第十話

 ザクッと音がして、畳を血が汚していました。タラリタラリと流れ続ける血は、白いシャツを赤黒く変色させていくのです。それは実に滑稽で、私は笑いを堪えきれずに、ついには声に出して笑ってしまうのでした。そんな私に景壱君は苛立ったような視線を向けました。私は口を手で隠します。ぽたりぽたり……血が畳に垂れていきます。

「何を笑ってるんだ。お前から殺してやる」

「イエイエ。あまりに滑稽だったものでつい失敬」

 私が笑っているのが気に入らなかったのでしょう。殺人鬼は包丁を握り締めて、こちらへ歩いて来ました。私は得物を握り締めます。私の間合いまで、あと7歩、6歩、5歩、4歩、3歩、2歩、1歩――

 バン……。鋭い銃声が鳴り響きます。

「ウ、ウ、ウウ……」

 なんとも言えない気味の悪い唸り声がしたかと思うと、奴はバッタリと草の上へ倒れました。奴が動くたびに草に赤黒い血が流れていきます。私は顔を上げます。景壱君が口角を上げていました。嗚呼。これは、やられてしまいました。奴のさしも赤かった顔色が、徐々にさめて、紙のように白くなったかと思うと、みるみる青藍せいらん色に変わっていきます。それで……おしまいでした。奴は動かなくなりました。もう奴は動かないのです。死んでしまったのです。永久の安らぎを約束する前に、死んでしまったのです。庭に下りてきた景壱君が奴の身体を蹴って、仰向けにしました。目を見開いたままです。きっと何が起こったかわからないまま死んだのでしょう。ご愁傷様です。私は手の平を合わせます。お手ての皺と皺を合わせて幸せなのです。

「鬼門閉めておいたよ」

「ありがとぉ」

 いつの間にか姿が消えていると思ったら、鬼門を閉めに行っていたようです。弐色さんは奴が死んでいるのを確認すると苦笑いを浮かべました。あっさり死んでしまったので、つまらないです。興醒めです。片手でも銃を撃てる景壱君の腕前を褒めてあげるべきですが、貫通すれば私も撃たれていたのですから、もう少し考えて欲しかったのです。きっと彼のことですから、貫通しないということも知っていたのでしょうけれど。弐色さんが札を回収したので、もうここには境界が引かれていません。外部からの情報も入って来るようになりますし、ここから外に出ることも可能です。

「さて、これであのメールの被害者がもう出ることは無い。安らぎが約束された訳やね」

「……私が遊びたかったのに、酷いです」

「こやけを傷つけようとしたこいつが悪い」

 景壱君は再び奴を蹴ります。うつ伏せになりました。このままでは彼の苛立ちで死体が破損してしまいます。死体が美しくないのは、私の美学に反します。美しい死体で、人生最後の晴れ舞台を飾って頂きたいのです。そのことは、彼も知っているはずなのですが、私を傷つけようとしたという1点で、奴に対する扱いが雑になっているようです。ここで私は恐ろしいことに気付いてしまったのです。

「これだと、どっちが化け物だかわかんないよね」

 弐色さんがぽつりと呟きました。ここで一気に私の狂気的な興奮が高まりました。全身を電流が駆け抜けたかのようにピリピリとします。嗚呼。これは、癖になっても仕方ありません。しかし、私は断じて人殺しが趣味ではないのです。それは景壱君も同じだと思います。彼がある事を知る過程で人間が死んだところで、彼は人殺しがしたかった訳ではないので、人殺しが趣味ではないのです。結果的に人間が死んでも、彼には無関係なのです。大事なのは、知りたいことを知れたかどうかなのですもの。そして、もう史子さんから教えてもらった『化け物が来ます。』という件名のメールについて知ることができました。だから、彼の興味は既に別の方向へ移っているのです。

「あっはっはっはっは」

 突然、景壱君は、可笑しくて堪らないように、笑いだしたのです。やけに透明度の高くなった碧い瞳と目が合います。スーッと冷めたように凍てついた視線は、私の心を凍らせることにちょうど良いのでしょう。彼は私にスマートフォンを見せてくれました。それよりも左腕の手当てをした方が良いと私は思うのですが、好奇心が彼に痛覚を忘れさせているのでしょう。私はスマートフォンを見ます。何やら画面が次々に流れていきます。弐色さんが隣に来て、私と同様に画面を見ました。

「ああ。さっき景壱が作成した化け物憑きのメールが話題になっているみたいだね。あの化け物、驚かせるにはちょうど良かったんだよね」

「でも、メールの本文と一致しないです! 『たすかりません』ってことは、化け物に殺されるのではありませんか?」

「そういう取り方もできるけど、景壱はどう思ってあんな文章にしたのかな?」

 そんなこと私がわかるとでも思うのでしょうか。景壱君は難しい事ばかり考えているので、私にはさっぱりわからないのです。こうして私が考えている間も彼はスマートフォンを弄って楽しんでいるのです。

「景壱は、化け物が現れた時の人間の反応を見て楽しんでいるだけだよ。あのメールを読んで何も起きなかったら、面白がって他の人間に送るでしょ。送った瞬間に、化け物が来るとは知らないでさ」

「そうなのです?」

「そうでしょ? 景壱」

「その方が反応が面白そうやから、書き変えておいた。こやけが化け物を無数に増やしてくれたから、しばらく楽しめる」

「そうですか」

 私は右手の数珠を振って、使い魔の鴉達を召喚して、奴の死体の片付けを命じました。人間を食べては駄目。人間は料理しない。と菜季さんに言われたので、鴉達の餌にしています。景壱君も人肉料理について好奇心が満たされたようなので、最近は人肉が手に入る環境にあっても、肉を持ち込むことは無くなりました。私が鴉の掃除を見ていると、いつの間にか景壱君は荷物を片付けて、玄関から庭に歩いて来ました。

「こやけ。帰るで」

「はい。弐色さん。有り難うございました」

「どういたしまして。また遊びに来てね」

 玄関で下駄を履き変えてから、景壱君の後を追います。弐色さんが手を振っていたので、振り返しておきました。鉄柵を出る時にひんやりとした感触がしました。また結界に引っかかったようです。景壱君は相変わらず日傘をさしています。先程まで平気で庭にいたのに、やはり日傘はあった方が良いのでしょう。3歩後ろを私は歩きます。そのまま住処へと何事も無く戻ることができました。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る