第12話 それぞれの望むままに

神宮などは縁切りの神様だなんていわれているけれど、それは本当だろうか。神様が嫉妬深いからという理由で本当に良かったのだろうか。大事なことを見ていない気がしていた。結果を説明するために権威や信仰が必要とされることはあるだろう。その理由も想像はできる。目の前にいる人の気持ちを考える余裕がない状況だったかもしれないし、知っておくこと、知らないでおくことの量が適切ではなかったのかもしれない。しかしそれはお互いの行動の結果なのではないかとも思う。


織津のカミサマはふたりを別つのだろうか。強く結ぶのだろうか。それだってきっと、自分たち次第。天之羽槌が衣をつくるように、ひとつにするか、ふたつの端布に戻すのか。天衣無縫という。衣にならなかったものは糸に戻るのかもしれない。それもお互いが望むままに。


橋を渡って道なりに行けば織津神社の前に出る。急用ではなかったけれど、ふたりの足取りはとても軽い。気持ちがはやる以前に、失っていたものが返ってきたことは大きかった。


「なんか、焦ってない?」

「まあ、ちょっと」


鈴乃は応える。日はまだまだ高い。山の向こうに隠れてしまってからのロスタイムも考えれば充分な時間はあった。楓の言葉の真意はわからないけれど、暗くなる前に終わらせてしまった方がいい気がした。夜が来る前に。


学校で、帰り道で交わした言葉。真正面から直日の言葉を聞いてみて分かったことがあった。直日はとりあえずいい。なぜなら、向き合えば聞こえるからだ。ごまかしや取り繕いが並んだ言葉に鈴乃は本音を探していた。そんなごまかしや取り繕いだって直日の本音ではないか。どうしてそうするのかを考えてもいい。どうして正直に言えないかを考えてみてもいい。しかし、それはこちら側。直日はそこにいないのだ。鈴乃の想像を本人に確かめて導き出されるものがあれば、それだって本音だ。そうすればいい。そうしていけばいいのだ。


――どうして簡単に否定するの? 気遣いならいらない。ナオは優しいと思うけど、そういう気遣いがわたしは苦しい。だからはっきりと答えて。……苦しかった? 憎かった? 本当は嫌いだった?


――でも、苦しみの源だなんてことはないよ。そんな言い方したら苦しむためだけに一緒にいるみたいじゃない? なんで当たり前みたいにそんなことを言うの?


そうして、「なにかあったのか」という問いには、「たくさんあった」と鈴乃は答えた。


今、鈴乃の右目には直日の薄い青が映っている。優先すべきなのは映る対象ではなく、どうして映るのか。映ることの意味はなにか。その答えを知っている当人に確認するまで。


織津神社の鳥居をくぐると木陰に入る。社殿に用事はない。

待ち合わせは織津神社のいつもの場所。ふたりは石段をゆっくりと、しっかりと踏みしめて登っていく。歩き慣れた参道だけれど、ずっとその道は自覚していたよりも険しかったのだ。手すりにつかまらずに交互に出していける鈴乃の両足。直日の息も、いつものようにあがってはいない。中ほどまで登ると歩みを止める。直日も鈴乃の横で立ち止まった。見上げる先には石の狛犬。その間には神社拝殿の屋根が見えている。


用事があるのは、篠宮 楓。どうして歩けることを喜ばなかったのか。見えるようになったものを否定したのか。鈴乃はその理由をちゃんと楓に尋ねるために今ここにいる。


「鈴ちゃん。僕には本音や本心なんて、わからないよ」

「……うん」


鈴乃は頷いた。それは鈴乃だって同じだ。自分が望んでいることが、自分の意思かどうかなんて分からない。本当に伝えたいことじゃなくても言葉にしてしまう。本当は言いたいことが言葉にならなかったり。本物かどうかなんて、そんなに大切なことなのだろうか。

見えているものがたとえば作り物だとして、何が困るというのだろう。作り物だって役目をはたせば本物と同じなのではないかと思った。


ふたりは石段に腰掛けて楓を待った。




冷たさを感じるほどの風。このところの朝晩の冷え込みで境内の木々も冬を前に色付くに違いない。イチョウは黄色に、モミジは赤に、ブナの木は茶色に。緑の色が失われて葉は徐々に黄色くなっていていくのだという。しかし、赤くなる理由を鈴乃はあまりよく知らなかった。


どのくらい経ったのか。楓はまだ来ない。鈴乃はなにかあったのか確認しようと携帯電話を手に取った。昔は、この村も電波の届かない場所が多かったらしい。今は、人が住んでいる場所であればほとんどの地域で携帯電話が使えるようになった。……はずだったけれど。鈴乃の携帯電話の画面には圏外の表示になっている。意味がある行動なのかよく分からなかったが、鈴乃は携帯を少し振ってみたりして、再度確認してみたが表示は変わらなかった。


「ナオ……着信とかある?」

「どうしたの?」

「なんか、圏外になってて、着信もないみたいだし、ナオの方に連絡来てない?」


直日は首を傾げる。楓から遅れる連絡はなかったけれど、電波が入らなければ連絡のしようがない。宮ノ下地区はもちろん充分な電波が届くはずの場所。しかし使えないのなら仕方がない。もう少しだけ待ってみて現れないようなら一度家に戻って固定電話から連絡をとってみた方がいいのかもしれない。相手の電波状況は分からないけれど。


困っている鈴乃を察してか、直日が話を始めた。それで気が紛れるような状態でもないけれど、簡単にあしらってしまうまで余裕がないわけではない。


「結局、どうしたかったのかなって思う」

「……どうって、なにを?」


何の話をしているのか。

直日は微笑むと少し黙った。言葉を探すためだろうか俯いたが、また顔を上げると鈴乃を真正面に見据えて続ける。


「……自分が選んだんだよね、あの瞬間に。でも、なんのためだったのかなって。……お互いに苦しむ未来があることなんて見えてなかったから」

「あの、ナオ? 何の話をしてるのかを、先に言ってくれないと……」

「ただ、一緒に居たい人が消えてなくなってしまうのが嫌だった。ずっと、そばにいて欲しかっただけ」


風が止んだ。そうして音がなくなった空間に直日の声だけが残る。そういえば、どうしてこんなに肌寒いのだろう。鈴乃と直日に落ちる光に温もりがない。そんなことに気付く。


直日の思い詰めた感覚は伝わってくる。なにかを一生懸命に伝えたいことも分かった。しかし「選んだ」のは何で、「消えてしまう」のが何か、直日は言っていない。肝心な部分が欠けていて話の意味がこちらに伝わっていないことを鈴乃は……。


思い当たるものがあって、鈴乃はもう一度空を見上げた。ふたりを照らす光に温もりがない理由に気付く。見上げた空は鈴乃が見つけた理由が間違いではなかったことを示していた。やはり、これは太陽のものではない。冷ややかな光は――。


月だ。ふたりは今、月明かりの下にいる。しかし、「なぜ?」とは思わなかった。


――「夜」に気をつけて。


楓は、暗くなる前に帰れ、夜は出歩くなと言った。鈴乃は思い込んでいた。「夜」は昼の時間が終わって、日が暮れた後に順番に来るものだと。そういう常識、当たり前こそ、鈴乃の思い込みだった。他の可能性を見落としていたのだ。

鈴乃は直日に視線を戻す。悲しげな表情で、しかし真っ直ぐに直日は鈴乃を見つめていた。


「……本当に、手放したくなかったものはなに?」


直日は鈴乃に問う。視線を合わせたまま、じりじりと鈴乃にせまる。両手が鈴乃の視界の中で何かをすくい上げるように差し出されるのが見えた。直日の手は何をつかみ取ることもなくこちらへ。


憂いを帯びた直日の瞳だったけれど、しっかりと見開かれていて鈴乃から視線をそらすことはない。自分の身体が動かなかった。しっかりと交わった視線が鈴乃を射竦めているのだ。鈴乃の頬に触れるように差し出された直日の両手。その手が本当は何をしようとしているのかも分かった。怖れがないわけではない。けれど、それならそれでもいいと思う。


「……っ!」


鈴乃の呼吸が止まる。一気に締まる首。一瞬、揺れる前髪の間から見えた色は、激しく燃える火のような赤だった。まばたきをすることも視線をそらすこともできず、鈴乃の視界は失われた。真っ赤な直日の目が鈴乃の目に焼き付いたまま。


そうか、直日はとうの昔に狂っていたのかもしれない。

直日の両手が、文字通り、鈴乃の「息の根を止めた」のだ。


――どうして、わたしを殺すのですか。


声だけが聞こえた。鈴乃にはもう誤りを指摘することはできない。殺すのは直日で、殺されるのは自分なのだと。しかし指摘するほどの誤りではないのかもしれない。鈴乃を殺すように仕向けたのは鈴乃で、その後の直日がどうするのかだって分からないのだから。


与えられた天命がさかのぼって反転していく。傷つけたものが背負うべき罪と、傷つけられたものが背負っていたはずの罪。それも逆転していくのだ。


――どうして、わたしを殺したのですか? 『ハツチ』さま。


ずっと、その答えを知りたかった問いがあった。

今さら自問してみても答えを出す時間などもう残されていないと鈴乃は理解している。しかし問わずにはいられない――そんなものを定めたのは、誰だ? と。


もう音も聞こえなくなった世界で、導火線を走る火のような微かな光が、何もない世界にチラチラと輝いて、自分をどこかへ誘ってくれている。……そんな幻覚が見えた気がした。

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