第10話 ふえる色で映るもの
少しでも考えていれば、すぐに分かりそうなことにも思えた。
状態が悪くなって緊急なのは理解されるけれど、良くなったからといって突然来られてもどうすればいいのかは困る。あり得ない上に、それは本当に緊急で必要なのかと。
10年の間失われていた感覚が戻ったことは鈴乃や直日にとってはなによりも優先されることだった。けれど、他の人にとってはそうではないということ。そのくらい誰も冷静ではいられなかった。当事者はもちろん、残るふたりも。
縁司も石名原も長い待ち時間を一緒にいてくれた。
それでも診察は入れてもらえた。縁司は不満をこぼしながら、「いい結果が出るのは分かりきっていても、確信になることが大事」と言って待合の座った場所をほとんど動かずにじっと座って待っていた。石名原は「ふたりが元気でいられる理由になるのなら、いいね」と呟いて廊下をぐるぐると行ったり来たりした。鈴乃と直日の検査は、日を改めてすることになった。改めて不思議な前例になるのだろう。
帰りは石名原が送ってくれた。次は自分で。歩けることは楽しいのかもしれない。
日に日に戻ってくる感覚。右目に見えているものが輪郭を伴うようになる。単にものを見るにはむしろ邪魔になるくらい。そんなふうに煩わしさを感じられることも嬉しい。
足の痺れはもうない。筋力の問題や訓練不足もあって妙な感じにはなってしまうけれど、慣れれば昔のように走ったり、跳んだりできるかもしれない。自転車にも乗れるかもしれない。そして、それは直日も同じ。
気持ちが後押しされて一気に加速する。直日こそやりたくてできなかったことがたくさんあったはずだ。これからはちゃんと登校ができて、入院になることもない。やりたいことを気がすむまでやって、居たかった場所に堂々と居ることが許されるかもしれないのだ。なくても良かったはずの不幸と、あったはずの幸せ。鈴乃が受け入れられなくて、諦めきれなかったものだった。直日が自由になれば、鈴乃はやっとひとりになれて向き合える気がする。鈴乃を縛っていたものが直日も苦しめた。きっと直日の優しさに鈴乃が苦しんできたように。ふたりを縫い合わせていた呪いの糸がとけていく。過去は変えられないけれど、未来なら変えていける。
鈴乃の心はずっと震えていた。高揚する気分。怒りや悲しみでも、悔しさでもない、こんな感情はなんだろう。鈴乃は制限されてきた感情に、おそるおそる名前をつけてみる。たとえば「喜び」がいいかもしれない。
織津神社の参道。頭上を覆う梢の隙間、小さな空の欠片を仰ぎ見る。鈴乃に役割を与えたのは誰だろう。それも終わるのならどうでもいいこと。
傍らにはそんなふたりをずっと見守ってきてくれた友人。
「そういえば、ナオくんは……?」
「今日は、立花と
「……ふーん」
自分で聞いておいて、気のない感じで楓は相づちを打つと、両手を膝の前で組んで座ったまま眠そうな表情でやる気のない態度をみせる。縁司のことを快く思っていないのは鈴乃にも分かる。けれど、本人がいいのだから鈴乃たちにはもう言うべきことはないのだ。
少し湿った林の空気にも秋の香りがする。
身体に纏わり付いていた暑さや重さはなくなって、周囲が広くなった気さえする。それは「自由」を取り戻してただ広く感じられるということかもしれない。けれど、昔からあった感覚のような気もする。言い換えれば、ただひとり取り残された寂寥感のようなものかもしれない。だとしたら違うのか。
「あ、そうそう。鈴ちゃんの右目って、どのくらい見えるようになった?」
思い出したように楓が元気な声をあげた。いつもの調子に戻そうとする姿に無理をするなと言うこともためらわれる。楓の気分が変わるなら、気付かないふりでいいと思う。気にしないふりは大事だと知っていたけれど、ずっとそれが苦手だったことを鈴乃は最近になって知った。
鈴乃は、楓の質問に答えるために確認をする。前髪をよけて目の前にあるものに注意を向けてみる。手で左目の視界をわざと遮断して、右目だけに映る世界を見つめた。
ぼんやりとして、目の前のものが何なのかまではわからない。答えを知っているから、その塊が楓だとわかるだけ。
水を含ませた紙に水彩絵具をのせると色が滲む。輪郭はそのくらいぼやけていたけれど、そこにある色はポスターカラーのように存在感があった。白い肌の色よりも、髪や服の赤や黒が際立つのは楓らしい気がする。その黒も、黒に見えるくらい明度の低い赤い色だった。人には自分に似合うパーソナルカラーがあるというが、人そのものにも色があるのだ。
直日は青みのある白。縁司は緑が混ざった茶色。思えば不思議だ。実物が持っている色とは違う、人物の色が重なって透けて見えるような感覚。それは左目にはないものだ。そのまま視線を横に移動させて背景に目をやると重なった色は重ならない色に戻っていく。よく見えないということはこういうことなのだろうか。カミサマが与えた感覚だとしたら、今さら驚くことでもないような気もした。
「なにがあるのかまではわからないけど、色がわかる。……あと、左目よりも見える色が多い気がする」
「え?……お、多い?」
「……たぶん」
調子の外れた楓の情けない声。姿や表情は見えないが、輪郭のぼやけた楓の塊が形を変えて滲んだ世界で揺らぐ。そんな様子がおかしくて少し笑ってしまった。
鈴乃は左目の視界を戻していつも見ているものを確認する。首を傾げたまま驚いた表情でこちらを窺っている楓。そんな反応で、「色が多く見える」といったことはやはり、一般的に驚くに値する現象なのだと理解した。
楓は戸惑う様子のまま鈴乃に説明を求める。
「……よくわかんないんだけど、どういうこと?」
「うん、たとえば、楓だと赤かな。……わたしにもわからないけど」
説明は困難だ。見えるままを鈴乃の限られた言葉で表現しようとしても難しくて、まして何が起こっているのかが鈴乃にもわからないのだ。おそらく説明になっていないだろう。
予想通り、楓の困り顔がよりはっきりと困惑に変わっていく。
「わたしが赤? 赤に見えるということ?」
「うんそう。……でも、『赤に見える』っていうより、『赤くも見える』感じ……かな?」
「それ……」
楓は言いかけてやめる。詳しい検査はまた後日だということは伝えてある。良いことなのか悪いことなのかすら鈴乃にもまだ分からない。それ以上の説明はできなかった。楓もそれは理解したのだと思う。
「まあ、他には特別に変わってるって感じるところもないし、普通に良くはなってる気がするよ」
「……そ、そう。よかった」
楓はあいまいに笑った。そのあとなにかを思いついたようで、言葉にしようとしたが、言い淀んで視線を落とした。鈴乃から目をそらすように。なにが楓をためらわせたのか。少しだけ沈黙があったあと、楓は小さく頷いた。
「鈴ちゃん。目が見えるようになっても暗くなったら出歩かないでね」
「……?」
真剣な表情で、楓は目を細めて言った。何を突然言い出すのか。それは改めて友人にするような忠告なのだろうか。どこにその必要を感じたのか。言われるまでもなく、この村に夜、鈴乃が出歩けるような場所はない。楓の突然の警告に今度は鈴乃が驚かされる。動機は不明だが、その発言は悪戯だと鈴乃は思った。すぐに茶化す言葉が続くことを予想したが、しかしそうはならなかった。
「その昔、人ではないものは日が沈んだあとに活動を始めたというよ。『夜』に気をつけて。見えるものはそれではないかもしれない」
楓は怪談めいた話を付け加える。
鈴乃には楓の言動に不自然さがあることは気付いていた。……もしかしてというよりも、やはりというべきかもしれない。
――楓は何か知ってる。
視線を合わせたあとに楓は遅れて笑顔を作ったが、もうごまかしにはならない。楓には鈴乃や直日について伝えたくても言えないことがあるのだと、鈴乃は確信した。
宮ノ下は日が落ちるのが早い。はるか昔、神河が山を削ってできた谷にある集落だ。西の空が狭かった。しかし太陽が見えなくなってもそれを「夜」とは呼ばない。本当に暗い「夜」はその先にある。
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