第2話


瑠香が一年生となって、入部してきた。

その時僕は一つの決心を固めていた。

高校女子の記録が11秒43。

この記録を僕がいるうちに瑠香に超えさせる。

それが僕の目的となった。

今の僕の記録は11秒40。

つまり、僕と走って勝てば高校記録なのだ。

とは言え、3年生。補欠にもなれない僕に瑠香のコーチを任せてもらえるのか?

それから僕は瑠香のために本を読み漁った。

それは自分の時より熱心だった。


当然部にはコーチがいる。男子には児島。女子には松田。

そして監督は鬼と恐れられた宮崎である。

3人とも部外者で陸上専任で雇われ、陸上部を強くすることだけを目標に置いていた。



その鬼監督宮崎と瑠香がどうも相性が悪く、いちいち口答えをする瑠香に、宮崎は嫌悪すら感じ、コーチの松田に指導を丸投げした。

松田も松田でいい加減なところがあり、仕事としてコーチはするけど、適当にやってと、よく言えば放任主義的なところがあった。

それ故期待の星で入部してきた瑠香は責任が重すぎて誰かに変わってほしいと思っていた。

だから「品川瑠香さんの指導をさせてください」と言う僕の申し出は願ったり叶ったりだった。

松田コーチはいい加減で、よく居眠りをしていた。

監督の宮崎は瑠香が嫌いで、女子陸上部と距離を置いていたため、僕のことに気がついてもいないようだった。

僕は瑠香のフォームを検証し、改善を加えていく。

付きっきりのコーチは、陸上部内でも当然噂になった。

瑠香は男子に人気があったからだ。

とは言え僕はそんなことは全然気にならなかった。

僕に恋愛感情は微塵もなかったからだ。

僕は瑠香のためにいろんなコーチに助言をもらったりした。

そんな姿を見て口を挟む人はいなかった。

代表選手でない僕を監督に推したのは松田だった。

あくびをしながら松田はたまに声を掛けてきた。

そして短期間で瑠香の記録はみるみる伸びていった。

それが松田コーチの評価に繋がっていた。


僕が陸上部にいる理由。

それは瑠香を強い選手に育てること。

できればこの1年の大会で優勝を手に入れる。

そうすれば僕が同好会へ行かず、部活を続けた意味がうまれる。

僕は全ての時間を瑠香のために捧げた。


そして夏休み。

僕が瑠香にしてあげられるのはこれで最後かもしれない。

選手の僕を欲しがる大学の陸上部はどこにもなかった。

つまり僕は自力で大学に行くために、受験勉強という未知の経験をしなければいけなくなった。


とは言え陸上は捨てられない。

体育大学を一応目指していた。

僕はコーチ紛いのことを続ける中、一つの自信をつけることができた。

それは僕は指導者に向いてるという確信だ。


夏の一番のイベント。

全国高校陸上選手権大会前日になった。

全国から予選を勝ち上がってきた選手が一堂に会し、全国一を競う大会であった。

これは僕の高校生最後の大会である。

とは言え代表選手に選ばれるはずもなく、補欠にすらなれなかった。


いよいよだ。明日の瑠香のレースが俺の高校最後のレースになる。


「先輩、最後に一度レースをしてください」

瑠香は言った。

もちろんそのつもりだった。

瑠香は本当に早くなっている。

でもまだ負けないだろう。


瑠香との最後のレースに僕は入念にストレッチをする。

よし体は温まった。

僕は松田コーチをよんで、タイムを計ってほしいと言った。

松田は面倒臭いなあと愚痴りながら、数人の一年を連れてきた。

そして僕らはスタートラインに並んだ。

スタート。いつだってスタートは瑠香がいい。

後半で抜き返すのがいつものパターンだ。

しかしいつまでたっても瑠香に追いつけない。

並走すらできない。

追い付いたと思った時には、僕はゴールを駆け抜けていた。

僕と瑠香はほぼ同時にゴールした。

「早いよ、先輩」

それは驚き以外の何ものでもない。

出来は悪くなかった。

だとしたら、一体記録は何秒だ。


「ごめんー…」と松田が笑いながら言った。

ストップウォッチ、止めるの忘れちゃった。

「今の記録よく分かんない…」

結局タイムは分からなかった。

しかし、今年の頭にあった僕との差はすっかりなくなっていた。

だとしたら…。

僕の記録が悪かったのかもしれない…。

しかしもし普通に走ることができていれば…。

瑠香の記録は日本一だろう。


「コーチ…、ちゃんとしてくださいよ。先輩、もう一度勝負しましょ」

そして二走目。

またしても接戦、今度は一年にゴール間際をスマホで写真を撮ってもらった。

僕の方がわずかに早い。

その距離、約15センチくらい。

あの10センチ差を競ったボルトとガトリンみたいではないか。


僕はかなり正確にちゃんと走れた気がしていた。

僕はコーチのストップウォッチを見た。

「ごめんね…。また失敗」

「コーチ、ちゃんとしてください」


と、一年の廣川さんがストップウォッチを手に近寄ってきた。

そしてストップウォッチを見せてくれた。

11秒33。

デジタルは間違いなく、そう数字を刻んでいた。

「これは僕の記録?」

「いえ、瑠香ちゃんの記録です」


誤差はあるだろう。

しかしこの記録が本当なら、それは…。

つまり瑠香が日本一早い女子高校生ということになる。

「これって早いんですか?」

廣川は無邪気にそう聞いた。

「早いよ、とんでもなくね」

非公式記録とは言え、それは高校女子新記録だった。


僕と瑠香の距離は今15センチ。

写真判定でしか分からない紙一重の差。


そして全国高校陸上選手権大会。

補欠ですらない僕はベンチから瑠香を応援していた。

瑠香のことをまだ誰も知らない。

もし昨日と同じ走りができたなら、明日の新聞に載るに違いない。

瑠香は僕の方を見て微笑んだ。そして手を大きく左右に振った。

あんだけ余裕があれば大丈夫だろう。


それは快挙だった。

圧倒的大差で瑠香は駆け抜けていった。

そして正式な記録が表示された。

11秒29。

間違いなく高校女子新記録。

日本新記録にもせまる記録だった。


そして僕は大学の合格通知をもらった。

これでまだ陸上を続けられる。

瑠香は言った。

「先輩、私、2年後先輩の後を追って同じ大学に行くね」


「うちは陸上の名門じゃないからな…」

「もっといいところから推薦が来るよ」

「大丈夫、あと2年もあるし、先輩が私のためにその大学の陸上部を一流の陸上部に変えてくれるから」

先輩の背中を追いかけて、私ここまで来れた気がするの。

だからいつまでも先輩には私の前を走っててほしい。


今度はそれが僕の新たなる目標となった。



そして大学に入ると、僕はいきなりレギュラーに選ばれた。

11秒台でいきなりのレギュラー入り。

それはこの大学の陸上部のレベルを表していた。

とは言え、僕自身瑠香を教えることで、記録が伸びていることは間違いなかった。

速く走るための理論。それが自分にも備わっていたのだ。


「レギュラーに選ばれたって?」

瑠香とのグループライン。

高校時代瑠香を指導する時によく使っていた。

今じゃ、たまにしか使ってない。

「陸上が強い大学じゃないからね」

「でもすごいよ」

そうだ、落ち込んで打ちのめされていた頃から比べると、奇跡のカムバックだ。

とは言えまだ11秒台。

僕が成長したからとは言い難い。

中学記録10秒56さえ超えていないのだ。

最低でも10秒台前半をコンスタントに出せないと、話にならない。

「先輩、今度戦うときは私が勝ちますからね」

「そうやすやすと抜かせないよ」

「了解」と書いたスタンプが送られてきた。

僕は「ありがとう」とスタンプを送った。

そこに深い意味はない。

そう、今の僕があるのは瑠香のおかげなのだ。

少なくとも瑠香に関わっていなければ陸上はもう辞めていたろう。

まして10秒台に挑むこともなかったはずだ。


コーチは本来そう言った技術を教えるためにあるのに、走れる選手と走れない選手を選別し、リストラするためにあるかのようだ。

走りの技術は結局自分で探し出し、実践するしかなかった。

だからできそうにないことは、すぐに諦めてしまった。


しかしそれらを着実に熟していく瑠香を見ていると、自分にもできるんじゃないかという希望が生まれてくる。

希望はやがて、可能性になり、努力の末に道が開かれていくのだ。

瑠香の頑張りが僕を支えてくれたことは間違いない。

瑠香に走りで追い越されたことはない。

それでもいつか追い抜いてほしいと思ってる。


もしそんな日が来れば、瑠香はオリンピックに出ているに違いない。

いや瑠香はもう日本代表候補なのだ。

比較するのはおかしいかもしれない。

でも、僕はオリンピックまでは瑠香の前を走っていたい。

それは瑠香のためであり、僕のためでもある。

今の僕の目標は11秒の壁を切ること。

そして瑠香がこの学校を選んで入学してきたとしたら、その時は10秒台の前半で常に走れる選手になって、瑠香を迎えることだ。


そして今、僕の待ち受けはあのボルトとガトリンの写真に戻っていた。


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