第25話 私に力を貸して

「大丈夫か?」

「うん、だいじょうぶ」


横目で様子を窺う縁司に直日は目を合わせずに応えた。言葉通り、直日の様子はいつも通りだった。ずっと一緒にいた鈴乃が見逃してしまうくらいに。右目で覗いて確認した直日の色は薄く赤を帯びている。それはつまり、「大丈夫」ではないということ。


どうすればいいのか。周囲にも本人にさえも分からない変化。自分が正気を失いつつある自覚はなく、突然に問題が表出する。現実的には精神の変調として扱われるのだろう。言動を考えれば、それは鈴乃も同じだ。ふたりが同じものを見ているのだとすれば集団妄想のようなものなのだろうか。


帰りは鈴乃が電車を一本遅らせて、直日は縁司が自宅まで付き添うことにしていた。そんな綻びだらけの計画を立てるくらいには不穏だった。次の電車を待つには本数も少なく、縁司にかける負担も大きいことを石名原が指摘して、結局、彼女が3人を近くまで送ってくれた。正直なところ、帰りのことはもちろん明日のことさえもまともに考えられていない。


直日と縁司のふたりを先に降ろす道順を選んだ石名原。しばらく無言だった鈴乃と石名原。織津神社の下の広場に車が止まる。鈴乃が石名原にお礼を言って車を降りると、続いて石名原も車を降りた。


「……うん、『追いかけないで』って言われたら、『追いかけたくなってしまう』よね」

「……石名原さん?」

「えっと、ドラキュラみたいななにか?」


カリギュラ効果だっただろうか。いや、そうではなくて。


「うん、わたしも『織津の神様』にご挨拶しておこうと……って思って」

「……?」


鈴乃の右目には深緑色に滲んだ石名原の姿が映る。虚空を見つめるその顔には微笑みが浮かんでいた。穏やかにみえる表情はどこか挑戦的にも感じる。見えないものが見えたとしてもその意味が鈴乃には分からない。分かるのは石名原が織津の神様に挨拶以上のことを言うのではないかということだけ。一般的には目に色が映らなくても気付くべきなのかもしれない。それくらい鈴乃は人の気持ちを見落としてきた。


「もうすぐ夜だからね。……速瀬さん、またね」


石名原は言い残すと鈴乃の方を振り返らずに車を離れる。遅れて車のドアがキーレスでロックされる。石名原は鳥居をくぐって参道に消えていった。いつものようにゆらゆらと歩く姿を見送ってから、彼女が織津の神様になにを言うのか確認しておくべきだったかもしれないと思い至った。しかし追いかけて尋ねたところで石名原は答えるだろうか。神様との対話を邪魔しようとまでは思わない。鈴乃は誰もいなくなったその場を後にする。もうすぐ夜だから。




うまく眠りにつけない。気にしなくなっていたはずなのに最近になってまた恐ろしさを感じている。脳裏をよぎるものが過去の幻から今の現実に変わったからだ。どうやって眠っていたのかを思い出さなければいけない。そんなふうに思うほど、意識ははっきりとしてくるものだ。


暗闇に鋭く輝く赤い光がふたつ。それが瞳なのは分かっていてもイメージしてはいけない。鈴乃の考えとは裏腹に、赤い眼光は夢で見た遠い過去の火の巫女の亡霊と重なって、正気を失った直日の表情と重なる。「追いかけている」のではない。「追いかけてしまう」のだ。


息苦しさに鈴乃は自分の首に手を当てる。残っている感覚を思い出すだけで息が詰まる。そのまま呼吸が止まってしまえば鈴乃は眠りに落ちることができるのかもしれない。ゆっくりと絞まっていく感覚だけがあって、いつまでも息の根は止めてはくれない。強張った身体に寒さを感じる。鈴乃の瞼に映る冷たさを感じる凜とした姿。その内側には見えない熱が隠れていて膨張しては収縮し、脈動しているような感覚が伝わってくる。表に出れば凍えた身体を暖める光ではなく一瞬で存在を焼き消してしまう閃光になる。その存在の怒りが限界を超えたとき訪れる現実だ。


ただずっと待っているだけならば、いっそひと思いに消し去って欲しい。そんなふうに考えても、それでも自分に向けられることになる怒りが恐ろしいのだ。「ひと思いに」なんて期待ができるのだろうか。積み重なった怨念が計り知れない。背負っている悲しみの深さに想像が及ばない。控えている怒りにじわりじわりと削れていく精神力。声をあげることや何かを訴えることはできない。見下ろしている存在が審判を下すときを膝をついて待っているだけ。それ自体がすでに罰の執行にも思えた。


泣けばいいのだろうか。憤ればいいのだろうか。赤い瞳に捕らえられて身体が動かない。叫ぶことも、逃げ出すこともかなわない。消耗とともに言語を使った意味のある思考を失っていく……。


――わたしは、ふたりを守りたい。


声が聞こえた気がした。ふたつの瞳の色に黄色が混ざって明るい朱色に変化した。尖った眼光は輪郭が滲んで「輝き」から穏やかな「明かり」へと変わっていく。それは一面の暗闇を灯す篝火。明かりは辺りに優しく広がって温もりをもって鈴乃の周囲を暖かく照らし出す。まるで陽の光。しかし肌に刺さる感覚はない。これも同じ月の光なのだろうか。


重い音とともに振動が広がった。


半覚醒状態だった鈴乃は大きな揺れで目が覚めた。地震なのか。最近感じた中では一番大きい。鈴乃が咄嗟に上半身を起こしたときには揺れは止んでいた。


「……違う」


照明の笠が動いている。まだ揺れているのだ。まるでスローモーションを見ているようで異様だった。船の上にいるかのようにゆっくりと床が上下している。


鈴乃の体感で数十秒の間だろうか。粘るように動いていた遅延する世界が元の動きを取り戻す。土間の方で何かが落ちて転がる音がした。地震の揺れはなく、残ったのは余韻だけだ。天井からぶら下がった笠だけが揺れている。鈴乃はもう直感的にこれは自然現象ではないと判断した。


起き上がると、できるだけ冷静に身支度を済ませて鈴乃は家を出た。おそらく今なら会えるだろう。いなかったことになってしまった彼女に。




「ひさしぶりだね、鈴ちゃん」


神河に架かる橋の上に楓の姿があった。上流を見つめたままのその表情は物知り顔でたとえ話をするときの顔だ。


「楓、説明して。分かることは全部。……どうしてこんなことになってるの?」


自分で口にした「こんなこと」に何が含まれているのか実は整理ができていない。鈴乃には本当に「なっている」のかの判別も妖しいのだ。


「……どうして、かな。それはわたしにもわかんないな……でもね、もう時間がなさそうなんだ」

「時間がないって、何の? ……こんなところで山を眺めてるのに」

「『わたしがいなくなるまでの時間』かな。……途方に暮れたとき、遠くを眺めたい気分になるよね。それに、わたしは鈴ちゃんを待ってたんだ」

「……」


宮ノ下は山に囲まれた集落だ。眺められる遠くの風景といえば谷にひらけた川沿いの景色か、どこまでも続く空だろうか。思い返す記憶に楓が家を訪ねてきたシーンが無い。それも鈴乃の中から無くなってしまったのか、それとも最初から無かったのだろうか。


「楓は、ちゃんと、ここにいるよね?」

「うん、ここにいるよ」


楓は鈴乃の方に向き直った。わずかに残っている記憶の中でも楓は一番真剣な面持ちでもって鈴乃に言う。


「わたしに力を貸して欲しい。ちゃんと、全部にけじめをつけるから」


全部に。それが鈴乃の想像していた全てかどうかは分からない。けれど、楓は丸ごと何かを知っているのだ。おそらくそれは鈴乃の求めていた全て。そんな気はした。

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