第7話 なんて素晴らしい世界だろう

 冗談じゃないぞ。聖者になってしまった上に、さっそく間引きの対象になってしまうなんて……。


 やばい、やばすぎる。魔悪人のナナとエミさんを追いかけて、周囲には聖者たちがウヨウヨいるに違いない。見つかったら……。


 一刻も早くナナかエミさんを見つけて、往復ビンタをしてもらって、悪人に戻してもらわなければならない。


 でもいったい、どこへ行ったんだ?


 ちくしょう、イナホとの取引もおじゃんになってしまったではないか。せっかくのあの透き通るような白い肌を、豊満なボディを、あれ……、どうした? エロい妄想ができないぞ!


 ウワッ、ダメだ。どんなに頑張っても妄想できないし、エロい気分がすぐに萎えてしまう。聖者になったからだ。俺、まだ未経験なんだぞ! まさに遊びたい年頃なんだぞ!


 きっと聖者は種の保存のために、数回だけしか性行為をしないのだろう。快楽に溺れたりはしない。嫌だ、このまま聖者として生きていくなんて絶対に嫌だ! 


 落ちつけ。落ちつくんだ。幸い、俺は悪人に戻りたいという意識はある。ミキが言っていた聖者度の違いは本当だったんだ。


 そして、俺の聖者度は低いようだ。でも……、ということは欲望は残ったままで、それを満たすことはできないという生殺しのような聖者人生ではないか!


 これは辛い、辛すぎるぞ! いやいや、それも違う。俺は頭を抱えていた手を下ろして、赤く点滅している手の平を見る。俺に聖者人生など待っていない。間引きの対象なんだ。


 頭の中は大パニックだが、一つだけはっきりした。状況は、極めて最悪だ。


 う、動けない。今すぐ逃げ出さないと行けないのに、状況の厳しさに気づいたら、体が動かなくなってしまった。

 ちょっとでも動いたら、聖者と遭遇してしまいそうで怖くてたまらない。ミキは間引きの対象になっても、林の中を逃げていたのに、俺は恐怖のあまり動き出すことができない。


 父さん、母さん、怖いよ……。俺、もうすぐ……。怖いよ、父さん、母さん、助けてくれよ!

 ナナ、助けに来てくれよ! エミさん! ブラッカ! ミキ! 大男の悪人! 誰か助けに来てくれーーー!!


 心の中でも何度も叫ぶ。誰も来てくれるわけがないと思うことができなかった。きっと誰かが来てくれると思うしかなかった。何度も何度も叫び続けた。

 そして、動けないでじっとしている間に、2人の聖者に見つかった。30代くらいの男2人だった。


 助けて、と言おうとしたが、声が出ない。


「兄貴、連れて行くか? ここで間引くか?」

「やってしまおう」


 聖者たちは、間引く気満々だ。冷たい頬笑みが怖すぎる。クソッ、体に力が入らない。

 

 まるで夢の中にいるみたいだ。2人なら、何とか倒すことができるかもしれない。逃げ切れるかもしれない。覚悟を決めるんだ。自分にそう言い聞かせるが、やはり体に力が入らない。


 すると、さらに3人の聖者が現れる。2年前ならただの中年のオヤジに見えただろうが、今の俺には屈強な兵士に見える。


「始めますか」


 一人の聖者がそう言うと、俺は容赦なく殴られ、蹴られ、踏みつけられた。


 意識がもうろうとしていく……。誰か、助けて……、救急車を呼んで……、あっ、


「あ、悪人に、戻りたい……」


 口から血を吐きながら何とかそう呟くことができた。


「これは、間引く前に“再教育”が必要ですね」


 聖者たちは間引きを中断した。


 危なかった。ギリギリのところで、ミキが話してくれた“再教育”のことを思い出すことができた。


 状況の解決にはならないが、時間稼ぎはできる。


「ゲホッ、ゲホッ。クッソー、死ぬほどイテーーー! 狂った聖者野郎が! どうした、早く続けろよ! 聖者のカスが! ゲホッ、ゲホッ」


 残っている力を振り絞って、できるだけ大声で言い放つ。


 そう言っている間に、さらに10人ほどの聖者が集まっていた。


「なんて汚らしい言葉を……。これは、徹底的に“再教育”する必要がありそうすね」


 一人の聖者がそう言うと、俺を抱きかかえ、肩に担いだ。


 そして、気絶してしまう前、俺は一瞬だけ、林の中に身を潜めていた母さんと目が合った。母さん、逃げて……。




 ベッドの上で目を覚ます。


 目覚まし時計をセットしたわけでもないのに、今日も6時ジャストだ。


 ここに来てから、何日経っているのかまるでわからない。目を覚ました時には、聖者に殴られた傷はすっかり治っていた。体の赤い点滅は相変わらず続いてが、恐怖心は消えていた。


 久しぶりに生きている街を見た。病室の窓から、通勤電車や、交差点を行き交う大勢の聖者たちが見えた。

 皆、にこやかな表情をしていて、走っている人やイライラしている人は見当たらない。


 なんて素晴らしい世界だろう。


「タクマさん、朝のジョギングのお時間ですよ」


 看護師のサキさんがジャージを持ってきてくれる。


「はい。ありがとうございます」


 看護師なのに、今日も胸元を大きく開いていて、スカートもかなり短い。

 俺はこのサキさんが苦手だ。もっと清楚な制服を着用してもらいたいものだ。


 看護師長に担当を変えてほしいと何度もお願いしているのだが、今日もサキさんがジャージを持ってきた。


「お着替え、手伝いましょうか?」


 サキさんがそう言いながら、俺の服を脱がそうとする。


「大丈夫です。自分でできますから」


 俺が断ると、サキさんはつまらなさそうに病室から出て行く。

 サキさんは隙あらば体に触れてくるから困ったものだ。結婚をしていない相手に、軽率に触れたりするべきではないのに……、困った聖者だ。


 朝のジョギングが終わると、朝食の時間だ。あまり好きな時間ではない。


「残さず食べてください。私が食べさせてあげましょうか?」


 サキさんがスプーンを持って体を寄せてくる。みっともない。谷間がくっきりと見えている。


「わかりました。自分で食べます」


 仕方ないので、食事を残さず食べる。心が苦しくなる。もうすぐ間引きされる俺が食事をとることが、ひどくもったいないことに思えた。罪深いことに思えた。もっと未来のある聖者が、たくさん食べればいいのにと思っていた。


 食事の時間が終わると、大好きな読書タイムがあった。どの本も、文章の途中で黒く塗りつぶされている個所があった。


「目と心の毒だからね」


と医師が言っていた。


 病院のはからいのおかげで、卑猥な言葉や残酷な言葉を読まずに読書を楽しむことができていた。



「タクマさん、お薬の時間ですよ」


 昼食後、食事をとって落ち込んでいると、見慣れない看護師さんが病室に入って来た。

 大きなメガネをかけていて、制服をきちんと着ている。やっと、担当の看護師さんを変えてくれたのだ。


「さあ、お飲みください」

「あれ、お薬変わったのですか?」

「はい。タクマさん、大分良くなられましたから」


 看護師さんにそう言われて、俺は嬉しくなった。もう間もなく、間引きされるのだろう。こんな思いをしながら食事をとらなくてすむようになる。よかった。


 薬を飲むと、すぐに眠くなってきた。おかしいな……、こんなこと今までなかったのに……。

 あれっ、看護師さんがカツラとメガネを外す……、お前は……。

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