第2話 自分の肖像

蛇口をひねる。キュッと栓が鳴り、奥の配管が低い音を立てて水が止まった。

流しの横を見る。

腐食の入った鏡の古い洗面用具入れ。そこに物憂げな表情の顔があった。鈴乃自身だ。鏡に映った鈴乃の左側の目は、刺すような視線をこちらへ向けている。


足りない。そのくらいの気持ちなら自分にはまるで届かない。

鈴乃は心の中で鏡像にそういった。右側の頬には古い火傷跡があるが、居間の離れた明かりに照らされて傷が模様のように浮かんでいた。右手で頬の傷をなぞる。それは長く、鈴乃の右の目を縦断して額まで続いていた。

鈴乃は右目が見えない。今では当たり前になったこと。けれど失ったのは事実だ。


全盲にならずにすんだのは幸いだった。

それも直日のおかげ。

しかし、鈴乃は素直に喜べない。


鏡に映った鈴乃の表情の鋭さが鈍る。普段は右側の傷を隠すように不自然に長い前髪を非対称に分けていた。けれど、今はそのままが見える。

誰もが知っていることなのに、自分はどうして隠そうとするのだろう。

怖がられるから? 避けられるから? 普段の鈴乃の方がずっと不気味だと思う。

では、憐れまれたくないからか。あるいは、憐れまれたくないふりまでして憐れまれたいのか。


――どうでもいいこと。


鈴乃は鏡を開けて、雑に洗面道具を放り込むと、フェイスタオルを脇のカゴに投げた。

火の入らなくなった竈の裏側から左側を回って居間の前へ。土間にはコンクリートが打たれているが、段差はそのまま残っていて、鈴乃は痺れの残る左足の感覚を確かめるように暗がりの中をゆっくりと進む。


サンダル代わりのクロックスをいい加減に脱ぎ捨てると、鈴乃は式台を踏んで居間へと上がった。

居間といっても部屋はこのひとつ。もともとは大きな家だったらしいが、改修して水回りと居間、小さな倉庫だけが残った。平屋の小さな家。それで鈴乃がひとりで暮らすには充分だった。直系の母は亡くなり、父も今はいない。


長押にかけた制服を見る。

自宅謹慎は2週間。急にできた長い休み。どうしようか。

鈴乃は直日からぶんどったプリントを手に取って、……やめた。

全身の力が抜けて、座り込んだ。首がしなだれて、自然に目が閉じる。


直日の葛城家は、この辺りの名家で、鈴乃の母はそこの出身だった。鈴乃の家名の速瀬も、元々は葛城に仕える一族だったようで、そんな縁もあって鈴乃と直日は小さい頃からよく知っていた。

格式や家柄なんてよく分からない話だけれど、葛城のものは敬うべきという思想が今でも村には残っている。もちろん、それがが鈴乃を後押ししたわけではない。でも、直日が本来とはまるで逆の扱いを受けていることは、少し鈴乃の後悔を深くする。


――あのとき、わたしが余計なことを言い出さなければ。


たどり着いた場所で自分とその友人の人生が壊れた。直日の手を引いて歩いたのは鈴乃だった。ふたりともごく普通の子供だった頃。あの日の選択を、鈴乃は今もこの先も絶対に許しはしない。


直日は、感謝も謝罪も要求しない。どうしてなのか。気を遣っているつもりなら、それは鈴乃には余計に痛い。

いつからか、鈴乃は直日にまっすぐ「ありがとう」が言えなくなった。「ごめんなさい」が言えなくなった。そんな言葉で許された気になってはいけないと、過去の自分と直日の肖像が言っている気がする。


誰もいない部屋にため息がひとつ。

自分はここにまだ居られているのだろうか。それはなぜなのか。

吐息に含まれて、こぼれ漂う感情の名前はなんなのか。

記憶が今を蝕んで、気が付けば後悔が増えている。過ぎ去ってから見つかるものだから後悔というのだ。


見えなくなった右目に、痺れの残る左足に、なにより鈴乃の意識の中にあるもの。切り離せないそれは過ぎ去った昔などではなく、「今」だった。


目を開くと色褪せた畳にぼんやりとした自分の影が落ちている。

自分がいる場所がここだということは知っているし、今を生きていかなければいけないことも、もう分かっている。それでも今日は、そんな答えを出せないくらいには……。


――疲れた、な。

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