津雲桜奇伝
玉簾連雀
第1話「月下の君」
生暖かい風の吹く、月のない夜だった。こんな町はずれに街灯があるわけもなく、ろくに舗装もされていない道を明かりも持たずに行くのは、あらゆる危険を伴う。しかしその人影は、暗闇の中を単身、足元も見ず軽やかに駆けていく。目指す先には、闇に浮かぶ禍々しい金の瞳。その持ち主は、地の底から響くような唸りを上げた。
その時。燃え上がる金色よりもなお明く、一閃、紅が夜を切り裂いた。
「やあぁぁぁッ!」
裂帛の気合を込めて打ち出された鋭く澄んだ一撃は、しかし、唸り声と共に、鋭利な爪に阻まれる。
異形の反撃を受け流し体を整えたのは、着物姿の少女であった。
禍々しい紅い刃を構え、金髪と紺袴を翻して再び目の前の異形に打ちかかる。
「はぁッ!!」
研ぎ澄まされた一撃が、熊のような形の化物の左脚を切り裂いた。
化物は地響きのような唸り声を上げて、巨大な爪の付いた太い腕をがむしゃらに振り回した。少女は素早く後ろに飛んで回避する。しかしその時、化物の爪が地面を抉り、少女に向かって石混じりの土くれが降り注いだ。
「……ッ!!」
化物だけに気を取られていた少女は、落下してくる石に怯んだ。その隙を突いて、手負いの化物が迫る。
少女は目を見開いて我が身に迫る鋭利な爪を見る。歯を食いしばり、刀を掲げ、負傷覚悟の防御姿勢を取る。
暗闇の中を駆ける人影が、化物と少女の元に到達したのは、その時だった。
それは、ほんの一瞬だった。
少女に迫る爪は、その腕の半ばから切断された。しかし、勢いのついた腕は地に落ちること無く、なおも少女に迫る。しかし、異形の腕が突き立った先に少女の身体は無い。化物を斬った人影が、少女を抱えて攫っていったからである。闇の中、白い斬撃の軌跡だけが、鮮やかに少女の目に映った。
少女を着地先の地面に下ろすと、人影はすぐに、片腕を失って吼え猛る化物に斬りかかった。暴れる化物の、滅茶苦茶に振り回しされる片腕を止まることなくかわし、あっという間に化物に肉薄する。そのまま化物より高く跳躍した人影は、刀を大きく振り抜き、躊躇うことなくその頭を切り落とした。剣閃が走り、一陣の風に人影の外套がなびいた。
首を失った化物は、傷口からどす黒い血を流しながら倒れ伏す。その身体は、すぐに風化し、灰塵となって風に吹かれて消えていった。
化物を斃した人影は、刀の血を降り落として鞘に収め、地面に座り込んだ少女に近付いた。少女は、深い青緑色の瞳で、謎めいた人影の姿を捉えた。
学生服に学生帽、高下駄を履き、ボロ布のような黒い外套を纏った少年。
彼は、星明かりの下、銀色の前髪を風に揺らし、澄んだ緑色の瞳で少女を覗き込んだ。
「……怪我は?」
訊かれて少女は、はっと我に返った。
「いいえ、大丈夫……」
少年はふと視線を落とし、少女の、刀を持っていた手を取った。
「え……あの……?」
無言で、手の甲、血の滲む切り傷を指差した。
「えっ……と、これは、擦り傷で、だから大丈……っ!?」
ちゅ、と。
軽いリップ音。
少年は、少女の手を両手で包む様に持ち上げ、その傷口にそっと口付けを落としていた。
「あ……あ、あの、あのっ!?」
少女は暗闇の中、頬を紅潮させてしどろもどろになった。少年は全く動じず、少女が焦っている間に唇を離して言った。
「……治った」
「あのっ、私、初めてでそのっ!……え……?」
少女は自分の手を見る。傷は消えていた。
「えっ?」
「治った。他……」
少年は少女を見、
「……無さそうだな」
無表情に満足げに呟いて、立ち上がった。
「君は強いけど、無理はしない方がいい。……それじゃあ」
それだけ言い残して踵を返した、その外套の裾を少女の手が掴んだ。
「待って!私は津雲依子!あなたは……?」
金色の髪の少女……依子を振り返った少年は、一瞬依子を見つめ、そして言った。
「……オレは、ただの通りすがりだ」
依子の手を、外套がすり抜ける。
そのまま少年の姿は、闇に溶けていく。
「待って……」
依子は立ち上がり少年の後を追った。しかし、少年の姿はもうどこにも無かった。
依子は闇夜の中、乱れた鼓動を宥めるように、胸を両手で押さえた。長い間、そうしていた。
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