第1話 痛恨の一撃
正しいことをしたという思いはなかった。絶対に許されてはいけない行為。
そこにあったのは、明確な敵意。相手を黙らせたいという自分の意思だけ。
いまだに恐ろしさに手が、背中が震える。
感情とその場の勢いだけでできることではなかった。
相手がどのくらい強いのか。どの程度の打撃力が必要なのか。そして、自分がどのくらい弱いのか、自分の力で相手を黙らせることがどのくらい難しいのか。ちゃんと考えていた。
誰かのためを装った、自分自身を守る行動。
「思い切ったよね。なんというか、びっくりした」
「……」
隣に座る友人のそんな感想に返す言葉が思いつかなかった。
はいとも、いいえとも言えない。自分でも驚いているから。
理由はなんであれ、鈴乃がおこしたのは傷害事件だ。
表面上の理由が同情を誘ったことと、当の相手が一番鈴乃に同情的であったことが処分の決め手になった。つまり、被害者の意向で鈴乃がケガをさせた事実が、なかったことにされたのだ。
「鈴ちゃん、大丈夫?」
「……うん」
鈴乃は、声をかけてくれている友人を無視している形になっていることに気付いて、慌てて問いかけに応えた。鈴乃の友人、同級生の
困った表情の楓はため息をついてみせた。鈴乃もそれが楓の素直な気持ちだと思う。楓は顔を上げると力なく笑う。仕方ないというふうに。
「やってしまったことはしかたない。反省してるんだし、また頑張るしかないよ」
楓の言葉は励ましだった。ありがたいけれど、鈴乃は自分の気持ちを知っていた。
本当に反省しているのだろうか。
相手にケガをさせたこと。教室を大騒ぎにしたこと。実は、見たくないものを見ていられないという気持ちを消化するために行っただけの、ただの個人制裁だということ。そのすべてが悪に分類されるべきことだとは理解していた。でも、やらなければよかったとは素直に思えない自分もいた。
ガシャリと音がする。思ったよりも音も、手に伝わってくる反動も少なかった。
閃いたそれは武器などではない。本来、教室の床を掃除するために用意されているもの。鈴乃が手にしているのは掃除用のモップ。ケガをするかもしれないことを知っていて、尖っていて重い方を相手に向けて振り下ろした。
それは控えめな言い方だ。大きなケガを負わせないと相手の心をくじけないことを理解していたからこそ、わざと危険な方で叩いたのだ。それも背後から、頭部を狙って。
鈴乃は怒りで狂っている自分を自覚していた。
そこにあったのは、殺意だったのかもしれない。
何度も脳内で繰り返されてきた光景だったから、行動を起こしたときにはもう自分が止まらなかった。ただ許せないと。
鈴乃には昔からの大切な友人がクラスメイトにいた。
いつもへらへらと笑って、はっきりとものを言わない気の弱い少年。けれど、いつも穏やかで心優しい人間だった。年上なのに、弟のような直日。
ことあるごとにからかわれて、それでもずっと笑っている直日の姿を鈴乃はずっと横目で見てきた。
どうして言い返さないのか。どうして嫌だといわないのか。直日がそれを言えない理由も知っているのに、鈴乃はずっとそんなふうにも感じてきた。事態が好転しないのは直日にだって落ち度があるからなのかもしれない。もしかしたら直日自身が変わることを望んでいないのかもしれない。そんなふうに鈴乃は自分に言い聞かせてきた。
それでも、限界だった。
はっきりしない優柔不断な性格がいけないのか。
身体が弱く、周囲に負担をかけていることがいけないのか。そして進級できずに同じ学年を繰り返していることがいけないのか。
直日がこんな扱いを受けて耐えなければいけないのなら、この世界に生きていていい人間なんてひとりだっていない。鈴乃が出してしまった飛躍した結論。
鈴乃の一撃を受けたそれは、倒れなかった。
直撃した頭部を抱えながら椅子を蹴り、立ち上がってこちらを向く。
苦悶の表情を浮かべてうめくと、後ずさりながら薄目を開けて様子を確認している。その目がこちらを見て固まった。表情には残っていたのは驚き。
どうしてだろう。充分なダメージを与えられていないことは明らかなのに、次の一撃が加えられない。鈴乃の両手は動いてはくれなかった。
ふたりは向き合って視線をあわせたまま立ち尽くしている。
途端に教室は騒然となって、ふたりの周囲から人の気配が遠ざかる。
自分はなにをしたのだろう。そこに何が残ったというのか。
頭部をかばった相手の手が赤く濡れている。
無意味などではない。意味はあって、それは鈴乃の望んでいたものとかけ離れたなにか。
それは対峙するふたりはおろか、鈴乃が行動の理由にした直日にとっても不幸にしかならない。鈴乃は悟った。
なにが許せないのか。ずっと心の内に積み重なっていたものが覆い隠していた鈴乃の本心。それに気付いても驚きはなかった。
直日の今を作ってしまったのは鈴乃なのだ。
鈴乃が今ここにいられるのは直日が鈴乃を守ったから。でなければ、あのときに終わっていたはずの自分。
鈴乃の中に残ったのは自分に向いた怒りと、やり場のない悲しみ。
視界がぼやけて、鈴乃にはもう戦える力なんてなかった。
「鈴ちゃん?」
楓の声に我にかえる。
そのときと同じように、視界がかすむ。
――ああ、そっか。やっぱり後悔してるんだ。
涙が出るくらいなら、泣くくらいなら最初からしなければいい。
誰かを傷つけて、余計な問題を増やして、自分自身もひび割れて崩れてしまいそう。
「……うん、大丈夫」
「そう、良かった」
楓はそれ以上鈴乃の心を覗こうとはしなかった。
小さな神社の拝殿に続く石段にふたり。
大きな木々の影が日差しを遮って、参道をいくらか涼やかな風が通りすぎる。
夏の暑さの残るこの季節。これまでもたくさん失敗を重ねてきた鈴乃だったけれど、いつも迎え入れてくれるこの場所が、鈴乃はどうしてか、とても好きだ。
「鈴ちゃん」
下の方から声が聞こえる。
その声を聞いて、鈴乃は思わず可笑しくて笑ってしまった。
空気も読まずに本人がやってきてしまった。
そんなふうに思いながらも、鈴乃は、どこかで来てくれるのを待っていたのかもしれない。
呆れてしまう。彼にも、そして自分にも。この場所にいると穏やかな気持ちでいられるのに、離れてしまうとどうしてだろう。尖った感情に支配されてしまう。
「あ、ナオくん」
楓が彼の名前を呼んだ。
石段を上って直日がふにゃふにゃと笑いながらやってきた。
「楓ちゃん、鈴ちゃん。やっぱりここにいたんだ。返事も来ないし、電話も繋がらないから心配したよ」
鈴乃の気まずさが分からないのだろうか。
だぶん、それは違う。分かっていて、いつも通りを演じている。それが直日だった。自分のことはいつだってどうでもいいくせに、他人にはおせっかい。
そして鈴乃は、心のどこかで、そんな直日の気持ちに甘えてしまっている。
そんなことが分かるくらいには付き合いは長かった。
宮ノ下地区。地図にはもう載っていない山奥のなにもない集落。事前連絡もなしに同級生が集まる場所なんて限られている。そのひとつがこの織津神社。
3人が小さな頃から一緒に過ごした、良くも悪くも思い出の場所だった。
「鈴ちゃんに届け物だよ」
「いらない」
「え……。それは困るよ。僕も、頼まれたから預かってきただけだし……」
鈴乃は目を合わさずに、直日が差しだした書類をひったくる。
内容は家で確認する。鈴乃は受け取ったまま鞄にしまった。
「……はい、ありがとうございました。……ナオは、もう帰っていいから」
「う……うん」
なにか言いたげに感じた。でも、きっと直日はなにも言わない。返事をしたから本当にそのまま帰るのだ。背を向けて、石段を降り始める直日。
鈴乃には言わないといけない言葉があるのに。
直日がふらふらと石段を降りていく様子を見守る。
鈴乃は、なにも言えなかった。
――わたしは、自分が嫌いだ。
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