003.
「親父、終わったぞ」
夕食後、皿洗いを終えて戻ると、月臣は座布団を枕にしながら寝そべって背を向けていた。翠の声に、ごろんと仰向けになって振り返る。
「おお、ご苦労だったな翠」
よく見ると手にはせんべいまで持っている。しかも2枚も。
「……食っちゃ寝してると太るぞ」
「これくらいでどうもならんわ。まだムキムキしとるぞ!」
どやー、と言わんばかりに、袖をまくりあげて腕の筋肉を見せびらかしてくる。
確かに年の割には締まった体だとは認めるが…
(ゴロゴロしながらせんべいかじってるようじゃなぁ………)
そう心のなかで呟きながら、翠は扉の方に踵を返した。
「ちょっと、道場行ってくる」
「お、掃除か?」
「違ぇよ。いつもの、剣の方」
それだけ言うと、月臣も理解したように笑った。
「毎日精が出るな。明日久しぶりに手合わせしてやる」
「あぁ、頼むわ」
そう返事して、翠は戸を開けた。
外に出ると、ひんやりとした空気がしみた。春とはいえ、まだ夜は肌寒い。
道場は、母屋のすぐ横にある。
少し重厚な作りの扉を開け、中に入る。
思ったより真っ暗で、翠は思わず目を見開いた。
「そうか、今日は月がねぇんだな…」
履き物を脱ぎながら中に入る。勝手知ったる場所なので、多少見えなくても何がどこにあるかはわかる。迷わず奥の床の間まで行き、燭台に火を灯す。
弱い明かりではあるが、一人で鍛練するには十分だ。
鍛練とはいっても、精神統一と素振りを一時間ほどかけて行うというものだ。
もともとこれは兄が行っていたものだった。
翠が毎日欠かさずやり始めたのは、兄が失踪したあと…3年前からだ。
(よくここで、稽古つけてもらったよな…)
床の間に座りながら、翠は兄の顔を思い出す。
勝てないことに悔しがり、翠が何度も勝負を挑むと、兄はその度に応じてくれた。
そして、いつでも兄は決して手加減せず、こてんぱんにされたものだった。
手を抜いて勝たせても、弟は絶対に満足しないことを兄は知っていたからだ。
厳しく、強く、そして優しい兄だった。
(そういや、こんなこともあったな…)
ふと、思い出す。
それはまだとても幼かった頃、翠は森にある御神木が怖くてたまらなかった。
小さい身長だったため、その樹がより大きく見えたことや、風が吹くたびに葉がざわめく音が鳴き声のように聞こえたことで、化け物のように感じていたのだ。
それを見かねた兄は、ある日翠を御神木のもとに連れ出した。
そして、怖がる弟にこう言ったのだ。
『あそこ、見える?』
兄は、樹の3メートルほど上の一部分を指差す。そこには、途中で折られたやや太い枝があった。
『折れてるだろ?』
『うん…』
『あれ、僕が折ったんだ』
びっくりして翠が兄の方を向くと、兄は少し焦ったように付け加えた。
『あっ、もちろんわざとじゃないよ!ちょっと前にね、あそこに猫がいたんだ。それで、助けなきゃって思って上ったんだけど…そのとき折れちゃったんだ』
『……こんなすごい樹でも、折れるんだ…』
まじまじと枝の傷跡を見つめる翠に、兄は頷いた。
『そうだよ。僕でも折れちゃうくらい、弱いんだよ』
だから、怖がることはないんだよ。
幼い兄は、より幼い弟にそう伝えたかったのだ。
『…あ、でもこれ、みんなには内緒だぞ?絶対怒られるから』
兄は、珍しくいたずらっ子のように笑って、人差し指を口の前に掲げた。
その後、結局樹のことは村の者にばれてしまい、誰がやったかとか、神がお怒りにならないかとかで少し問題になったものだ。
もちろん、兄弟そろって黙りを決め込んでいた。
しかし、神の怒りとやらは怖かったので、2人でしばらくは御神木にごめんなさいを言いに行ったものだ。
そのときには、翠の御神木恐怖症もなくなっていて、謝罪の甲斐あってか神の怒りとやらで何かが起こることもなかった。
(………懐かしいな………)
そこで、自分が長い間思い出に浸っていることに気がついた。
「いけね、集中集中」
気を取り直し、精神統一を始めたその時。
窓から見える空が、赤く、光った。
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