落として俯くと大きなため息を吐いた。そして、その容貌に似つかわしくない楓の微笑みを浮かべて言った。


「……鈴ちゃん、ナオくん。まだちゃんと聞こえてる? わたしはふたりに出会って、もう一度『人間』として生きられるような気がしてたんだ。とても楽しくて、このまま穏やかに暮らせたらいい……なんて思ってしまった。それが、ずっとふたりを苦しめていたのにね」


突然の呼びかけに鈴乃は戸惑う。ずっと楓がカクハヤミとして、楓という存在として後悔を語り続けている。「それは違う」と、「本当にそうなのか」と、声をあげて楓の自分語りを遮りたい。しかし鈴乃には身体の自由がなく、表情を変えることも答えることもできないのだ。そんな鈴乃の思考に呼応するように、打ち切るかのようにハツチが鈴乃の声を操ってヤキハヤミに問いかける。


「どこまでも情けない『神』だな。……仕方ない、わたしは付き合ってもいいと思っているが、お前はどうするのだ『シトリ』」

「……!」


ハツチの呼びかけにヤキハヤミは動揺を見せた。それは荒魂ヤキハヤミではなく「シトリ」の名で呼ばれたからだろう。ハツチはひとりの人間、シトリとしての返答を求めていた。もう一度、間違えてしまった過去をやり直そうとしているかのようにも感じる。


「……わ、……わたしはっ!」


ヤキハヤミが視線をそらせ俯いて、彼女シトリが両手を握りしめるのが見えた。ゆっくりと黒い光がヤキハヤミの周囲に渦を巻き始める。俯いたその双眸が輝いて、赤黒く妖しく瞬いた。しかし鈴乃の身体は動こうとしない。楓もその様子を力なく見つめているだけだ。静観するということなのか。鈴乃はその場に満ちる禍々しい妖気と先の読めない状況に心が震えて怯えていることを自覚する。


乱れた渦が秩序を持って動きだす。水平方向に変化して鋭利な刃を持っているような渦巻きに変わる。黒い光が明るさを振り切って輝きだす。その光は夜空を灼く月の色……。


「わたしは荒魂『ヤキハヤミ』です。……しかし、それ以上にカクハヤミ様の巫女、『シトリ』なのですね。――わかりました。……わたしも、ともに参りましょう」


ヤキハヤミ――シトリは観念したように顔を上げると、悲しく笑った。まばゆい旋風は空間にほどけて消えていく。シトリの表情が、鈴乃にはいつもの直日の表情と重なって見える。当然だ。元の身体は直日のものなのだ。


「ハツチ様。……もう、嘘はいやですよ?」

「嘘ではなかった、のだが。……ああ、そうだな。ずっと一緒だ、シトリ。カクハヤミがどう思うかは知らないが」

「……わたしは、ことならば、得意だぞ」

「火の起こし方も知らない成り損ないの『神』なのに、か」


楓が憤然とした表情で鈴乃を睨んだ。もちろん言ったのは鈴乃ではないし、楓の視線の先にいるのはハツチだろう。


「……おやめください、カクハヤミ様」


シトリは、ヤキハヤミの顔を内にしまい込むと呆れた表情を作って諫める。


「ああ、これで孤独ではないな。……シトリも、この程度の強請りに応じているようでは、『神』を名乗るには、まだまだである」

「カクハヤミ……いい加減にしてくれないか。とても神経が持たない」


得意気な楓に対して、鈴乃のハツチがため息をつく。シトリの直日はもう冗談を気にする様子もなく、ただ呆れたまま微笑んでいた。




紅葉の樹の赤く染まった葉がたゆたい落ちる。その下には平らかな磐座。鈴乃の記憶が確かであれば境内にそんな岩は存在しなかった。きっとこれも夢の中なのだ。ごく薄い緑色の光りを纏った平たい岩には、畏まった縄が締められて紙垂がたれている。そんな足下からの明かりにうっすらとふたつの人影が映し出されている。それは鈴乃が夢の中で見た、おそらく「ハツチ」と、火の巫女「シトリ」の姿だ。


「孤独じゃないけど、寂しくない訳じゃない。なんて今さら言えるのか……って感じだよね。うん、そういうこと――だから、わたし、いくね」


楓は何度か歩みを止めて、振り返ろうとしたのかもしれない。楓の「神域」の影響下から解放された鈴乃の身体に自由が戻ってくる。


「楓」

「楓ちゃん」


鈴乃と直日の言葉が重なった。楓はひらひらと手で扇いで応じる。


「鈴ちゃん、ナオくん、ありがとう。――さようなら」


弾けるように視界を埋め尽くした。それは夥しい数の紅葉――楓の葉だった。赤いはずの一枚いちまいが柔らかい光を帯びていて、夜空だった闇に明かりのように燦然と輝いて舞う。夜空を灼く月の光は、幾重にも重なり続けて、やがて純粋な白へと。


――そして、夜が明ける。

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