第3話 原風景になりえたもの
退屈で、刺激もなにもない。
感情を煽るものがない当たり前の風景。それが今の鈴乃にはありがたく思えた。心のゆとりが返ってくるような気がする。
自宅の裏手から、奥の山へ続く道。その先には、地元の人が
家を出てすぐには、神社の大きな杉が並んでいて、その林の影になった砂利道が続く。谷川の上流から引かれた細い用水が勢いよく道の脇を流れていて、聞こえてくる水の音。
しばらくすると、林の影を抜ける。日の光を浴びながら進めば、左手の斜面には茶畑と金柑の木。右手には棚田。正面に1本の柿の木が見える。木の下には使われていない古井戸があって、鈴乃や直日がまだ「普通の」子供でいられた頃を思い出す。
どのくらいぶりだろう。ずっとそこにあった風景のはずなのに。
どうしてだろう。懐かしく感じてしまうのは。
上り坂になって、赤い橋桁が目に入る。
製材所の横に架けられた、比較的新しい橋だった。橋のたもとにある樹脂製の風呂桶。投棄されているというふうでもなく、なにかに利用されてたようだけれど、鈴乃はしらない。中に雨水が溜まって緑色の苔が生えている。人工物の色が混ざっても、なんの違和感も感じないのは見慣れているからだ。
この道を歩くのは長い間ひとりだった。
人は大きくなると、見慣れた風景を狭く感じるという。それは、自分の身体が成長するからか、もっと広い世界を知るからか。
けれど、今の鈴乃にとってはそれが逆のようにも感じられた。この風景を駆け抜けた頃にはわずかな距離だったし、狭い庭のように感じていたと思う。今の鈴乃には自分の行く手を跳ねて遠ざかるハンミョウを追いかけて走ることはもうできない。
それでも、その頃の感覚が戻ってくるのは――。
「この先に、ご先祖さまのお墓があるんだよ」
「……うん、知ってる」
たぶん、当時一緒に歩いた友人が隣にいるからだった。
直日は、学校帰りに毎日のように鈴乃の家に寄った。最初は気まずさから追い返していたのだけれど、それもさらに気まずくなって受け入れてしまった。
「普通」を失って、変わってしまったように感じていたけれど、それは外側だけなのかもしれない。いやもちろん、いろんなものが変わっているだろうけれど、変わらないものもまだここにあるということなのかもしれない。
「……ナオ、帰らなくていいの?」
「だいじょうぶ、ぼくも散歩するくらいの時間は欲しいし」
「わたしを励まそうとして変な感じなのが、痛々しいんだけど……」
直日が困った表情で視線をそらした。ばれていないつもりだったのか。
きっと直日は、自分のために鈴乃がどうかしてしまったとでも思ったのだろう。
励まされる筋合いなんてなかった。反省しているわけではないのだから、落ち込んでいるはずもない。
「変な感じかな……?」
「……まあ、お互いさまだけど」
鈴乃は呆れている。直日の態度にも、自分の頑なさにも。
橋を渡った視線の先は桜峠という名の旧道が続いている。そこに桜の木はもうない。しばらく歩けば斜面は崖になって、その昔、葛城の敷地の端にあったと聞いている墓地がある。その先はもう住む人のいなくなった集落で、今では竹藪になっていて所々に朽ち果てた廃屋が残るだけ。
このくらいで引き返そうか。
宮ノ下という集落を区切るように流れる
ふたりが歩いてきた対岸にはアスファルトで舗装された自動車でも通れるまっすぐな道が敷設されている。この道を下れば葛城の屋敷の前を通って、集落の公民館の前に出る。
山に囲まれた里の日暮れは早い。暗くなる前に帰ろう。
夏の湿った音と空気が乾いて、秋の音と香りに変わっていく。
「ナオ……ありがとう。わたしは平気だから。自分こそ、人のお節介ばかりやいてないで、自分の……ね?」
直日が鈴乃の過ぎた行動に責任を感じている。やはり素直に反省すべきだと思った。なにかを守ろうとして取り下げられなかったこだわりも、認めてしまったら引き返せないと感じた恐ろしさも、輪郭から滲んで、元の色が分からないくらいにくすんで力強さを失っていく。
「ううん、鈴ちゃんが元気な方が、ぼくが好きなだけ」
直日が首を振って自己満足のためだと言う。
そんな恥ずかしい言葉がどうして平気な顔で言えるのか鈴乃には理解できない。けれど、昔からこういう人間だった。子供の頃の心のまま今を生きている直日。
うらやましく思うこともあるけれど、自分はそんなふうにはできないことも知っている。
自分がそれを最後まで許さない。そう信じているから。
鈴乃は葛城の家に傷を付ける狼藉者だ。母も居なくなって、速瀬のものが村に留まる理由ももはやないのかもしれない。風の前の塵芥であれば、どこへでも飛んでいけばいい。
けれど、実際に傷ついたのは家などではなくて、残された鈴乃の父や大切な友人である直日だということ。
直日が笑えと言えば笑っていなければいけない。そんな借りがある気もする。従えば楽になれる。でもそれは罪人として、あるいは捕虜に与えられる安心感。
そこに友人としての意思はない。
直日のお人好しなところだって、実は嫌いではない。誤解をおそれずにいえば直日のことは好きだと言ってもいいけれど、鈴乃にとって、直日はもっとも苦手な存在でもあった。
懐かしさを感じながら直日と歩いた里の道。
遠い昔の情景の中に感じる安らぎは、それがそこにあったからだと思う。
今の関係ができる前からふたりはそこにいて、その頃のふたりはまだ自由だったから。
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