第26話 夜空を灼いて

楓とふたりで歩くのはどこか新鮮な気がした。長い間、歩くことに制限があった鈴乃には誰かと並んで歩いた記憶がほとんどない。失われた記憶ではなくおそらく最初からないのだ。直日以外の人間と関わってこなかった鈴乃には、幼い頃から時間をともにした楓とさえ思い出がないことは不思議ではなかった。歩く速度を合わせるということを鈴乃は要求されてこなかったが、可能だったとして鈴乃は誰かに合わせることをしただろうか。などと思う。


「何が希望になって、何が絶望になるんだろうって思う。鈴ちゃんにとっては、何が幸せ?」

「……希望、絶望。……わたしにとっての幸せ?」


どう答えるべきか考えてみた。楓はそんなぼんやりとした質問を投げかける。織津神社への道のりの中で尋ねたいことなら鈴乃の方にだっていくらでもある。楓には鈴乃の質問攻めをかわす意図がもしかしたらあるのかもしれない。しかしこの限られた時間の中で楓が答えられることは、きっとほんのわずか。ひとつひとつ答えて鈴乃を宥めるのではなく、鈴乃が本当はなにをどうして知りたいのか楓は整理させたいのかもしれない。いつも誰かの思いつきに振り回されているようで、気が付けばレールの上を歩かされているような感覚が鈴乃にはあった。


鈴乃が今求めているのは問題を解決して平穏な日常を取り戻すことだ。だとしても取り戻すべき今までの日々が平穏だったのだろうかと振り返ってみる。ただやり過ごすだけの毎日が穏やかだったのだろうか。どうやって耐えるのか凌ぐのか、それだけがあった。では鈴乃は全てを諦めていたのか。それが絶望だとすれば、どうしてまだここに生きていられるのだろう。頼りない何かにしがみついて鈴乃を振り解こうとするそれにでも縋って生きてきてきたのだ。わずかに残っているもの見つけて繋いで。拾い集めてきたものが希望と呼ぶべきものなのだろうか。


降って湧いた奇跡だった。失われていたものが返ってきたことは、ひときわ眩い希望に見えた。未来が突然開けた気がしたのだ。しかし奇跡は鈴乃や直日にとって喜ぶべきものではなかったことが明らかになった。そして将来のことを考えることをまたやめたのだ。それはぬか喜びで無意味なことだったのだろうか。


鈴乃が想像する幸せとははなんなのか。幸せとは富や名声ではないという。それは手段だといわれるからだ。鈴乃がずっと望んでいたものはあったかもしれない平穏。耐えること凌ぐことだけが必要とされるような毎日ではない穏やかな暮らし。鈴乃が小さな頃に失ってしまった「普通」。楽しかったり嬉しかったりしても涙が出るような毎日なのだ。それは手の届かない所にあるような気がしてして。それが今の鈴乃の想像する幸せなのかもしれない。だから奇跡でそこに立ったときに見える景色を見られたことは、全てが終わった後に鈴乃の未来の幸せを考えることがあるのであれば無意味ではないとも思う。


「わたしに、鈴ちゃんとナオくんの『』を取り戻させて」

「……」


自分の未来に「自分の未来の幸せを想像できる」くらいの穏やかな毎日があることをイメージできるだけで鈴乃は少し幸せな気分になれた。そんな日々が返ってくると疑わずに信じられるのなら今はそれでいいのかもしれない。鈴乃と楓のふたりは並んで織津神社の石段を登っていった。鈴乃と直日に希望の色をした絶望のような何かを混ぜた奇跡を与えたのは何者なのか。この先にその存在が待っている気がした。


織津神社の境内には大きな紅葉の樹と、直日の姿があった。赤く染まった紅葉は時折、風にあおられて霧で霞んだ景色に葉を散らしている。直日はこちらの方を向いたまま立ち尽くしていた。鈴乃と楓の姿を確認したのか、穏やかに微笑んだ。


「……鈴ちゃん、ごめんね。このままでは、ぼくではもう無理みたい」


弱気な言葉だと責められはしない。右目に映った直日の色はすでにはっきりとした赤だった。怒りか悲しみか声が震えている。口を結んで表情を歪めた直日。穏やかだった微笑みが悲痛に崩れていく。かける言葉がすぐに見当たらない鈴乃。楓がそんな沈鬱な静けさを破った。


「ふたりはきっかけをくれた。これは鈴ちゃんやナオくんが向き合うべきものじゃなくて、わたしの問題。……わたしの手の届かない未来に残しておいてよいものではないから」


楓は直日の姿を真っ直ぐ見つめたまま言葉を繋いでいく。楓の言葉は「手が届かない未来がある」という意味ではなく、時間がないと言っていた楓には「もう手の届く未来はない」という意味なのだろう。


「誰かに押しつけてしまったわたしの後悔……そして業。それと決着をつけないといけないから。……だから、鈴ちゃん、ナオくん、今だけ力を貸してもらうね」


楓の言葉を受けて鈴乃と直日は目を合わせる。そしてゆっくりと頷いた。楓は誰かに押しつけたのだろうか。ちゃんと誰かに押しつけることができていたのだろうか。彼女を繋いでいる軛を外し、鈴乃と直日は囚われている檻から解放される。そのためにできることがあるのなら何だって鈴乃は引き受けようと思う。


「遅すぎるくらいだよ、楓」

「ごめん……鈴ちゃん」


楓がふたりに頼んだことはひとつ。今から何が起こっても意識を失わずに自分が誰なのかを絶対に忘れないこと。鈴乃たちはそんな意識を失うような何かが起き、自分を忘れてしまうようなことがあり得る世界に足を踏み入れているのだ。


「ふたりは、今ここが生きている場所。それを忘れたら帰ってこられなくなってしまう。だからこれは、わたしからの『一番大切なお願い』なの。……ごめんね」

「……何回も謝らなくていいよ。わたしも禁を犯してしまったこと、ずっと後悔してきた。それは楓のせいじゃない」

「ぼくだってきっと、あのときは好奇心を抑えられなかったんだ。ただ鈴ちゃんに先を歩かせたのは、ぼくが臆病だったからだよ」

「その原因を作ったのはわたしだから。……でも、それってみんな、『わたしたち』3人の問題だったのかもしれないね」


肩を落として力なく笑う楓。泣き出しそうな頼りない表情で直日も微笑んだ。最初から誰かひとりで片付けられることではなかったのかもしれない。鈴乃も自嘲するしかなかった。


楓が、鈴乃と直日に目で確認する。心の準備はできているか、と。目を閉じてゆっくりと息を吸って吐いた。心を整えて鈴乃は目を開く。鈴乃と直日はふたりで楓に大きく頷いて応えてみせた。


姿勢を正して楓が真剣な表情に戻った。そして、それは楓の何の予備動作もなく始まる。


周囲の景色が暗転した。昼が消えて現れたのは夜。ぐらりと何かがずれる感覚とともに身体にかかる重力が増加する。自覚したときには身体の自由も失われていた。景色が背景の裏側へ溶けていく。そんな光景に鈴乃は見覚えがあった。夢の中でアメノハツチたちが「神域」と呼んでいたもの。しかし楓の言葉を思い出して鈴乃は訂正する。これもいわば「夢」なのだ、鈴乃のいるべき場所はここではない。


空間が水平に回転する感覚とともに、長い髪がふわりと舞い広がる。栗色だった楓の髪と瞳から、その色が抜けていく。そして赤い輝き。赤い瞳、煌めいて揺れる銀色の髪へとその姿を変えた。


「――我が名は、『クラソラ耀大神オオカミ空灼ソラヤ速御神ハヤミノカミ』。古きものよ、我が別霊よ、その名とともに恭順の意を示せ――」


瞳の赤がひときわ鮮やかな光を放つ。空間を支配する主が降臨した。カクハヤミノカミ――銀色の髪の楓は、仰々しく名乗りを上げて鈴乃と直日に向かって告げる。楓の周囲からは大気が押しのけられて突風になって広がった。


鈴乃は身動きが取れず喋ることも出来ない。楓の名乗りと呼びかけは鈴乃や直日に向けられたものではなかった。大気が振動する。そして鈴乃は自分の声を聞いた。鈴乃の意思を離れて鈴乃の声が楓の呼びかけに応えたのだ。


「……久しぶりだな、カクハヤミ。……わたしには、お前が望むような未来を作ることはできなかったのだな。はじめから。……申し訳ないことをしたと思う。――我が名は『倭文しづみこともちあめ羽槌はつちかみ』。その意に従うと主之神ぬしのかみに申し上げる――」

「ハツチよ、違うのだ。わたしはこのようなものを残すべきではなかった。わたしが残してしまった禍根なのである。誰にも引き渡してはいけなかったのだ……悪いが、ハツチよ、後の始末に付き合ってもらうぞ」

「ああ、もちろんだ。『大神おおかみ』らしいところを見せてもらおうか」


現実にいるのは鈴乃と楓。しかしそのふたりの会話ではない。ハツチとカクハヤミの会話なのだ。そしてカクハヤミとなった楓とハツチの代理である鈴乃の視線が直日に向いた。直日もカクハヤミの呼びかけに応える。


「……わたしはかつて、ただ『シトリ』と呼ばれ、カクハヤミ様の巫女だった人間なのですね。けれど今は違う。――『クラソラ耀大神オオカミ空灼ソラヤ速御神ハヤミノカミ様の、荒ぶる別御霊わけみたま』。それならば、『速御神ハヤミノカミ』と名乗りましょう――」


直日の声で名乗った別御霊は真っ赤な瞳をこちらに向けた。髪の色も銀色に変化している。それはシトリがカクハヤミを受け継いだ証なのだろうか。周囲から滲み出る黒く輝く光が辺りにじわりじわりと広がっていく。カクハヤミの白い輝きは重さを感じない透き通った光だったが、黒い光は強引にそれを引き剥がして削り取っていく。


楓の姿は現実感のないふわりとしたものなのに対して、直日の身体には実体がある。鈴乃の夢の中でハツチの兄弟子が言った「器を持たない古きものは力を失って消えるのみ」という言葉。それは「器」……つまり、依り代の有無が神の在り方を変えるということなのかもしれない。直日の姿をした目の前の存在は、依り代を持っていて力を失わない「神」――。


――荒魂アラミタマ、ヤキハヤミだった。

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