第17話 灯火
大洞に向かう途中、川沿いの道をそれた場所に祠がある。近付くと話し声が聞こえた。
「いえ、お気になさらずに……」
「うまくいかないものだ……」
何かを企てて失敗したようなやり取り。ハツチは気配を殺して木の影から確認してみる。
胡坐を組んで地べたに座り込んでいるのは山の住人とは思えない髪の長い女性。頬杖をついてそっぽを向いていた。傍らにしゃがんだ姿勢で控えているのは村の装束の娘。笑顔だが、眉が困っていた。かける言葉を選んでいるのかもしれない。
こんな様子が人目に触れたなら、たちまち大騒ぎになるだろう。ふたりが何をしていたのかは知らない。問題になるのは企ての内容ではなく、存在自体なのだ。
不機嫌そうな表情で座り込んでいる女性。顔形に人間離れした妖しげな美しさはあるが、その所作はさっぱり美しくはなかった。しかしハツチが人目を気にするように指摘しなければいけない理由は振る舞いではなく、妖しげに見える顔形の方にあった。人間離れしているのは当然だ。人間ではないのだから。
「道端で何を騒いでいる。人が通ったらまずいだろう……」
「人が通れば気配で分かる。そして騒いでもおらぬ。問題はない」
顔はそっぽを向けたまま蛇神が答える。白銀の髪と朱色の瞳が印象的な人のようななにか。左肩の傷は見えないが、纏った衣は大きく裂けたままだった。
「遠見もある。用心するにこしたことはないと思うが。……というよりも、本当に何をしていたんだ?」
「……」
カクハヤミの目の前には火きり臼と木の棒。
「火のおこし方を教わっていたのです」
カクハヤミが黙秘しているところを、あっさりとシトリは答えてしまう。シトリは巫女として隔離され、必要なことを本当に何も教わっていないのだ。ただ、状況を見る限りでは、教える側を買って出た方もよく分かっていない様子だ。
「……お前は『火』の神ではないのか?」
「い、いけません! カクハヤミ様、力をつかわれては!」
ハツチの言葉に一瞬だけカクハヤミの瞳が赤く光ったが、シトリが間をおかずに制止した。それはただの感情表現だとハツチは知っている。カクハヤミには火を起こす力も残っていないと分かっていて、慌てる必要はなかった。
しかし、改めてハツチは言葉にしてみて理解したこともある。カクハヤミは「火」の神だからこそ知らないのだ。人のやり方など自然の法則を自在に操れる存在にとって、全く不要なものなのだということ。カクハヤミから道具を取り上げて確認した。
「……これは付かない。湿気っていて、だめだ。カクハヤミ」
大洞の主の住処には不思議な力でカビこそ生えていなかったが、相当に湿度は高かった。残されているものも姿形を留められてはいたが、あらゆるものが湿気っていて使い物にならないものもある。
ハツチがおこした火が焚き火になって揺れている。生きていくための常識がないのはシトリもカクハヤミも同じだろう。だが、その片方は、かつての「神」の力を失い命ももうすぐ尽きるのだ。カクハヤミが、シトリの将来を人として生きているハツチに託した理由が、今さらだが少し分かったような気がした。
「……アメノハツチノミコト」
カクハヤミが隣で赤い瞳をハツチに向けた。
「その呼び方はやめてくれ。わたしも、お前の長い名前を詠唱しないといけなくなる」
「では、ハツチよ。……本当に、良いのか」
改めて良いか確認されても選んだあとだ。変えられないし、もちろん変えるつもりもハツチには全くない。
「目の前にいるのは『天の末裔』などではなく、ハツチという名の『人』だと思ってくれていい。『神の名』の首を取る理由はもうなくなったということだ」
「お前も愚かで、憐れであるな。わたしに残されている時間に、もはや意味などないというのに……」
「神の名」の首がひとつ。アメノハツチノミコトにとってカクハヤミの命は、数えるだけのもの。しかしハツチはカクハヤミに人の姿が見える気がする。だからできなかった。「神」を騙る「神の名」の首を刎ねられなかったハツチには、
「……カクハヤミ様。どうか、わたしの身体をお使いください」
「お前たちには、世の理が分からぬか。できぬと言ったはずである。興が冷める……やめよ」
シトリの言葉に不快感を隠さない。そのままカクハヤミは俯いた。彼女のいう「世の理」とはなんなのか。もとより興が尽きない様子でもなかったことを考えると、カクハヤミはずっとその「世の理」と向き合ってきたのだろう。俯いたカクハヤミの表情は分からない。
「……怒っているのか」
「だとすれば、わたしの怒りは全てを焼き払うだろう。しかしそれには
カクハヤミは、独特の回りくどい言い回しで、ハツチとシトリに「怒っていないから気にするな」と伝えているのだ。人を焼き払う日などカクハヤミにはもう来ない。それはカクハヤミ自身が言っていたこと。
「……シトリ。やはり、お前はこの者と行け」
大洞の主、蛇神カクハヤミは、しばらく思案した後、はっきりと自らの巫女にそう命令した。
その後、川辺でハツチはカクハヤミと幾つかの言葉を交わした。ハツチはカクハヤミの思いを聞きたかったが、カクハヤミには今さら中央からやってきたハツチに対して聞いておきたいこともないのだろう。ほとんどハツチの方が尋ねて、カクハヤミが答えるというやり取りになった。
大昔にはこの場所にも大きな村があったのだという。カクハヤミはその村に降りた神だった。近隣の村、たくさんの民衆からの信仰を集めて大神となったカクハヤミだったが、初めて意思を持ったのは人の依り代を与えられてからだといった。巫女の身体と記憶を引き継いで「神」となったカクハヤミ。当時は自分が誰なのかと問われても分からなかったそうだ。「神」であることを求められて、そうなっていったのだと振り返っている。
大きな神を掲げた村は次第に国となっていった。いくつもの国が並び立った頃、神々は互いの為にに取り決めを結んだという。取り決めのひとつが「人の営みに決して介入しない」こと。その誓約の後、たちまちこの地にあった国は滅んだそうだ。回りくどい言い回しをせずにあっさりと語ったカクハヤミだったが、秘めているものがあることはハツチにも分かった。それはカクハヤミが誓約通りに一切の介入をやめたからかもしれないし、誓約を破って人に与した者がいたからなのかもしれない。
カクハヤミの記憶のほとんどが失われているという。あまりにも長過ぎたからだと言った。断片的な記憶というのは実は方便なのかもしれない。カクハヤミ自身が語りたくないものをさけている。もしかしたらそうなのかもしれないが、そこまで踏み込んで尋ねることはハツチにはできなかった。
カクハヤミは愛おしそうに野山を語る。川のせせらぎに巡りゆく季節。夜の闇にも人の暮らしの中にはたくさんの火が月の光に頼ることなく、儚くも逞しく灯っていた。ずっとそれを愛して静かに見守ってきた「神」。ハツチでなければ聞こえないくらい小さな声でカクハヤミが呟いた言葉。
――明かりが消えていく様をもう見ていたくなかった。
大切なものを、気が遠くなるくらいの長い間失い続けたカクハヤミ。その後悔に、ついに「神」であることをやめたのかもしれない。
カクハヤミから託された小さな葛籠を、シトリからハツチが受け取った。
「……また参ります、カクハヤミ様」
「もう、来ずとも良い。わたしは
「わかった。さらばだ、カクハヤミ」
ハツチとシトリは祠の前でカクハヤミと別れた。何度かシトリは後ろを振り向いて姿を確かめていた。いかに大きな存在だったのかは見て知れる。見送るカクハヤミの姿は歩みを進めるほどに小さくなっていくだろう。見えなくなってしまう前に一度だけ。シトリの仕えた「神」を心に留めておこうとハツチが振り向いたとき、その姿はすでに消えていた。
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