第4話 当たり前を失った日
小さな頃の記憶は少しずつおぼろげになっていく。
形が崩れて、断片的になっていくもの。いつかそれは消えてなくなってしまうのかもしれない。けれど、どうしても忘れない記憶はある。それは心に刻まれた記録だから。
その日は朝から晴れたり曇ったり。暗く厚い雲が上空を流れはじめ、日差しは完全に遮られて、間をおかずに激しい雨が降り出すことが今の鈴乃には分かっただろう。
夕方になって降り出した雨は、しだいに勢いを増していた。
これは普通ではないと悟った頃には、辺りの景色は失われて、方角も分からなくなっていた。山の中にいた鈴乃と直日は、引き返しているつもりがすっかり道を見失っていた。
見覚えのあるものや形を目印に山を下る。
ここを下れば神社の裏手に出られるはず。それがふたりの思惑だった。今となってはその判断が正しかったのかどうかも分からない。
明日には台風が来るし早ければ今日にも雨が降り出すかもしれない。暗くなる前に早く帰ってくるように。……忠告はされていた。ふたりにはその言葉を無視するつもりはなかった。
しかし、結果として甘かったと言わざるを得ない。
あまり遠くまで行かない。近所ならすぐに帰れるからだいじょうぶ。
台風は急に速度を上げて北上した。予報の範囲内だったが、考えられる中でも最短のルートを辿った。全国に爪痕を残し、後に「8月豪雨」の名で激甚災害に指定されることになった大きな被害をもたらした台風10号だった。
林道は川のようになっていてとても人が歩ける状態ではなかった。ふたりは残された足場を辿り山を下る。とうに想定していた迂回ルートすら外れ、下っているのかどうかも分からない。運を天に任せてその場に留まった方が良かったのかもしれない。お互いの声が聞こえないくらいの雨音は恐怖だった。もう動けないと思った頃、足下を流れている水が目に見えて減った。
それは幸運などではない。
伊勢湾台風を経験してきた年配の大人たちが言っていた言葉。雨が止んでもいないのに流れる水の嵩が減ったら危ない。それは山津波の前兆だ。
希望を失いかけたふたりの目の前に洞穴が見えた。冷静な判断ができたなら、そんなものに何の意味があるのかと疑っただろう。自ら埋まりに行くのかと問うたに違いない。
「――ナオ!」
指さして精一杯の声で鈴乃は叫んだ。直日は打ち付ける雨に顔をしかめながら、大きく頷いた。意味のあるなしを考える余裕なんてなかった。ふたりはその洞穴に向かう。
例えるなら坑道の入り口のようだった。当時のふたりはそんなものを見たこともない。自然にできた穴ではないことだけは分かったが、何か分からないままふたりは入り口の前に立った。
張り出した岩の下には縄が張ってある。
汚れた布がいくつもぶら下がった傷んだ縄。それは木綿が垂れたしめ縄だったのだと思う。立ち入り禁止であることは鈴乃も理解できたはずだ。
岩の庇で雨はいくらかしのげそうだ。であれば奥まで入る必要なんてない。
縄を見つめて立ち止まる鈴乃を、直日が心配そうに見つめていた。横目でその様子を確認して鈴乃は途方に暮れる。雨が止むのはいつになるのだろう。明日か明後日か。この場所にいれば無事でいられる保証なんてない。この穴が古くから残っている場所だとしたら、中の方が安全なのかもしれない。
そんなことを考えていたのだと思う。
鈴乃の手が、古い縄にほんの少しだけ触れた。
「――!」
縄が崩れ落ちた。
切れたのではない。崩れたのだ。それは鈴乃の心中を察した何者かの意志だったのだろうか。それとも、そうなるように仕組まれていたことなのか。
遮るものがなくなった道が奥へと続いている。
――もしかしたら、人里へ繋がっているかもしれない。
鈴乃はそれくらいの気持ちだった。
直日の腕をつかんで、半ば強引に奥へと進んだ。
はっきりと分かる雨の音は遠ざかって、通路には風が共鳴して立てる音が呻き声のように響く。その空間にはなんの灯りもないはずなのに、ものの輪郭が見えるくらいの明るさが保たれていた。思い返せば不思議なことも、そのときの鈴乃は気にもしなかった。
入り口は鈴乃たちが出入りするのにちょうど良いくらいの大きさだったけれど、中に入ると天井は高くなり、大人でも充分立って歩けるほどの幅があった。石を組んで造られた壁や床は、人工的につくられた通路であることを示している。多少劣化はしているけれど、日常的に誰か入って手入れをしているかのようだ。余計なものは何一つなく、苔が生えたり、水が溜まったりしている場所もなかった。
ふたりが何かを呟けば、それが反響するくらいには密閉された空間だった。
里にこんな場所があったことは当時のふたりはもちろん、今でも聞いたことがない。
しばらく進むと、視界の先に灯りが見えた。
ドーム型の丸い天井の部屋があった。光源ははっきりしないけれど、中はじんわりと温かい。
古墳にあるような石室というよりは、石で造られたイグルーのようだった。木材がたくさん取れるこの国でこんな構造にどういう意味があったのか。当時のふたりにそんな興味があるはずもなかった。
ふたりが注意を引かれたのは中央にある物々しいなにか。正面から見ればひな壇のようなそれは、鈴乃の身長よりも少し高いくらいだったけれど、その異様に実際よりもそびえ立って見える。周囲には縄が張られていて、祭壇のようなそれ自体にも蔦が絡むような形で紐状のなにかが幾重にも張り巡らせてある。
回り込んでみれば、それがピラミッド型の祭壇だということが分かった。
おそらく、誰が見てもそれが触ってはいけないものだということは分かっただろう。
祭壇の中央に安置されているのは、歪な形をした黒い塊。塊からは棒状のなにかが傾いて生えている。形状だけでいえばレバーのようにも見えるが、何でできているのかは窺い知ることはできなかった。
「鈴ちゃん……?」
直日の声が聞こえた。そして鈴乃は気付いた。
いつものように返事をしようとして声が出ない。直日の声がした方向を見ることすらかなわなかった。ただ、心の声が何度も「いけない」と警鐘を鳴らす。しかし鈴乃の身体は自分の意思に反し、周囲に張られた縄に触れようとする。
鈴乃が触れるとあっさりと崩れて消えた。ちょうど入り口にあった立ち入り禁止の縄と同じように。
「――鈴ちゃん! ダメだよっ!」
直日の声だけが聞こえる。鈴乃の視線は、祭壇中央の黒い塊に捉えられたまま動かない。
ダメなことは分かっている。分かっているけれど、鈴乃の腕が、足がいうことをきかないのだ。蔦の一部に触れると、それは四方に花が開くように捻れながら解けて、祭壇が露わになる。
直日の腕が鈴乃をつかむ。鈴乃の歩みは止まらない。
直日は、鈴乃を後ろから抱きしめて縋るようにその全体重をかけて止めようとする。しかし、鈴乃の身体は、それをはね除けるでもなくそのまま引きずって進んだ。普段の鈴乃だって力比べなら直日に負けるつもりはなかった。けれど、それは圧倒的で異常だった。
鈴乃が祭壇に足をかける。伸ばした手が触れる。
黒い塊から突き出した棒は、鈴乃が触れた瞬間に表面がひび割れて、裂け目から黄金の輝きが漏れ出てきた。意識が遠のくような、しかし目が覚める瞬間のような不思議な感覚で、光を目にしながら鈴乃は思った。
――わたしは、これを知っている。
表面を黒く覆っていたものは裂けて消えて、光を帯びた細長いなにかだけが残った。刃も鍔もないが、鈴乃には手にしたものが「剣」であることが分かる。
自分の鼓動が聞こえてくる感覚がして視界がぐらりと揺れた。胸にこみ上げるものがある。これは――。
「鈴ちゃんっ!」
割れるような声に鈴乃は我に返る。その瞬間、直日の全力に祭壇から引き剥がされ、ふたりはその勢いのまま囲いのあった外へと転がり出た。
ふたりとも後ろ向きに倒れたため、身体のあちこちを床に打ち付けていた。けれど、痛みの在処やケガの有無を確認する以前に、起きたことに呆然とする鈴乃。たった今の体験が脳裏によみがえり、心に動揺が広がっていく。なんだったのか。
鈴乃が事実を確認するために手を見ると、自分が握ったはずの光を帯びた「剣」は消えてなくなっている。さらに混乱する鈴乃。落としたのだろうか、それとも……。
鈴乃が「剣」があった場所に目をやると、そこには黒い塊が残っているだけだった。
――残ってるだけ……?
祭壇の上に残ったものはなんなのか。その黒い塊にもひびが入るのが見える。裂け目から零れる光は「剣」が纏っていた黄金の光などではない。
「に……逃げよう、鈴ちゃん。これは、きっと……ダメだよ」
直日が声をかける。表情はしっかりと確認できなかったけれど、声から痛みを我慢していることが分かった。直日は身体を必死に起こして立ち上がると鈴乃に手をやった。
そうしようと頷く。そう、たしかにこれはダメだ。鈴乃にもそれは分かった。
歯を食いしばって上体を起こす。しかし、鈴乃は自分の下肢が痺れて思うように動かないことに気が付いた。自分はここから逃げられない。受け入れてしまう事実。
でも……。
「……ナオ、逃げて! はやくっ!」
「できないよっ! 鈴ちゃんはどうするの?!」
光輝くのは黒い波。祭壇に残されていたのは真っ黒な鏡だった。脈動するように輝きを増す黒い鏡が纏っているのは輝く闇だった。そして鈴乃は見る。波打っていた黒の光が収束するところを。
黒く輝く光は一点、鈴乃を向いていた。それは生きるものの命を奪う光。次におそらく致命的な一撃がくることが分かる。慈悲などがないことも。
黒い光が弾けた。その様子が鈴乃の目に焼き付いて、鈴乃の右目は一生分の役目を終えた。
しかし、鈴乃を焼くはずの光が届いたのはそこまで。
「――!」
焼けていくのは直日だった。
鈴乃に覆い被さるように黒い光を見に受ける直日。左目には直日の存在が削れて消えていくのがコマ送りで見える。
また、その瞬間だった。
鈴乃に見えるものの解釈を許す時間を与えないまま、突然狭い部屋が消し飛んだ。
重力が失われて空間が、裂ける。なにが起きているのかひとかけらも分からない。ただ起こることを体感するだけ。
突然、視界に純白の光。その場にあったはずの壁も床も消えていた。
直日と鈴乃を焼いた黒い光が逆流する。やがてかき消えて、空間に浮かんだ真っ黒な鏡が祭壇ごと粉々に塵となって消えるのが見えた。
聞き取りきれないくらいの大きな音とともに、残された鈴乃の左目が空間の全てが真っ白になっていくのを見た。
「……ちゃん!」
誰かを呼ぶ声に、鈴乃は次第に意識を取り戻す。
「鈴ちゃん! ナオくん! しっかりしてっ!」
聞き覚えのある声だった。遅れて耳が生きていることを理解する。
鈴乃はゆっくりと、目を開いた。霞んで、ずいぶん遠くに見える姿。
誰かがすぐ傍らにいて鈴乃の顔を覗き込んでいる。遠くに見えたのは片目を失ったせいなのかもしれない。身体の重さを感じて自分が仰向けに倒れていることも分かった。
鈴乃の左目に映っていたのは楓だった。彼女が何度も呼びかけているのは鈴乃と直日の名前。
ここは……。どこなのか。どうなっているのか。
「……楓……わたし……」
鈴乃の応答に反応する楓。楓は、一瞬言葉に詰まったが、泣きそうな声で言った。
「うん、生きてるよ。ナオくんも大丈夫。もうすぐ大人の人もたくさんくるからね……っ!」
台風10号は日本海に抜け温帯低気圧に変わった。後から知った村の被害の状況。
あちこちで山崩れが起きて、たくさんの家屋が潰されたり流されたりした。線路の橋脚が流されて長い間、電車が不通になり、通行止めになったまま復旧しない道路もあったそうだ。しかし、村では死者は出なかった。先の災害の教訓があったとはいえ、それはきっと幸運なことだったのだろう。
鈴乃と直日が発見されたのは織津神社の境内だったそうだ。
病院に搬送されるまでずっと側にいてくれた楓も、ふたりを見たときにはもうぼろぼろの姿になっていたという。後日、誰に尋ねてもふたりが見た場所を知っている人はいなかった。
鈴乃の記憶が事実だとすれば、それはカミサマが起こした奇跡だったのだろうか。それともふたりが見たものは夢だったのか。
山に大きな雷が落ちたという話を聞いた。鈴乃が見た光はそれだったのかもしれない。
生き残ったとはいえ、鈴乃と直日にはたくさんの傷が残った。鈴乃は右目の視力を失い、左足に麻痺が残った。直日は意識不明の重傷で、背中に酷い火傷を負ってしばらく意識も戻らなかった。その後も生命力を失ったように頻繁に体調を崩すようになって、入院していることが多くなる。
夢か現実か。ふたりから日常を奪ったのはなんなのか。
けれど、その日を境にふたりは当たり前を失った。
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