第6話 霧の向こうには
早朝、地震を感じて目が覚めた。
揺れを感じた瞬間にいつも思う。近い将来やってくるというマグニチュード8を超える東南海地震の日がついにやって来たのかと。しかし揺れたのはわずかの間。小さな地震で、幸いなんの被害もなかった。
日本は地震の多い国だといわれる。当たり前になっていることなので、その実感はない。
鈴乃の住んでいる地域でいえば、布引山地の東端には活断層が眠っているという。こちらも最大震度6強を超える地震が想定されているが、生きている間にその地震が来るかどうかは分からない。
妙な時間に目が覚めて結局、眠れずにいた。朝日が昇る頃、鈴乃は上着を羽織ると適当な靴を引っかけて外に出る。閉める玄関の引き戸がガラガラと音を立てた。
朝は肌寒さを感じるくらいに涼しい。しゅわしゅわと虫の声が聞こえる。それは次第に夏から秋へ音色を変えていく。
家の前は宮ノ下の中央通りだ。何人の人が行き交い、何台の車が通るか、数えようとすれば、両手の指を折るまでにきっと何時間もかかるだろう。
右に行けば、大日如来と彫られた石碑と小さなお堂があって、前を通って織津神社に出る。その先はやがて新しい道と合流して、県道は中学校、旧村役場の方へ繋がっている。
鈴乃は家の前の道を左に進む。緩やかな下り坂は駅に向かう道。、明治を思わせる郵便局だった建物の前を通る。行く先には神河谷川に架かる橋の、小さくて古い方。
橋の中程に、欄干に手をついて上流の方を眺めている姿がある。なにをしているのかは分からないけれど、誰なのかは分かる。
「おはよう。楓」
「おっと、鈴ちゃん、早いねー! やっぱり地震のせい?」
楓は橋から手を離すとこちらを向き直る。楓は部屋着姿でおよそ外を歩き回る格好ではなかった。鈴乃も他人のことはいえないけれど早朝からこんな山奥でよそ行きの服を着て歩いていたら、かえって目立つのではないかとも思う。
「うん、まあ……。楓はなにしてるの?」
「いやぁ、そろそろ橋が落ちてるんじゃないかって見に来た」
「……さすがにないって」
昔の橋は木や石でできていたので地震で落ちることもあったと思う。けれど今の橋は古いとはいっても鉄骨でできているのだし、少し揺れたくらいで落ちるとは思えない。
……けれど、10号台風のときに流れた橋はもっと立派で丈夫な鉄橋だったのだ。もしかしたら分からないのかもしれない。この橋は、鈴乃が物心ついたときからすでに古びた橋なのだから。
「あ、楓。……そういえば、立花縁司の兄が資料館にいるみたいでね」
「……え? 立花って……鈴ちゃんが、あの……」
「いわんでいい、分かってるから……」
楓がちょっと引いている。鈴乃を怪しむような視線を送ってくる。
そういえば、先日のやり取りを楓に話してなかったことを思い出した。鈴乃は簡単に経緯を説明する。
楓は理解が追いつかないと苦笑しながら首をひねっていたけれど、しかたないと思う。鈴乃も自分のことでなければ似たような反応をしたかもしれない。
「う、うん……それで?」
楓はとりあえずモヤモヤしたものを保留にしたようで、鈴乃に続きを促す。
「あ、うん。あのとき、わたしと直日が見たものがなんだったのか分かるかもしれないって」
「……あのときって? ……台風10号のとき?」
「うん」
楓は目を閉じて、息を吐くとゆっくりと頷いた。そして河のほうにまた向き直る。
楓の見つめる先は霧でかすんだ神河の上流の山々。雲出に合流する神河谷川だが、川上を望むと雲が湧き上がるように見える。それが雲出川の名前の由来だと聞いたことがあった。
鈴乃がそんなことを思い出していると、楓がぽつりと言った。
「わたしは、昔話が真実だったらいいな……とは思う」
「昔話……?」
村にはいくつか昔話が残っている。つい聞き返してしまったけれど、楓のいう昔話がどの話のことなのかは、鈴乃には分かっていた。
「うん、鈴ちゃんも知ってると思う。『ずっと昔、この地には恐ろしい大蛇が棲んでいたけれど、都の皇子様がやってきてそれを退治しました。平和になったので里のみんなは幸せになりました』……って昔話」
「あ、うん。『八岐大蛇』……みたいな話だったよね?」
楓はそうそうと頷いた。
真実かどうか。民間に伝わる昔話の多くは、長い時間を経て形を変えて、いろんな思惑が混じり合って今の科学にあっさりと否定される非現実的なおとぎ話となっている。それはもちろん鈴乃も知っていた。けれど、その中に残されたいくつかの実際の出来事。
――真実ならいい。楓が望むのは、おそらく物語の結末なのだろう。「みんなが幸せになりました」……その部分。
そんな昔話がもし、ふたりの見たものに関係があったなら、鈴乃たちを焼いたのはなんだったのかと思う。純白の光の中に砕けて消えた黒い輝きは、いったいなにが残っていたものなのか。
「みんな幸せになって」後の世に残ったものがふたりを焼いたのだろうか。
「気をつけていってらっしゃい」
「うん? 郷土資料館だから、そこまで遠くじゃ……。楓は行かない?」
「行きたいけど……このところ、ちょっと忙しくって」
楓は苦笑して頭をかいた。いつも副業に勤しんでいるようだけれど、楓はそれを鈴乃や直日には言わない。もし手伝えるようなことがあるのなら……なんて思っても、ふたりも詳しくは聞けなかった。宮ノ下の外れにある篠宮の家は人を寄せ付けない。
しかし、無理に楓を引き連れて行くこともないだろう。
鈴乃と直日は、週が明けたら郷土資料館へと向かう。
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