第21話 剥奪

諦めないことが明日へと繋がる。それは希望だろうか。絶望は考えることをやめたとき訪れるという。はたしてそうなのだろうか。今ここにいる理由はあった。実行することで何になるのかは分からない。しかし、目的はそれくらいで充分なのかもしれない。ハツチには何が信じるべきものなのか分からない。もう意味などいらない。


「神」は何に祈るのだろう。ハツチはそれを知らない。


かつて主が鎮座していた大洞の奥に薄暗い小さな石室があった。つまり、そこは住処だったときからすでに墓だったのだ。主は「神」であった頃から自分の最期の場所を用意していた。役割をやり通す気持ちが尽きて、折れたからやめたわけではない。最初から降りることを決めていたのだ。なんと逃げ腰なのだろう。以前のハツチならあっさりと否定できた。しかし今は、そんな逃げ出したいような気持ちも分かる気がする。


「人がなしたことを、神の意志だというのであれば、その『神』を呼べ。わたしが……。わたしが……」


恨み言をハツチは否定する。お前のような臆病者になにができるのかと。しかし、そんな言葉は相手をかすりもせずにそのままハツチへと返ってくるのだ。目の前には両腕をついて蹲ったまま、怯えるようにひとりの娘が、しぼり出した声にならない声で何かを呟いていた。目の前の床には変色した護符が転がっている。モミジの葉だった。小さな石室には真っ黒になってしまった「カエデ」が他にも落ち葉となって散らかっている。


最後に自身の命を賭けてまで護ろうとした大切なものがあった。それを託した相手がこんなに簡単に大切だったものをなくしてしまったのに、もう責めもしない。分かっていたことだとでもいうのか。ハツチの受けた痛み、苦しみ程度では共有するに値しない。遠く及ばないと言われているような気さえした。


――大切なものを失って嘆くくらいなら、最初から自身の持てる力を振るって戦えば良かったではないか!


ひとり置き去りにされた気がして、ハツチはそんなふうに叫びたくなる。しかし、戦いを選んだがゆえに訪れた現実を目の当たりにした今、本当に彼女が戦えば良かったのかどうかは分からない。選択の結果は違うのだろう。けれど異なった未来が持つ意味に、もう大きな違いが読み取れないのだ。目の前にいる者がかつて大きな力を持っていたことを知っているから憤りを覚えるだけ。「お前ならうまくできたのではないか」という言いがかり。八つ当たりにもならない。


「わたしは……同じ過ちを、また繰り返したのだ。……目の前の命を生かしたいが為に、皆の命を奪い、里を滅びに導いた」

「お前が、シトリを器として受け入れて、『神』の力を取り戻していれば、里を救えたのか」

「……わからぬ。……そうであったかもしれぬし、それでも及ばなかったかも知れぬ」


顔を上げず頭を垂れたまま動かない。足も立たなければ頭も上げられないほどに弱ろうとも、まだ息はある。どうして諦められるものか。できることがあるのではないか。そして、無力さを思い知って後になって悔いるのだ。長い時間をかけて目の前の存在は自身を責め続けてきたことを知っている。ハツチに咎める言葉があったとしてもそれを向けるべきは目の前の相手ではなく、今は自分自身だろう。言葉にはならない。諦められないからこその涙なのは分かっていた。この娘にはもう「人」としても何も残っていない。四つ足で地面を這って失った可能性を追いかける。終われずに呻き、生にしがみつく亡者だった。


「……『神の名』を与えられてから今まで、わたしがその名に相応しくあれたときなどなかった。……愚かなのは、いつも、いつのときも、このわたしだったのである」


それは違うのだと最後に気休めをいうべきなのかもしれない。しかしできない。責められるべき存在かどうか、「彼女ができることを尽くした後の今」なんてわからないのだ。


ただ、ハツチと出会うこの日まで彼女が繋いで残ってきたものはある。それは「もの」なのだろうか。残されている「もの」なのだ。それは彼女にはもう価値を失っていても、ハツチには残っている「もの」。わずかに抵抗を感じるのは心があるから。両手に刃槌ではなく、右手に黄金の剣を握っている。その手に力が入った。


「カクハヤミ。お前の首、もらい受ける」


ハツチの宣言に、カクハヤミが応じる。


「……そうか。……お前は、諦めぬのか」


頷いて肯定していいのだろうか。きっとハツチに対しての問いではない。迷いの最中、それでも彼女に希望の火が灯った気がした。暗く黒く、気配にもならずに沈んでいた彼女の色が、ほんの少しだけ赤みを帯びた。過ぎ去った季節を戻すように散り際の覚悟をよみがえらせて、カクハヤミが紅葉の色をみせる。


「ああ。……わたしは、お前に『わたし』を譲ろう。この希望と絶望を。……つらい役回りをさせてしまう。しかし最後に、わたしは良き友人に出会えたのだな。わたしは――」

「……もういい、カクハヤミ」


ハツチは両腕でカクハヤミを抱きしめる。跪いて彼女の音を聞く。熱を確かめる。暗き夜空に燦然と光輝いた明かりの神、カクハヤミ。その声を潤ませて何かを言おうとしていたが言葉にはならなかった。ただ、涙に暮れるだけの彼女の心の内にどれだけの感情や言葉が浮かんで消えていくのか、ハツチには想像することができない。


この世に「神」などいない。なにかを期待されて、与えられた役割を演じようとするものがいるだけ。本当の名前をハツチは知らない。与えられた名前を背負ってひとりの人間が、いくつもの希望と絶望の中を彷徨ってようやく今に辿り着いた。まずそんな忌まわしい役割をハツチはここで終わりにする。


ふいに思う。役割など誰かに押しつけて、彼女もただ人として生きて死ねば良かったのではないか。そんなカクハヤミの姿をハツチは想像しようとしてやめた。選んだ以外の未来はないのだ。自分の決意を強くなぞる。他にはなにもない。もう決めたのだ。


ハツチの「天孫の証」が暗く小さな石の部屋に輝きを放ち、閃いた。

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