第8話 今日は終わり、また明日
空気を震わせ天から降り注ぐ滝のようだった雨。瓦を重く叩いていた音が止んで、表からは秋の虫の声が聞こえてきた。予報ではしばらく晴天が続くそうだ。
今日は雨量が基準値を超えたため電車が止まった。電車以外に足がない鈴乃は学校を欠席した。謹慎が解けてからしばらく休んでなかった鈴乃だが、今日に限ってはやむを得ないと判断はしてもらえるだろう。今年は直日の単位や出席日数を気にしている場合ではないのかもしれない。とはいえ、高校は義務教育ではないのだから鈴乃にもできる仕事があるのならそうした方がいいのかもしれない。
何ヶ月、何年かもしれない。父の姿を見ていない。贅沢をしないでも生きていくことにはお金はかかるものだ。遠方に働きに出ている父に、お互い単身とはいえ二世帯分の負担をかけるのも気持ちのいいことではなかった。
鈴乃もいつかは村を出る選択をするだろう。母との思い出や、友人と過ごした時間。そのときが来るまでに整理はしておかなければいけないと思う。
鈴乃に与えられた役割を考えてみる。家においては母の代わりであろうとした。しかし自分の身の回りのことだけができるようになったときにはもう遅かった。とても代わりにはなれないことを知った。友人にとっての鈴乃はどうなのか。背負った重石で身動きの取れなかった直日には、自分が手を引いて開けた世界を見せてあげるんだ……なんて思っていたのかもしれない。けれど、鈴乃が引き寄せて直日に見せたのは呪いの日々。
生まれてきた意味までは考えられない。もちろん鈴乃がやってきたことが消えてなくなる日はこないだろう。けれど、鈴乃は一度だって尋ねられたことはなかったはずだ。「この人生でいいのか」と。物心が付いたとき、鈴乃の目の前にはもう、鈴乃の人生があった。
息を吸って吐くように選んで積み重ねてきたもの。その選択の責任を回避するために鈴乃は言ったのかもしれない。「私は知らなかった」、「こんなふうになるなんて思わなかった」と。
しかし、選んだ鈴乃に責任がないのなら、誰にあるというのだろうか。
選ばされた選択だったとでもいうのだろうか。では誰に選ばされたのか。自分の意思決定に責任はないという人間が、誰の意思決定の責任を問えるというのか。責任とはなにか。
自分という役割に付帯する責任なるものを数える。そして、ひとしきり思いを巡らせて疲れた頃に都合よく「明日を生きるためだから」などと言い訳を持ち出して今日を眠るのだ。結局、自分がかわいくて、自分にどこまでも甘い。それがどうしようもないことならば、鈴乃には絶望が足りないのだと思う。その量も質も。のうのうと明日を生きていけるくらいには。
そして同時に思う。誰かに息の根を止められるくらいなら自分で……と思うくらいには人間という存在がどうしようもなく利己的で邪悪なものに見えてしまう。
けれど、先送りにしていれば決まるのだろう。その役割を与えられた誰かがいつか鈴乃にとどめをさす。その日を待つのか。自分で決めるのか。
土間に釣り下げたまだ乾かない洗濯物を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えて、鈴乃は飽きてやめた。代わりに手に取ったのは茶封筒。差出人は石名原古都見。封を切ると草色の便せんが数枚と色の付いたチラシ。
『国津のお祭りに来ませんか?』
国津神社。それは
わりと無表情に見えた郷土資料館の石名原だったが、文面は楽しげで笑顔の彼女が見えた気がした。書き綴られている内容はさっぱり分からないけれど、文末にはデフォルメされた小さな龍だろうか? が名前と一緒に落款のように押してあった。
そもそも、石名原がどうして鈴乃の住所を知っているのかとも思ってみたが、速瀬鈴乃は村内では良くない意味でそれなりに有名なのだ。町名と名前だけ書けば届くのかもしれない。
鈴乃を祭りに誘う内容のはずが、時候の挨拶に始まったかと思うと、なぜか今後の抱負を語り出して謎の意気込みで終わる。決して上手とはいえない散らかりきった文章。鈴乃の手元にあるのだから、直日や縁司のところにも届いているはずだ。変わった人だ。資料館の職員にはそんな役割があるのだろうか。単純に暇なのかとも思うが、どうしてか、夜なべをしながら赤の他人に向けた手紙を嬉しそうに書いている石名原の姿が思い浮かんだ。
鈴乃は手紙とチラシを座卓の上に戻した。照明の紐に手を伸ばしたが、一瞬ためらった。
ひとつため息をついて思う。
呆れてしまうほど、自分に見えているものだけに一生懸命で、まるで明日のことなんて考えない。たとえば石名原という人間がそんなふうに見える。鈴乃にできるだろうか。
――わたしにはできない。
鈴乃は照明を消した。明日を生きるためだから。
今日埋め残した穴を明日の自分に埋められるのだろうか。明日はどのくらいの穴が空くのだろうか。ひとりの時間にいつもそばにいてくれるのは、虚ろな自分の幻影。それが語りかけてくる言葉には慣れてしまっていた。漠然とした不安感だけでは足りなくて、鈴乃はもう動けない。そのまま眠り落ちていく。
――今日は終わり。また明日。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます