001.

その日は、月が綺麗だった。大きな満月だったように思う。

縁側に腰掛け、その美しさに見とれている弟に、


『ーーーー女の夢を、見るんだ』


隣に座る兄は、唐突にそんなことを口にした。

一瞬呆気にとられたが、女、と聞いてだんだんといけない想像が膨らんでいく。

『なっ……なに言ってんだよ兄貴っ!』

『何を赤くなっているんだい、お前は』

弟の恥ずかしそうな表情で察したのだろう、兄は笑って手をひらひら振った。

『違う違う。そういう夢じゃないよ。声だけが聞こえるんだ』

『…声?』

15歳のいたいけな弟は内心ほっとする。卑猥な内容ではなさそうだ。

『ふーん…。で、その女は何て?』

『会いたい、来てくれ、と』

『めっちゃ誘われてるし…』

『今朝で見るの10回目なんだよ』

『多っっ!』


思わずのけぞって突っ込みをいれた。

兄は苦笑しながら弟から視線を外し、そのまま月を見上げた。

『でも、それがとても綺麗な声で……なんだか、懐かしいような気もするんだ』

月明かりに照らされた兄の表情は、夢の中にいるかのようにどこかうっとりとしていた。


『誰なのかとか、心当たりあるのかよ?』

『いや…それがさっぱりなんだ』

『兄貴の妄想の産物じゃねーの?』

冗談めかしてそう言ったが、兄はそのうっとりした表情のまま弟に微笑んだ。

『うん…そうかもしれないね』

『………』

弟は知っていた。兄がそんな妄想など抱いたりしないことなど。


兄は18歳になっても色恋の話などしたことがない男だった。

女に興味がないわけではなく、さまざまな欲を一切持ち合わせない聖人のような人間だったのだ。


にもかかわらず、弟がそう口にしたのは、

兄の微笑みが儚くて、いまにもどこかに行ってしまいそうだったからだ。

『そんなわけないだろう』と、笑い飛ばして欲しかったのだ。

しかし、兄は幸せそうに微笑んだままで、

弟は、それ以上なにも言うことができなかった。



ーーーそして、その翌朝、

兄は本当に姿を消してしまった。

いまから3年前の、初春のことであった。



* * *



今日は雲ひとつない、抜けるような青空だった。

「…今日もいい天気だな………」

平屋の建物の屋根の上で、一人の青年は仰向けに寝そべりながら呟いた。

ぽかぽかとした陽気に、髪を撫でるそよ風がまた心地よい。

春とは、どうしてこんなに眠りを誘ってくるのだろう。

「もう一眠りするか……」

呟き、また目を伏せようとしたその時。


「ーーーいつまで寝とるんだ、翠っっ」

「うわぁっ!!」


下から怒声が飛んできて、青年、翠は反射的に飛び起きた。

見下ろすと、そこには腕を組んで仁王立ちする初老の男の姿があった。

眉間にはいつもに増して深い皺が刻まれ、豊かな口ひげと長い黒髪はいまにも逆立ちそうな勢いだ。

「………お、親父………」

「道場の屋根の修理は終わったんだろうな?」

「掃除………あー………」

自分の傍らに置いていた工具を見て、自分がこの屋根に上った理由を思い出す。

「わりぃ、まだやってねぇや」

「………どんだけ待ったと思っとるんじゃ馬鹿もん!!!」

先程よりも大きな怒声が、そこらじゅうに響き渡った。

(やべ、このままじゃ夕飯抜きにされる)

翠は焦って両手をあわせてペコペコ頭を下げた。

「悪かったって!すぐに屋根直して、ついでに道場の中もピッカピカに掃除するからさ!」

「そんな事言って、お前は口ばっかりじゃねぇか!!まったく…これでは先祖代々守ってきた道場が泣くわい」

(………まだ2代目だろうが……)

「何か言ったか!?」

「いっ、いや、何でもねぇよ!」

とっさに金槌を握り、翠はへへっと笑った。



時は天正。

各地では領土争いが絶えず、また近頃では凶暴化した獣たちが蔓延っていた。

しかしながら、翠の暮らす神埜の村は、そういったものとは無縁の静かな村だった。

山裾に位置し、周りを森に囲まれたこの村は、川の幸と山の幸にも恵まれている。

それは、森の奥にある『御神木』の加護を受けているからだと、村のものたちはよく話している。


翠の祖父は、同時は名の知れた剣士だったという。なぜかこの村に来て、剣術道場を開いたのが、翠の実家の道場だ。

しかし、平和なこの村では剣術など必要なく、正式な門下生は今や翠のみ。

道場とは名ばかりの雨漏りおんぼろ家屋に成り下がっていた。

翠の父、月臣は、それでも我が父を誇り、道場の存続に尽力し続けているのだ。



(………すげぇ人だったらしいけど……俺、じーさんの顔もよく覚えてねぇし…)

翠は屋根の修理に取りかかり始めた。

月臣は、さきほど「村に客人が来た」と他の村人に言われて母屋に帰っていったところだ。

何だかんだで人望にも篤い月臣は、村の長的な役割も担っている。

村の子どもたちにも、入門とは関係なしに軽く剣を教えたりしてやっているのだ。


(いっそ道場とか堅苦しいのはやめたらいいのにな。この道場には、もう俺だけしかいねぇのに…)

そこまで考えて、ふと翠は手を止めた。

本当は、もう一人いたのだ。

遥かに剣術に長けていた、道場一の門下生が。


(………兄貴………)


3年前、突然姿を消した兄、浅黄。

いつもにこにこ笑っていて、なのに剣は強く、一度も勝てたことはなかった。

村の者や子どもたちからも頼りにされていた好青年で、翠にとっては自慢の兄だった。

なのに。

(どこ、行っちまったんだよ………)


当時は探し回ったものの、手がかりは何一つなかった。

そして今はもう、村全体で浅黄のことには触れないようにしていた。


(いや…兄貴は生きてる、絶対に………)

翠はそう、信じていた。

そして、何食わぬ顔をして帰ってくると、そう思っていた。


「………よし。屋根はできた…。ちゃっちゃと掃除も済ませるか!」

気持ちを切り替えるようにそう言って、翠は屋根から飛び降りた。

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