第22話 未来

正しいことだとは思っていない。ただ、諦めないことを誓ってその通りにした。繋がるものは希望か復讐か。大気と大地が振動して、現実と「神域」が滲んで混在していた。夜空には月。それも霞んで見えるほどの白い光が辺りを満たしていた。


「わたしは、わたしは……。まだ生きているのですか」

「見えていないのか」


知っていた。反魂法は人を生き返らせる方法ではない。人を人でないものにするだけ。そして、何になるかは思いが決める。向き合う互いが光りを背負って、自分の影を相手の姿に映している。


「ハツチ様。わたしは人が憎いです。わたしから全てを奪い、閉じ込めて利用して、それでもまだ足りないと言う。祭り上げておいて裏切られたのだと言う。……わたしは、そんな『人』という存在が許せません」

「……そうか」

「ハツチ様。わたしに命じてください。『人を滅ぼせ』と」


人でなくなったシトリは微笑んだ。輝きを失った瞳に映っているものはなんだろうか。シトリの亡骸に返ってきたものはシトリの魂には欠けていて、大きすぎた。人を信じて裏切られて憎んでいるのはシトリ自身だ。そして、それはハツチだってそうだ。


自分を咎めてくれるのではないかと、ハツチはどこかで期待していた。シトリは真っ直ぐにそれでも信じることをやめてはいけないと。目の前のシトリには足りないものがあって、それはシトリではないのかもしれない。しかし、自分の中から何を残し切り捨てるのかを選べるのもシトリだけだった。そのシトリが求めるもの。


「そんな命令はできない」

「……わたしでは力が足りないと」


張り付いていた微笑みが消える。凍てつくような空気の中、一切の表情を失ったシトリが虚空を見つめて呟いた。背後には冷えた輝き。夜空の星を焦がす熱を感じない光。浴びたものは、熱さを感じないまま焼けて塵も残さずに消滅する。ハツチはその様子を目の当たりにしていた。しかし人を滅ぼすに充分な力があるかどうかは問題ではなかった。シトリが求めるものは本当にそれでいいのか。


「そうではない。それが、お前の望みではなかったからだ」

「わたしの望み? 『わたし』とは誰ですか。……ハツチ様はどちらにいらっしゃるのですか?」

「ここにいる。お前の目の前だ」


ハツチの姿が見えていないのだ。開かれた瞳には赤い火が灯って、シトリの存在が「人」でから離れたところにあることを示している。灯火は揺らいで色を変えていた。それは紅葉の赤。蛇神の赤。焔と鮮血の赤。一点を見つめたまま何もまだ見ていない。


「わたしは、わたしの望みが思い出せません。わたしは何を望んでいたのですか。わたしとは誰なのですか? ……この、まるで、人のようなこれは?」


思い出したように自分の両手に視線を落としたシトリ。大気と大地の振動が大きくなる。まだら模様だった背景が神の領域へと様相を変えていく。


「神の名」の力で魂を呼び戻すことは禁じられているはずなのに広く知られていない。それは禁じるまでもなく不可能だからだった。いくつもの困難な条件が揃わなければ、試みることもできない。だが今、このときにそれは揃っていた。できる者がいて、できる「もの」があった。揃えてしまったのだ。


しかしそれでも不可能だということか。シトリの心はあまりにも清くて純粋だったのかもしれない。たくさんのものが欠けて落ちていったのだ。強くて堅すぎる心はこの世界に返ってくるには脆すぎたのかもしれない。


「……そうだ。お前の名は『シトリ』。わたしもお前も、『人』だ」


自分が何者かを切り捨てようとしている。それとも魂を繋いだ力が強すぎたのか。


「わたし……が? ――そ、それはっ!」


ハツチの言葉の意味が伝わったのかシトリは動揺をみせる。目を見開いたまま頭を抱えた。「人」でなくなりつつも「人」であることを自覚できるか。「人」であることを繋ぎ止めてしまえば憎しみはどこへ向かうのか。ハツチもシトリも「人」である。つまり憎しみが自分自身へも向かうのだ。憎いのは誰かを問うのではなく、自分が何者なのかを繋ぎ止めてくれたなら……。


「落ち着いて、考えて答えて欲しい……。シトリ、お前は人として穏やかに暮らす気はないか」


シトリが意識から何を拾い上げるかでその存在が決まる。平静を取り戻したかのように落ち着きを取り戻すシトリ。その目は遠い昔を思い出すかのように虚空を見つめている。答えは返ってこない。


ハツチはシトリの「人」としての記憶を代弁できない。何が残り、何が失われていくのかを知らない。ほんのわずかな間、ハツチとシトリ、カクハヤミと過ごした時間。シトリが人だったことを覚えているだけ。人であることを選べなければ、荒ぶる神となってしまうかもしれない。


カクハヤミはシトリに人として自由に生きることを望んでいた。シトリは人として自由に生きただろうか。ただ、「火」の巫女として命を失っただけではないか。それは本当にシトリの望みだったのだろうか。あったはずの未来を消し去ることを、ハツチは分かっていて後押しした。ハツチがいたからこそあった道なのではないか。


「シトリ、お前が祈った平穏と安寧を。わたしとでは難しいことか?」

「いいえ、ハツチ様。それは、とても幸せなことに思えます」


こちらを向いたシトリは笑顔で答えた。けれどその瞳は赤のまま、目からは涙が溢れ出す。届かないのか。いや、届いていてもそう答えるのか。真っ直ぐにこちらを見つめるシトリの視界にはハツチの姿が映っているのかどうかは分からない。


翳っていくシトリの表情に、赤い光がふたつ。蛇神の眼光だった。


「わたしは……。わたしが、『人』ならば、わたし自身が許せません。全てを平らげて、わたしも滅びましょう」


シトリは純粋なまま醜いものを見つめ過ぎたのかもしれない。シトリの言葉をハツチは否定できなかった。ハツチ自身もそうなのか。


細い糸。その先に何が繋がっているのかは分からない。だから手繰ってみようと思ってしまう。糸は強く引っ張れば千切れてしまう。その先にあるものが「希望」でも「絶望」でも。ただ目の前に転がっている可能性を、乱暴につかみ寄せるだけでは未来にはたどり着けない。

ハツチもカクハヤミも同じだ。自分自身が、ただそうしたい。それだけだったのだ。


世界にこの思いを残すべきか、残すべきでないか。ハツチは自分自身に問い、選ばなければいけない。しかし迷いはなかった。ここまで来てしまったときの答えはすでに用意ができていたからだ。


「シトリ。……お前がそれを選ぶなら、わたしもともに行こう」


シトリに滅ぶことを選ばせたのはハツチだ。そして世界である。


人は何かを期待されて生まれてくるのだろうか。誰しも気が付けばそこにいて、役割を与えられていて、そして応えようとし、ときにそれを拒もうともがく。そしてどんな結果になろうとも、その先には約束された死が待っている。あまりにも理不尽で、また救いでもあった。人が終わりを迎えた先には「希望」があるのだろうか。見てみようと思う。その先を。


「……っ?!」


金色に輝く剣が、ふたりの身体を貫いていた。もう決して抜けない針。アメノハツチの糸が幾重にもその針ごと色の分からない運命をさらに縫い付けていく。幾重にも。幾重にも……。剣が、「神の名」の身体に致命的な穴をあけた。ハツチは自分の一生を終わらせることを選ぶ。そして、自らの過ちでシトリを二度、殺したのだ。

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