第9話 繋げるか断ち切れるか
鈴乃は境内に入ることを誰かに禁止された覚えはない。しかし直日はそうでもないようだった。織津は報祭として入ることを唯一黙認されている例外で、それでも表立って参拝することは許されてはいない。
倫理道徳に反することだけではなく、ありとあらゆる不運や不幸が不浄とされた。たとえば、風水害に遭うことや、大切な人が亡くなることでさえ清めるべき対象とされる。たとえば、親や子供が亡くなれば50日、祖父母や孫ならば30日の間、喪に服した後に祭事を行って日常に戻る。失われた大切ななにかを悼み、悲しみを乗り越えるために用意された手段も、儀式になってしまった今では、あったはずの感情が失われていった。
原因不明の
しかし、憎んでいるのは相手も同じなのだ。大きな影響力を持っていながら線を引いて彼方側からは踏み込んでこない。鈴乃と直日と合うことを禁止したりもしない。その一線を踏み越えて、直日の一族を納得させられるだけの力は鈴乃にはなかった。
直日から日常を奪ったのが鈴乃であることをお互いに知っていたから。
感覚的だった罪の概念も「神話」が「神道」になるにつれ様々な理由が与えられ、厳格で複雑になっていき次第に根拠が忘れられて方法だけが積み重なっていった。そして
社会において妥当とされた。
現代社会においては、罪は法という人が定めたルールが決めている。しかしその方法に普遍的な妥当性はない。時代が移り変われば罪とされるものもまた変わるのだ。人々の認識によって。
国津神社の秋祭り。村内の各神社では例祭をはじめ、古くから様々な祭事やそれに合わせた行事が行われていた。しかし今、村内でも社格の高いとされた北畠神社のお祭りでさえ、当時の規模はない。多くの祭りが住民の心の中に溶けて消えていく中で、この地の人たちは個人や家ではなく地域全体でそれを繋いでいた。
形として残す。いかに正しいかは問わない。繋ぐ手が隣になければ、またその隣。そこになければそのまた隣へ。個人の主義主張を越えて行動だけが細くなった糸を繋いでいた。消えていくのは信心深さの問題ではなく、単純に継ぎ手がいないから。
過疎化に加えて住民の高齢化。途絶えてもやむを得ないともいえる状況で、やらないという選択をしない。地理的に、村はおろか県からも大きく隔てられたはずの地域なのに諦めない。それはむしろ孤立しているからこその逞しさなのかもしれない。
統合されて村内で唯一になった小学校が裏山の崩落で利用不能になったとき、地域に残っていた旧校舎を解放して村全域の児童をこの地域は受け入れた。手を差し伸べられる側などではないと。その力強さに、鈴乃は消えていく集落の儚さを感じなかった。
「――みんなで、おいもを食べよう」
独り言を言いながら、大きなお盆に芋煮を乗せて配って歩いている人物がいた。背格好に不釣り合いの大きな法被を着て芋の押し売りに励んでいる。食べたい人は自分で取りに行くはずで、やっていることは少々お節介。彼女は行く当てのなくなった芋煮を乗せたままふらふらとこちらにやってくる。
「大変ですね……」
「うん、楽しいよー」
鈴乃の冷めた言葉に、石名原はかみ合わない返事をする。
直日はふたりのやり取りを、固さの残った笑顔のまま見つめている。やはり先ほどのことで疲れているようだ。
石名原は村外からの移住者だそうだ。 「
「あ、そういえばね、下之川地区からは古墳も出てるんだよ」
「石名原さん。まずはそのお盆を置いて下さい……」
唐突に始まる石名原の話。しかし鈴乃はお盆の上でゆらゆらと揺れていた器が今どうなっているのか気になって仕方がない。ちょうどひっくり返ればふたりの頭を直撃する高さだった。持っているものを水平に保ったまま屈むことに苦戦するかのような石名原。
鈴乃はお盆を受け取るふりをして没収した。
鈴乃の隣に座った石名原は空を見上げて何も言わない。話の続きはもういいのだろうか。
君ヶ野ダム上流、下之川地区にはしばらく前に大きな道路が通って交通の便がよくなった。けれど、それにはちゃんと理由があるという。
下之川に最終処分場がやってくる。だから繋がった道。もちろん、どこも引き受けたくはないけれど取引をしなくては生きてはいけない。嫌なものを引き受ける代わりに必要なものを受け取った。陽が当たるということは影ができるということ。
抗うことが許されない人たちが住む村。燃えないゴミを運ぶ人たちは、はたして喜んでそれをやるのだろうか。町の人たちが出したゴミだともいう。けれど、下流域の人たちは数の力で押しやられたものが自分たちの水源に埋まることになると知っていたのだろうか。そんな感情もいつか忘れ去られて、大切だったものも価値を失う日がやってくるのだろうけれど。
「うん、大丈夫。忘れたときに、思い出すことになるだけだから」
鈴乃の小さな呟きに、石名原は観測者のような表情で言った。他人事のように無表情で。それが嘘なのは分かった。選ばれた言葉は触れるとどこかが裂ける音がしそうだった。
彼女はこの地域を選んだのだ。鈴乃や直日の知らないその気持ち。石名原はきっと村が好きだ。とにかく不便で人も居なくて、毎日の生活を維持するだけが大変な場所。目に見える観光資源もごくわずかで、町にないものといえば買い手のつかない杉と、乗客のいない列車が走る風景。
計画縮小で街と街を結べなかった路線は、今何を繋いでいるのだろうか。地域を縛り上げているのは古いしきたりやしがらみ。生きているだけですり切れてしまいそうなのに。そんなことすらも石名原は肯定的に語るのだろうか。
彼女にそうさせているものは一体なんなのか。鈴乃には分からない。
「そういえば、古墳がなんとかって……」
鈴乃は言いかけて終わってしまった話の続きを聞こうと思った。なにが始まるはずだったのかはもう忘れてしまっているのかもしれないけれど。
石名原の怒りは見えない。なにを考えているのかも分からない。むき出しの感情だったなら途切れたことも分かりそうだけれど、秘められた感情は分からない。
「あ、うん。下之川では古墳も出てるんだよ」
「それは、さっき聞きましたけど……」
変わらない調子だったことに安心はする。違う種類の疲労はたまるが取るに足らないこと。
下之川富田遺跡。飛鳥奈良時代以前からの遺構が下之川から見つかっているそうだ。神話になって残る時代の頃なのか。あるいは、もっと昔なのかもしれない。
平野部の農地の整理が終わって山間部に手が伸びて。そのとき偶然見つかった遺跡に古墳。それは歴史があったことを示してはいたものの、ごく一部でしかなく、完全な調査も不可能だった。
ダムに沈んだ人の営み。掘り起こされて埋められるのは人がいらなくなって捨てたゴミ。石名原は語る。その昔、下之川は文化の先端をいち早く取り入れて吸収した地域だそうだ。北畠氏が本拠とした
はるか昔、この村は栄えたという。その後、太郎生には隔てられて受け継がれているものがあり、下之川には開かれてやってきたものがある。鈴乃にはふたつが陰と陽などではなくて、どちらも悲しみに見えた。未来は見えないけれど、救いの形を求めている人がいるような。
神話の時代にいたという蛇の神様カグハヤミ。今の村の姿を目の当たりにしたらなにを思うだろうか。かつて敵対した人間を見て笑うのだろうか、悔しがるのだろうか。それでも、まだ祟ろうとするのだろうか。最後のひとりが滅ぶその日まで。
「なんか、しみったれてる感じだな」
「いちいち癪に障る言い方するのは、わざと?」
背後から縁司の声がする。
それは直日に向けられた言葉だったのかもしれないが、相手を指名しない呼びかけを自分宛の皮肉だと解釈して返す。理解など求めていないし、しようとも思いたくなくなる言葉の形。けれど、それが日常のやり取りになっているようで、浮いているのは鈴乃の方だったりもする。
「しみったれてるというか、目が覚めた感じもして、戸惑ってる……のかな?」
「そうか、じゃあいいけどな。ぐだぐだひとりで考えるくらいなら言えよ? 分からないからな」
直日は振り返って丁寧に返答する。表情はぎこちなかったけれど、笑顔ではある。
鈴乃も直日に苛立ちをぶつけてしまうことがある。そんなときは彼のような言い方をするかもしれない。けれど、縁司のそれは違うのだろうか。鈴乃とはかみ合わないそれも、縁司とはかみ合って見えるのはどうしてなのだろう。
「あと、鈴乃もだから。腹が立ったらそうやって言ってくれたらいいんだから」
「なんなの……? その上から目線」
実際に座っている鈴乃に対して、立ったままの縁司は鈴乃を見下ろしている格好になる。
その状態が気に入らなくて、鈴乃は手に持っていたお盆を傍らに置いて立ち上がった。よろけて転ぶわけにはいかない。慎重に。
立ってみたところで、埋まらない身長差。悔しいけれど仕方ない。絶対に負けないように敵意を持ったまま笑みを浮かべてみせた。余裕だと。
鈴乃は知っている。相手が強い大人でこちらがが弱い存在だったときも、相手がどれだけ大きな力を持っていてこちらがそれに届かない小さな存在だとしても、はっきりとした敵意を向けられた人間は平静ではいられないということ。
縁司は排除されるべきいわゆる悪に恩情をかけようとした。しかし鈴乃は許さないことを宣言している。力でたたき潰そうとしたときにどちらが敗者になることになるのか。それが今のこの社会が決めた正義だということを。
我を失って暴挙に出たときほどの抑えきれない怒りはもうない。それは、縁司に想像していたほどの敵意がないことがわかってしまったからかもしれない。実は、鈴乃の怒りは自分自身に向けられていたものだったことを覚えているからかもしれない。本当は、直日がいいのなら鈴乃だっていいのだ。それは、決して今後を保証するものではないけれど。
「祭りにきたのに、見て回らないのか?」
「見たかったら、ひとりでいけばいいんじゃないの? わたしは、あなたみたいに元気がありあまって仕方がない人じゃないし」
「いや、俺はもういいよ。充分見たからな」
見て回るといっても大したものなんてない。それに縁司に言われたから行ってきますなんて不愉快なことはしたくない。他人にはつまらないプライドに見えるのかもしれない。それでも鈴乃には捨てられないものがあって、まだそれを捨てるつもりもなかった。
縁司の表情は変わらないが、少しだけ声が小さくなった気がした。
そのとき、鈴乃は違和感に気付いた。立ち上がったときにあるはずだった感覚がない。代わりにあったのが不思議な感覚。引っ張られている糸が切れたような。つなぎ止められていたものがなくなったような。その瞬間に善し悪しはわからなかった。けれど……。
――左足の痺れが……ない?
縁司への感情を忘れる。
鈴乃は動かそうとしてみた。持ち上がる左足。足首の感覚もある。痺れは、まだ残っていたが、鈴乃の命令をまるで聞こうとしなかった左足が、動こうとしている。
――もしかして……?
鈴乃は目の前に縁司がいることも気にせずに、顔を覆っている前髪を手で払ってよけた。
ぼんやりと感じる輪郭はないけれど映り込むなにか。それをたぶん見えるとはいわない。けれど、機能を失っていた鈴乃の右の目がなにかの役割を取り戻しているのが分かった。
「鈴ちゃん……?」
遅れて立ち上がった直日がこちらを覗き込んだ。
見える左目と見えない右目の視界が重なって気色の悪さを感じる。しかし、そんな感覚すら失った鈴乃には、すっきりしない視界でも大きな変化だった。
取り戻したのではなく、それは新たに与えらた感覚といった方がいいかもしれない。見えると見えないの間。視界のようななにか。
「ナオ。……見える、のかも……しれない」
不充分な表現に首をひねった直日が、遅れて鈴乃の言葉の意味を理解してくれたのが分かった。直日の表情が驚きに変わる。
「見える……って、鈴ちゃん! 右の方の、そのっ……目のこと?」
直日が珍しく大きな声をあげた。鈴乃は首肯する。
突然のことに言葉が出ない。ずっと長い間それが当たり前で、変わるはずのなかった感覚が、変わっているのだ。
固まっていた直日が思い出したように動き出す。自分の両手の曲げ伸ばし。急に屈伸を始める。事情を知らない人がいたら奇行に見えるかもしれない。けれど、鈴乃や縁司。傍観している石名原にだってきっと、その意味は分かる。
ふたりに、あのとき失ったはずの当たり前。それが、戻ってきているのかもしれないということ。
「石名原さん、病院に……。いえ、自宅に連絡しますね!」
直日は動揺を隠しきれない様子だった。石名原の表情はぼんやりとしたまま。けれど、しっかりと頷いて了承した。
どういうことなのか。なにが起きているのか。
鈴乃は可能性に気付く。鈴乃と直日が今日、国津神社の鳥居をくぐって参拝したこと。大がかりな儀式などしてはいない。しかし、踏み入れたということに意味があるのなら。馬鹿げているのかもしれない。けれど、大国主神が。もしかしたら、名前も忘れられたというこの地にいたとされる存在がなにかをなしたとすれば。それは奇跡なのか。
「病院には、わたしが行くよ。到着を待っている時間は、長いもんね」
石名原が持ったお盆はゆらゆらと揺れない。ただ、小さく震えていることは分かった。
鈴乃たちを祭りに誘い、迎えに来てくれたのも石名原だ。話かけなければ大丈夫などと恐ろしいことは言っていたが、彼女も運転免許は持っているし、毎日それで仕事に通っていた。驚くことではない。この地域で働くということは、およそそういうことだから。
「……石名原さん、お仕事は」
「大丈夫。心配いらないよ。だから、連絡してみてね」
直日の言葉に石名原が答える。そんな判断を石名原は許されているのか、考えてやめた。仕事といっても今日はボランティアで、できることをできるだけすればいい日なのかもしれない。彼女の身の上を心配するだけのゆとりが今は鈴乃にはない。ときおりみせる熱心な彼女の一面を見て思うのは、感情がないわけでも信念がないわけでもなくて、飄々とした部分は、強力になにかを抑制した結果かもしれないということ。
「ほんとに、お願いしても大丈夫なんですか?」
「大丈夫。立花くんの弟を乗せて、そういうことにはしないから」
かみ合わないやり取り。
縁司が尋ねたのはおそらく石名原の業務や職場での立場だろう。石名原が答えたのは道中の安全だ。自分が不安視されることを自覚しているから縁司に信じて欲しいという。誰かのためなら彼女もまだ諦めないのだろう。
信用は普段の行いの積み重ね。それが破綻している石名原と鈴乃は似ている。けれど、石名原はそれを望んでいたのだろうか。鈴乃は自ら望んで綻びを作っているのではないか。似ていても同じではない。
帰り道。また非現実的なことを考える。
国津神社のある太郎生地区は、同じ村内であっても名張川の水源地だ。カグハヤミという存在が雲出水系の龍神だから影響力を失っただけではないか。では、雲出の流域に戻ったら生まれた希望は泡となって消えるのではないか、などと考えた。
織津神社の
踏切を渡る。ハンドルを切って右に曲がれば君ヶ野ダム、下之川地区へ続く。車は道なりに左へ向かう。村の外へ繋がる対向車線のある道路で窓の外の雲出川を眺めながら、縁司が言った。
「『変わってる』って言われたことのないヤツなんて、いないよな」
それは自分に向けたもの。独り言だったのだろう。込められた感情はわからない。
今向かっている先でなにが分かるのか。はやる気持ちはあったけれど、鈴乃は記憶の中をぼんやりと探してみた。確かにそんな人、いないのかもしれない。
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