第15話 神意

洞窟の暗さは特に問題にはならなかった。一行のほとんどが夜目のきく者たちだということもあるが、洞窟自体がものが見えなくなるほど暗くなかった。入り口までは荒れ放題だった道も、手入れがされているかのように整っている。ほとんど劣化が見られない石で組まれた通路が続いていたのは少し驚きだった。外からは分からないが、かつてはたくさんの手が入っていたのかもしれない。このような通路の造りはハツチも目にすることは初めてだった。


珍しい「神の名」だといえる。ほとんど力を持たないのにも関わらず、今も人の脅威であり続けているのだ。かつては多くの人間を使役できたのかもしれない。心を支配する種類の「神の名」もあるが、情報に瑕疵があって、大洞の主はそれだったのかもしれない。ハツチの血にその類いは通用しないが覚えておいた方がいいだろう。たとえ終わろうとしている古い「神の名」だとしても油断はならない。


通路を進むと開けた場所に出た。丁寧に石が組まれた先ほどまでの通路とは打って変わって自然にできた大きな空洞だった。見上げるほどに天井は高く、一部が欠けてそこから光が差し込んでいる。壁面や柱が無いことなどから建造物ではないことは分かった。大洞とはこの空間のことなのだろう。であれば、その主がいるはずだ。


湿り気のある洞内の中央、光の落ちる場所に、岩ほどの大きさの塊があった。苔むした朽ちた樹木がとぐろを巻いている。それがただの樹木ではないことは分かる。わずかに残っている新芽にも勢いはなく、今にも枯れてしまいそうだった。ハツチたちはそれを枯らしに来たのだ。岩の大きさといえど、「神」を名乗るには哀れなほどに小さくて存在感もない。主の代わりに祭り上げられているのかもしれない。


――天の末裔か。……それも良いかも知れぬ。お前たちの好きにするが良い。


意味を持った言葉が聞こえた。空間に反響しないほど弱い音。しかしそれは確かにこの小さな存在が大洞の主であることを示していた。アヤツチが頷いて配下に合図を送る。言葉を交わせたとしても交わす必要がない。次の瞬間に全てが終わる。……はずだった。


「おやめ下さい」


透き通った声が背後からした。気配は全く感じなかった。誰ひとり気を緩める者のいない緊迫した場面で、背後の存在に気付けないような人並みの者はいない。なんの力も持たない無力な存在だとしても。ハツチにも聞き覚えのある声だった。しかし、こんなに良く通る声だっただろうか。一同は大洞の主に注意を払いながらも背後の人物を確認する。


「なんのようだ『贄の娘』よ」


冷ややかな声でアヤツチが問う。


「わたしは……カクハヤミ様の『巫女』です」


「神の名」の巫女だとシトリは名乗った。それは否定なのだろうか。構えた弓がアヤツチを狙っていた。この距離ではアヤツチといえど武器をを直接取り上げることはできない。おそらく通常の弓であれば訓練を受けていなければ当てられない距離だ。しかし、シトリの力で引ける弓だ。それだけで通常の弓矢だとは考え難い。


「……お前は、の生け贄に指名されているのだぞ」

「それは里が決めたこと。従いましょう。それがわたしを救ってくれるのです」


とても受け入れられない言葉だ。生け贄になることが救いだなどという思想をハツチは許さない。しかし、先んじてシトリを諭したのはハツチではなかった。


――……やめよ、シトリ。


大洞の主、「カクハヤミ」だった。しかし、シトリは即答してなおも続けた。


「いいえ、やめません。わたしは『どうしてわたしが指名されたのか』を知っています。――それは、『わたしが里に不要だから』です」


ハツチは瞬時で意味を理解するには至らなかった。里に不要とは……。


「……どういう意味だ?」


ハツチは確認する。しかし、他の者は黙ったままだ。分からないのはハツチだけなのか。シトリがハツチの言葉を受けて、そのまま続けた。


「里が都の支配下に入ることを否定はいたしません。それで里のみなが幸せになれるのなら。……しかし、前の長はそれを拒み、殺されました。……それがです」


――娘の父を殺め、わたしを滅ぼそうとしたのが誰なのか知らぬのか、「天の末裔」よ。


シトリの答えを大洞の主、カクハヤミが補ってハツチへと返した。つまり、どういうことだ。誰かがシトリの父を殺し、カクハヤミを滅ぼそうとした。片方の答えならハツチも知っている。それが同じだということか。であれば――まさか、担がれたのか。


「残念だが、生け贄になっても、カクハヤミこれを滅ぼしても、娘に将来はない」


アヤツチが苛立ちを隠さずに言い捨てた。この場の誰もが知っている。それはハツチには「意図的に隠されていた」ということに他ならない。


「……そんな」


ハツチは自分がしていることの意味を知らずにいたということか。しかし、シトリは間を置かずにアヤツチの言葉をはっきりとはね除ける。


「いいえ。わたしは『生け贄』ではありません。わたしはカクハヤミ様の『巫女』です」


――……。


カクハヤミこれが娘に何を吹き込んだのかは知らないが、『古きもの』は器となる『依り代』が用意できなければ、消えるのみ。そんな甘言に騙されるとは、憐れな娘よ。……しかし、どんな事情であれ、わたしたちに手向かうのならば仕方あるまい」

「お、おまち下さいアヤツチ様!」


アヤツチの瞳が濃緑に輝いた。カヤノアヤツチノミコトは土や植物を操る能力を持ち、祝詞言を必要とせずにその力を行使する。ハツチがシトリに目をやった瞬間、濃緑の輝きが浮かび、何もないはずの空間から蔦が出現して、槍となってシトリを襲った。


しかし、シトリを捉えるすんでのところで槍になった蔦は、弾けて消える。


――……わたしの巫女にふれるな、「天孫の僕」よ。


「カ、カクハヤミ様! いけませんっ!」


取り乱すシトリ。自らが標的にされたことに動揺するのではなく、その一撃からシトリを護ったと思われる大洞の主、カクハヤミのその行いを見て、だ。


――よいのだ、シトリ。……残念だが、お前ではとてもこの者たちとは戦えぬ。下がっておれ。


カクハヤミが巫女のシトリを護る。それは道理なのかもしれない。しかし、どうあっても相手が悪すぎる。幾多の「神の名」を葬ってきた精鋭。「神の名」たちだ。そんな粗末な力では時間稼ぎにもならない。朽ちた蛇の樹皮がひび割れてそこから光が漏れる。体躯は白。白い蛇だった。ゆっくりとその双眸が開かれる。その色は赤。燃えるような朱色だ。


しかし、精鋭たちに動揺はない。元から予定していたことに過ぎなかったからだ。カクハヤミにも覚悟はあるのだろう、冷静な響きの音で問うた。


――しかし、おかしいではないか。「天孫の僕」よ。ハツチこの者はお前たちの主ではないのか?


ハツチにはカクハヤミの言葉の意味が分からない。しかし、アヤツチにはなにかが伝わったようだった。アヤツチは表情を崩してわずかに笑うと、冷たい目に戻って答える。


「物の怪の分際で……。いいだろう、望みとあらば『天孫の剣』で葬ってやろう、覚悟するがいい」


アヤツチがこちらに視線を向けた。ハツチが目を合わせた瞬間、アヤツチの濃緑の瞳が輝く。遅れてハツチはなにが起きたのかを理解する。全身の自由が奪われた。自分の意思では指一本動かせない。……しかし、どうして。そんな問いにアヤツチが答えることもない。


ハツチの側に歩み寄ってアヤツチは手をかざした。するとハツチの身体から黄金の光が滲んで空中に浮かび上がるなにか。アヤツチの手に握られたのは光輝く剣だった。


――なるほど。お前たちはそこまで落ちぶれているのか……。祭り上げた「神」の血筋すらも利用するとは……面白い生き物である。


アヤツチは、そんなカクハヤミの言葉を最後まで聞こうとはしなかった。踏み込むと光の剣を大きく薙いだ。洞内を鋭い閃光が煌めいて、大洞の主、カクハヤミの体躯が水平に裂けていく。そして、そのまま圧力に耐えることができずに黄金の光とともに吹き飛んだ。遅れて大気が高い音が鳴った。カクハヤミだったものは、一瞬で世界から消滅した。


「……よく喋るだけの卑しきものよ。身の程を知れ」


アヤツチはそう、怒りを込めて言葉を投げ捨てた。


「カクハヤミ様っ!」


シトリが叫ぶ。良く通る声が洞窟内に悲痛に響いた。身体の動かないハツチは声を出すこともできなかった。どうして逃げなかったのだ。カクハヤミが身を賭してアヤツチを煽るようなことを言った意味が……。


――人がわたしを崇め、名を与えたのだ。……我が名は『クラソラ耀大神オオカミ空灼ソラヤ速御神ハヤミノカミ』なり。


はっきりと声がした。


――人が与えた名で、「神」として相手をしよう。


人の声だった。ハツチが知覚した瞬間、洞内に光が立ち上がるのが分かった。空に登る光の柱が洞窟の天井を消し飛ばす。ハツチの視界が真っ白になる。そして光の空間に刺さるような赤い光がふたつ。それは瞳だった。眩い光の柱の中に人の姿が見えた。だがきっと人などではない。白銀に輝く髪と、朱色の瞳の女神。それはシトリが巫女として仕える主。蛇神カクハヤミだ。


ハツチは初めて本物の姿を目の当たりにした。美しさや、恐ろしさを意識する前に感じる、これが「神」なのかもしれないという感覚。


「『神威』も『神域』も持たない物の怪が……。これでは、まるで、国の主。……大御神ではないか!」


アヤツチはそれでも状況を冷静に把握していたのだろう。自分たちが向かい合っている理由を忘れてはいないのだ。目の前の馬鹿げた存在と戦わなければいけないということをアヤツチは理解しているからこその険しい表情だった。状況を打開すべく動こうとするアヤツチ。


真っ白な光を背負ったままカクハヤミはその赤い瞳をアヤツチに向けた。瞬間、洞内の斥力が増して、背景へ全ての色が潜り込んでいく。これは、カクハヤミの「神域」か。神と対峙できる存在でなければ、「神域」の主の意思を無視して動くことはおろか、呼吸もできない。影響を受けないはずのアヤツチたちの動きが止まる。


「寝返るか? 神の名を汚す『天孫の僕』よ。しかし、わたしはくるくると手のひらを返すような心ない輩は、僕にもいらぬ……ぞ?」


恩情に縋っても許さないという意思表示だ。カクハヤミは知らないが、アヤツチは冷徹で、ときに冷酷だったが、軽薄な人物ではない。主に逆らって敵に寝返るようなことはしない。アヤツチはそんなカクハヤミの一言に激昂する。身動きのままならなかった自分の身体を能力で作り出した蔦や土で強化して、無理矢理に自由を奪還する。


「従えないからといって、駄々をこねて嫌がらせを続けるだけの下賤のものが! 負け犬が恥を知れ!」


アヤツチは力いっぱいに腕を振って、握っていた光の剣を投げる。カクハヤミは苦みを含んだ表情でわずかに笑った。剣がアヤツチの手を離れたと同時に、辺りに閃光が走る。音も色も何もない、ただ視界を真っ白に染める、純粋な白だけの瞬間。


気が付けば、壁が消えていた。カクハヤミの向いている視線の先には何もない。


以前、ハツチは師に教わったことがある。本当の「神の名」には人数や戦術はもちろんだが、地形すらも意味をなさないと。それを今ハツチは目の当たりにしたのだ。幾多の戦いを生き残ってきた精鋭たちは、ただひとつの「神の名」の純白の閃光に焼かれて全滅した。空に向けて放たれた光はかろうじて地面だけを残していたが、そこには、焼け焦げた膝から下の部分だけが残った誰かの足が、足だけで立っていた。それで、アヤツチがそこにいた証拠になるのだろうか。


これほど容赦はないのか。……そう思ったが、ハツチたちは冷酷にたくさんの「神の名」に同じことをしてきたのだ。挑んで敗れたそれだけだ。ハツチにもアヤツチとの思い出がある。しかしそれを回想している心の余裕はなかった。しかし、ハツチを拘束していたアヤツチがいなくなったことでハツチの身体には自由が戻っている。自身の置かれた状況や気持ちを整理して考えようとするハツチに、歩み寄るものがいた。それは微笑みながらハツチに問う。


「……『天の末裔』よ。お前も炭になりたいか?」


カクハヤミが纏っていた光は消えていた。その肩の根元には光の剣が深々と刺さっている。ハツチは戦慄する。この状態で平然と立っていられるのかと。しかし、微笑みを見せるカクハヤミの顔は少しやつれては見えた。ハツチが返答しないことを勝手に自らの質問に対する拒否だと解釈したのだろう。カクハヤミは頷いた。


「それは良いことだ。与えられた命は、大切にするものである」


カクハヤミは左肩に刺さった剣を、無造作に素手でつかんで引き抜く。肩から血が噴き出すがそれを気にする様子もなく、カクハヤミは剣の柄をこちら側に向けてハツチへと返した。無言でハツチが剣に触れた瞬間、剣はハツチの手に吸い込まれるようにして消えた。


「それは『天孫ニニギの一族』である証である。どうか大切に。あのような輩に貸すようなものでは……」


カクハヤミの忠告の言葉が途切れた。白銀の髪が舞って、纏っていた光をまた散らす。崩れ落ちる大洞の主。力尽きて膝をつくと、ハツチの目の前でそのままカクハヤミは音を立てて倒れた。


「カクハヤミ様!」


シトリは主カクハヤミの姿を見て絶叫して駆け寄った。ハツチはまだ、気持ちの整理がつかずに、ただその様子を呆然とただ見つめていただけだった。

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