第2話「砂上の華」
依子が化物と戦い、そして謎めいた少年に助けられた、次の朝。依子は、住居兼事務所の前の通りを掃き清めていた。和洋折衷の一軒家は、ハイカラな帝都の中でもその存在を主張している。堅実な造りの扉には、「津雲探偵事務所」の表札が掛かっていた。
依子にとって、帝都にはびこる奇々怪々を屠ることは己が存在証明と同義である。
……異国の血を濃く顕わしたこの身を、生家が認めることはなかった。虐げられることも、傷付けられるようなこともなかった。父母は穏やかで、兄弟は依子を慕い、依子もまた家族を慕った。
ただ、長く続く穏やかな生活に、依子の力は要らなかった。それだけだ。十四の祝いに与えられたものは分家としての津雲の
幼少の頃より叩き込まれた技は依子の身を守り、生計を立てるのに充分なものであった。
依子は生来明朗で快活な性質であったから、街の人々は皆、依子に優しく、また頼りにもしていた。
温かい隣人と、自分を受け入れてくれる街。大切なものを守れる力。愛しさと、誇りがあって――けれど、一人になるとふと、胸の内を冷たい風が吹き抜ける。酷く心許ない、足元が崩れていくような感覚が――痛いほどの孤独が、依子の裡には住んでいる。
***
依子は肩で息をした。 こめかみを汗が伝う。依子は儚い月明かりの下、奇々怪々……巨大な獣の
闇夜の中、薄明かりを弾いて光る紅い刃に、依子は意識を集中させる。刀を構えた少女に、異形が飛びかかった。今度の敵は、大きく力が強い……加えて素早い。正確に首を狙った鉤爪の一撃を、ぎりぎりで逸らす。峰の元で受けた衝撃が、じん、と腕を痺れさせた。
「……っ」
攻撃の手は緩まない。爪の連撃が襲う。一撃、二撃、三、四、五……
「ぐぅ……ぁっ……!」
依子は耐える。受ける腕が重い。獣が吼える。爪が迫る。六、七……
脳天めがけ振り下ろされた爪を、呪力を籠めた刃で強引に跳ね上げた。
(開いたッ!)
刹那の勝機に、刃をねじ込む。
「ぁああーーッ!!」
腹から逆袈裟に一閃。獣が吼える。牙が迫る。
(……今、)
依子の体が
獣と目が合った。
「……おやすみなさい」
まつろわぬもの、怪異と人は相容れない。
最後はせめて、一撃で。
一太刀、刃が月光を弾く。ごろり、と首を失くして、奇々怪々はその形を闇に崩した。
残心し、刀を納めようとし……依子は総毛立った。まだ殺気が残っている。否、いま新たに出現しつつある。その数、五体。依子一人で相手取るには分が悪すぎる。
「間の悪い……ッ」
街まではやや距離があるものの、この郊外にも民家は存在する。撤退の二文字は
(呪符の残りは充分にある……けど、私の体力が持つかどうか……)
されど。覚悟はとうに決めている。依子は刀を握り直した。依子の周囲で殺気が膨れ上がる。
――風が吹いた。雲が流れる。
それは、あまりにも静かな一閃だった。依子の目の前で、獣が声も立てずに真ッ二つになる。返す刀で左右の獣の首がはね飛んだ。瞬きの間の凶行、依子も残った化け物も、動くことができなかった。
「今日は随分瘴気が濃い。……昨日といい今日といい、君は怪我をするのが趣味なのか」
虚空に溶けるように消えて行く怪異の後ろから、人影が進み出る。月に照らされたその顔を見て、依子は目を見開いた。
「あなたは……!」
白い学生服の上に、無造作に羽織った灰色の外套が揺れる。帽子から覗く前髪が、顔に濃い陰影を刻む。それでも、髪の隙間から覗く瞳は、怪異をまっすぐ見据えていた。透けるような白銀の髪の少年。紛うことなく、昨夜依子を救った少年であった。
少年は刀を構える。
「さて、のんびりしてる暇はないよ。……合わせてくれる?」
依子は、ハッとして頷いた。
「もちろん!」
少年は頷くや地を蹴って獣の元へ飛び、斬りかかった。獣がひるみ、腕を振り回す。もう一体が無防備な少年の背に襲いかかり……次の瞬間、少年の強烈な後ろ蹴りが顎に決まる。獣が苦痛に仰け反り吼える。
「今だッ!」
少年がねじ込んだ勝機に依子が滑り込む。振りかぶった刃が、深々と獣の胸を貫いた。
その背で、少年もまた自らの獲物を仕留めていた。頭部を掴んで押さえ込み、そのまま
「さてと、そっちは大――」
フゥ、と息をつきながら少年が振り向く。依子はそちらに歩み寄ろうとして……
「――え?」
ドン、と衝撃が走る。続いて視界が暗転する。何かが地面に突き刺さる、鈍い音がした。
依子は一瞬の間、閉じていた瞼を開く。依子は仰向けに倒れていた。空を、見上げる視界には、
「あ……」
綺麗だと、思った。吹き飛ばされた学生帽の下の、長い銀髪がすだれのように依子と外界を隔てている。覆いかぶさり密着した身体が柔く熱を伝える。覗き込んだ瞳は、怜悧に澄んだ翠玉の色を浮かべている。
依子が戦っていた怪異はまだ生き絶えてはいなかった。一瞬前に依子が立っていた場所に、巨大な爪が突き立っている。
「詰めが甘いんだよなぁ……っ!」
制服の少年……否、少女は毒づきながら跳ね起きた。依子を突き飛ばした際に、刀は手放してしまっている。
獣は、最後の力を振り絞り、死にもの狂いで襲い来る。対して、少女は徒手にて凪いでいた。
力量の差は一目瞭然。数瞬の後には、少女は挽肉と成り果てる。
(……そんな)
依子は必死で刀を手繰り寄せる。立たなければ。否、間に合わない。割り込んだとて、手負いの一撃を防げるものか。絶望が依子の心を締め上げた。
しかし。迫る死を前にして、少女は唇の端を歪めた。
そして少女は拳を握る。
獣が飛びかかるよりも
「いつまでも!グダグダと!死に損なってんじゃ!ねぇ!」
一言ごとに力を込めて獣を殴りつける。猛烈なラッシュに、ガードの腕が崩れる。既に虫の息となった獣を引き倒し、とどめを刺さんと足を振り上げた。
「まったく……肝が冷えたよ」
バキバキと、骨が踏み折られる音に混じって少女は呟いた。
そこでようやく、依子は身体が動かせるようになった。
「ごめんなさい、私……」
「大丈夫。気にしなくていいよ。仕留め損なうなんてオレもよくあるし」
少女はのんびりと依子の言葉を遮り、落ちた帽子を拾い上げ、土を払った。
依子はハッとした。
「あ、あの……女の子……?」
学生帽の下に結い上げた長髪、外套の下の体つき。身長と口調でごまかしてはいるが、目の前の手練れは確かに女性であった。恐る恐る尋ねた依子に、少女はきょとんとした顔で答えた。
「そうだけど?」
はああ、と依子は大きくため息をつく。ほっとしたのか、それとも落胆したのか。それは依子自身にもよくわからなかった。その間、少女は駆けつけた際に投げ捨てたらしい鞘と細長いバッグ、放り出した刀を拾い集め、刀を納めていた。
乱れた外套を直し、身体を覆い隠す。帽子をかぶり直し、髪をしまうと再び王子様然とした少年が現れた。
――初めて、彼の姿を見た時。あまりにも鮮烈なその太刀筋に見惚れた。まるで童話の姫のような心持ちになった。……柄にもなく、運命の出会いというものを信じてみたくなった。信じかけて、いた。
「私の……王子様……」
遠い目をした依子に、少女が声をかけた。
「ところでキミ、現地の人……えーっと、この辺に住んでるヒト?」
その声で依子は我に返った。
「は、はい!そうです……といっても、街の方だからここからちょっと距離はあるけれど」
それを聞いて、少女はにわかに真剣な表情になった。
「それじゃ、ちょっとお願いがあるんだけど……」
そのただならぬ声音に呑まれ、依子は思わず居住まいを正して少女を見つめた。少女が続ける。
「泊めていただけでしょうか。それと図々しいことを承知でお願いいたしますが何か食べ物とかいただけたらこの上なく嬉しいんですけど無理は言いません宿だけでもどうか……」
少女が言い終えるのを待たず、少女の腹が無慈悲に、かつ盛大に鳴った。途端に情けない顔をした少女に、つい、可笑しくなってしまった。
「ふ、ふふ……」
「ちょっと……笑わないで欲しいんだけどなあ」
依子は努めて笑いをこらえながら答える。
「ふふ……はい、承りました。助けていただいた恩、しっかりお返しさせてください。大した物はお出しできませんが、どうぞお好きなだけ泊まっていって」
「いやいや!泊めてもらえるだけでも有り難いんだ。どうかお気遣いなく」
少女は依子に手を差し出した。
「それじゃ、よろしく。ええと……」
「依子。津雲依子です。よろしく」
依子は差し出された手を取る。少女らしい。ほっそりとした柔らかい手のひらだった。
「オレは櫻木ミソラといいます。ミソラと呼んで」
白い少女……ミソラは微笑み、依子の手を握る。
「こちらこそよろしくお願いします、依子」
夜風が靡く。月の明かりが、二人を照らしていた。
――1916年、初春。二人の少女の物語は、ここから始まる。
津雲桜奇伝 玉簾連雀 @piyooru
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