一ノ二 サラ
星明りも無い完全なる闇の中、漆黒より尚暗い水底へと沈み込んでいくような感覚だった。
おれの身体が落ちていく。
私の意識が墜ちていく。
(侍にならないか)
手足が鉛のように重い。
(そうだ、鬼を斬った。後ろからだ)
何も見えない。沈んでいく感覚が喪失しつつある。
(鬼灯の呪いだ。使い続ければ、いずれはこうなる)
落下しているのか。上昇しているのか。位置が分からない。方向が分からない。
(妖刀鬼灯。尋常の手段では、それを破棄する事は叶いません)
遠いような近いような声が、八方から反響する。
(それは結界にして楔。生ける境界、此岸と彼岸を繋ぐもの)
ふと、眼下に淡い輝きを認めた。無数の蛍が集まって形作られたような、大河の如く蛇行するほの白い光。
(霊峰富士へ向かいなさい。かの御山の火口へと、その刀を投げ入れなさい。さすればそれは地に還り、二度と此の世に現れる事は無いでしょう)
光の河の中から、一筋の支流が細長い渦を巻いて立ち昇って来た。
老人の燻らせる煙草の煙を思わせる緩慢さで、それは私の側までやって来た。
何かが来る。渦巻と共に、何かが昇って来る。何かが――
それは桜次郎が両眼を見開くのとほぼ同時に起こった。
轟音と共に、眼前の賽銭箱のような物体が吹き飛んだ。咄嗟に両腕で己を庇う。
まず遺物か、あるいは神器による攻撃を疑ったが、次の瞬間にはその可能性を捨てていた。視界一杯に、青白い光の柱が出現していたからだ。
「
『古洞』――すなわち、地下深くを通るとされる膨大な魔力の通り道。地上には井戸のようにぽつぽつと、その流れに繋がる不可視の穴が空いている場所が存在する。何らかの理由で古洞の流れの中に大きなうねりが起こった時、稀にそうした"井戸"を魔力が逆流する現象が観測される事があり、それを指して光嘯と呼ぶ。
極小規模の光嘯は古洞を経由して長距離移動を行う転移術式の完了に際して度々見られるものであるが、これ程の大きさのそれは噂にしか聞いた事が無かった。
何か余程膨大な力の奔流が古洞に流れ込んだとしか思えない。
不意の突風が吹き抜けるような、僅かな時間の出来事だった。巨木程もある光の柱は急速に細まり、やがてふつりと姿を消した。既に日は沈み、洞窟内は再び静寂と暗闇に満たされていた。
天井は崩壊し、ぽっかりと空いた穴からは星空が覗いている。
猫の瞳は夜闇にあっても、星を頼りに物を見る。桜次郎の目は、そこにある物の形をはっきりと捉えていた。
光嘯の出現位置、賽銭箱の置かれていた場所に、一人の少女が出現していた。
「痛ッ……てェェー……!」
仰向けに転がっていた少女は、頭を押さえてひとしきり呻くと、やおら体を起こして周囲を見回した。頭の動きに合わせて腰の辺りまである長髪がなびく。色彩が分かりにくいが、どうやら金髪のようだった。
「何者だ」
「うおッびっくりした!びっくりした!だ、誰!?」
桜次郎が
「だッ、誰だよ、返事しろよ!見えないって!怖いだろ、オイ!」
「……」
しばし沈思黙考する。少女は空手である。身に武器を帯びている様子も無い。四つん這いになってふらふらと宙に手を伸ばす様はいかにも無防備だった。
桜次郎は音も無く立ち上がると、足音を消して少女の背後を取ると、やにわにその手を掴んで背中へ回した。同時に膝を背骨に沿って押し当て、痩躯を地面に縫い付ける。
「うギュッ」
「無礼は承知の上だが、こちらものんびりしている暇は無い。お主は何者だ?何処から来た」
「ふうッ、う、し、四国……な、名前は、サラ……ちょ、苦しい、マジで」
「サラか。どうやってここへ来た」
「どうやって、って、古洞だよ……は、話せば、長く、なるけど、知り合いが送って……そンで、来た」
「知り合いが送った?一人でか」
「そうっ、だよ」
桜次郎は訝しんだ。
古洞を利用した跳躍は決して容易な業では無い。殆どの場合、専門的な修練を積んだ僧が複数人で術式を詠唱し、肉体を古洞に流れる魔力と一体化させ、その流れに乗って移動を果たす。
その場合は送り手である僧も共に目的地へ転移する。しかし、この場に現れたのは目の前の少女……サラがただ一人。
更なる問題は、この場所が既に塞がった"穴"であるという事だ。古洞に繋がる穴の数は少なく、それ故丁重に管理されるのが常であり、その点から鑑みるに、この洞穴は明らかに放棄された場所だった。
「閉じた穴を強引にこじ開け、光嘯を発生させる程の力を有した知り合いか。何者だ、それは」
「あたしだって、分かんないよ……だから友達じゃなくて、知り合いなんだってば……ぎゃッ」
桜次郎はサラの脇腹や尻を
若干の間があった後、結局桜次郎は少女を放した。彼女が魔法使いである可能性は零では無いが、そもそも絶対数が少ない上、仮にそうであるなら何らかの反応を起こして然るべき場面である。
解放された少女――サラは咳き込みながら這いずり、桜次郎から距離を取った。
「げほっ、はぁッ、セクハラ、セクハラ野郎だ」
「せくはら……?」
「チカンだチカン!女の子のカラダをべたべた触りやがって、親御さんに恥ずかしくないのかよ!」
「ちか……痴漢では無い。いや、そんな事よりも、そもそも何故お主は古洞を渡って来たのだ」
「質問ばっかだなアンタ……あっ」
はたと何かを思い出したように、サラは動きを止めた。
「そうだ、女の子!あたしの前に女の子来なかった!?黒髪で一本三つ編みを前に流してて、こう、お嬢様ーって感じの」
「いや……ここへ来たのはお主一人だ」
「そっ……か。やっぱり渡りそびれたんだな……」
サラは実に分かりやすく肩を落として落胆した。感情が表に出る娘である。
「連れ合いが居たのか」
「うん……水仙ってコなんだけど、あたし達研究所みたいなトコに捕まっててさ。そのコと一緒に色々頑張って、やっと脱出出来たと思ったのに」
「そうか……気の毒だったな。お主はこれからどうするんだ」
「あー……ていうか、ここって何処なの?」
「山口の西側だ。半日も歩けば、お主の足でも壇ノ浦に……」
言いかけて、桜次郎は弾かれたように顔を上げた。三角耳が無意識にぴくぴくと動いた。
「どうしたんだ?」
「何か来る」
「あっ、ちょっ」
桜次郎は洞窟の外へ足早に歩き出した。サラが慌てて後を追う。
「来るって何が!」
「追手か、山口の警備兵だろうな」
「追手ェ?あんた追われて……あっ」
外へ出ると、洞窟内では差し込まなかった月の光が森の木々を照らしていた。サラの目にもようやく、桜次郎の頭部が明瞭に映し出された。
「えっ、それっ、頭……あ、
「
「いや、ごめん、なんか混乱した。ん?じゃその頭は?被り物?」
「この刀の呪いだ。今それについて話している時間は無い。それよりも今一度聞くが、お主はこれからどうする」
音から察するに、
兵の所属が福岡であれ山口であれ、既に二国は協力関係を結んでいる筈だ。桜次郎が双達の立場ならそうする。
「あたしは……水仙を探したい。友達、あのコだけなんだ」
「……そうか。では少しここに隠れていろ」
「どうすんの?」
「片付けて来る。上手くすれば、足が手に入るかもしれん」
異形と化した頭部に慣れるには、まだ時間がかかりそうだった。夜目と聴覚は以前より明らかに良くなっているが、出っ張った両耳の存在を持て余していた。耳の先を枝葉がくすぐり、微かな音を生じる。
そよ風に打ち消される程度の僅かな物音が、生死に繋がる場合がある事を、侍は骨身に染みて理解している。その慎重さが無ければ、今日まで生き残る事は無かっただろう。
侍として修練を積む中で課された試練の一つに、十日十晩不眠不休で戦闘と警戒を繰り返すというものがあった。
試練の終了期限は一切知らされず、若き侍候補達は肉体的にも精神的にも極限まで追い詰められた。熟練の兵が潜む山中で一瞬でも気を抜けば、真剣に槍、弓、投石、果ては銃器による容赦無い襲撃が加えられた。急所を避けているとはいえ、まともに受ければ死に至る事もある。
侍になるという事はこれ程に過酷なものかと、今にも擦り切れそうな精神状態で痛感したものだ。あの試練を思えば、この状況も絶望に足るものでは無い。
若猪の
先頭を走っていた二輪式鉄駆動が街道の脇に停止し、後続の二機もそれに習う。
桜次郎は木の陰に隠れ、こちらへ歩いて来る兵の姿を見ていた。
兵の装いは福岡のそれと異なり、闇に溶けるような濃紺である。恐らくは山口の国境守備隊。三人という数は侍を相手取るにはあまりに心許ない。単純に異変を確認しに来たのだろう。
「アレ、本当に関係無いんですかねぇ。嫌ですよ俺は、侍なんか相手にすんの」
俯瞰すると三角の形を取って歩く兵達の内、後方の一人が口を開いた。若い男だ。
「俺だって嫌だよ。まあ心配するな、侍だって古洞をどうこう出来る訳ゃねえし、ただの光嘯だろ。上手くすりゃ穴が空いて、新経路になるかもな」
先頭を行く壮年の男が答える。桜次郎は残る黙したまま足を動かす兵に狙いを定めた。
「そしたら俺達は経路発見のお手柄って事で、ちょっとは給金に色付きますかねぇ」
「さあてな。俺にはあの隊長殿にそんな慈悲の心があるとは思えんがね」
「かァー……やっぱそうっすよねぇ。この間の密輸売買の捕り物で出た金だって、一回呑みに行ったらパァってなもんでしたもんねぇ」
「下っ端なんてそんなもんだ。お前若いんだから、頑張って出世しろよ。そしたら給料も待遇も違うぞ。手当だって二ヶ月に一度は出るからな。……おい、聞いてるか?」
壮年の男が振り返る。その眼前には、鬱蒼とした夜の森が広がるばかりだ。
「おい、菊本。藪内。……おい、どこ行った。俺をからかってるのか?」
返答は無い。男の声は木々の間に虚しく響いた。
ごくりと唾を飲み下し、腰に下げた刀の柄に手をかける。日が沈む頃に聞いた、侍の話が脳裏を過ぎる。まさか潜伏していた侍に偶々出くわすなど、そんな偶然がある訳は無いと自分に言い聞かせても、培われた経験と本能の鳴らす警鐘が鳴り止まない。
男が刀を抜く事は無かった。完全な死角から放たれた掌底が、先に無力化した二兵と同じく彼の顎先を的確に捉え、速やかに昏倒せしめたからだ。
回る世界の只中で男が見たものは、暗闇に光る一対の金瞳だった。
「もういいぞ」
桜次郎は洞窟に向かって呼びかけた。冬眠明けの兎めいて少女が頭を覗かせた。きょろきょろと辺りを伺いながら抜き足差し足で移動する様も、警戒心の強い小動物のようだった。
「もうやっつけたのか?話し声しかしなかったけど」
「うむ。この手の事には慣れているからな」
「……殺したの?」
後ろを見ずとも、少女の視線が鬼灯に注がれている事は分かった。声色に純粋な憂慮の念が滲んでいる。
自分でも不思議な事に、桜次郎は戸惑いを覚えた。ともすれば人命も風前の灯のようにあっけなく散る世にあって、この少女は死に慣れていない。
「いや、気絶させただけだ。故に急がねばならん。駆動操作の心得はあるか」
「駆動……ああ!」
街道に止められた鉄駆動を見ると、サラの瞳がぱっと輝いた。
駆け足で近寄り、操舵棒を捻ったり、しゃがみ込んで機関部分を眺めたりする。
「バイクじゃん!しかも循環式の魔術燃料車!これ、遺物じゃなくて神器って言うんだろ?魔法が使われてるから」
「詳しいのか」
「
きっと夜闇の中、猫の頭でもそれと分かる程珍妙な顔になっていたのだろう。サラは怪訝な表情を浮かべていた。
「お主、幾つだ?」
「えーと、十七だと思うけど。それが?」
「いや、歳の割に古めかしい言葉を使うと思ってな。……おい、一緒に来るのか」
「へ?そのつもりじゃ無かったの?」
サラは既に当然のように鉄駆動に跨っていた。
「私は追手が掛かる身だ。共に行動すればいずれ危険が降りかかるぞ。そもそもお主、私が何処へ行くつもりなのかすら知らんだろう」」
「どこ行くつもりなの?」
「……富士山だ」
「へー!富士山か、良いね」
「物見遊山では無いのだぞ。大体、水仙という娘を探す件はどうするのだ」
「んー、研究所がぶっ壊れちゃったから、水仙もずっとそこに居る訳じゃないと思う。あの子、大阪出身だって言ってたから、多分手段があればそこに向かうんじゃないかと思うんだ」
喋りながらも、サラは鍵を捻って原動機を動かし、調子を確かめるように桿を捻った。
駆動音と連動して前照灯が閃き、闇を照らし出す。
「四国に渡れるルートがあればいいけど、あたしは知らない。あんたはどう?」
「……四国は古洞の乏しい地だ。跳躍には相応の人員が必要になる。それだけの仏僧が集まる地は、最寄りでは大阪しか無い」
「なら丁度良いじゃん。大阪に行って水仙を探して、見つからなかったらあたしは四国に渡る。あんたは富士山に向かう。それで行こうよ」
桜次郎は唸った。サラの言う計画は確かに理がある。己と関わってしまった今、福岡に向かわせるのは妙案とは言い難かった。不審人物として兵に捕らえられ、双達と対面して心を読まれるような事があれば目も当てられない。あらゆる手段を以って情報を絞り尽くされるだろう。
何よりも桜次郎には、その刃圏の内にある限り、彼女の安全を守る自信があった。
「……了承した。進退極まった女子供を放り出しては、仮にも侍の名が廃る」
「あんた、カッコつけても初っ端にセクハラした事忘れてないからな」
「セク……痴漢では無いと言うておろうが」
「ふふっ!」
ごく自然な動作で、少女の右手が差し出された。桜次郎はサラの目を見た。
月明りに映し出される瞳は、星々の浮かぶ夜空と同じ濃紺である。
「あんたの名前、まだ聞いてなかった」
「む……そうか、失敬した。私は泉。泉桜次郎だ」
「ん、ヨロシク」
傷だらけの無骨な右手と、白く滑らかな右手が組み合わさった。サラははにかんだように笑い、釣られて桜次郎も微笑した。
「――」
「……え、何?どしたの?」
侍は動きを止めていた。と言うよりも、何かを探る為に神経を集中させているように見えた。
サラは形の良い三角の両耳がぴくぴくと動いている事に気づいた。
「……何か来る」
「またかよ!さっきと同じ奴ら?」
「いや、これは……」
天を仰いで鼻先をひくつかせ、侍は険しい顔で続ける。
「追手だ。明確な殺意を感じる。急ごう」
「まったく忙しいな!」
二両の鉄駆動が街道の砂を蹴立て、腹の底に響く唸り声を上げて発進した。
二つの尾灯が地平に霞んで見えなくなった頃。放置された一両の鉄駆動の元に、一体の人影が現れた。
矮躯である。精々、子供の背丈程度しか無い。黄色と黒を基調とした裃を着込み、背には己の身長程もある、無骨な鉄塊を負っている。
何より奇妙な事には、額と髪の境から、兎の耳が生えていた。よくよく見れば、それは三日月型の装身具に付随する偽耳である事が分かるだろう。
影は目を閉じ、しばし呼吸を整えた。小さなその身を魔力が巡る。古洞に近しいその場所では、尚の事鮮明に標的の気配が感じ取れた。
「鉄目天元」
闇の中に、炭火の如き赤眼が浮かび上がった。影は再び走り出した。
仇である侍を討つ為に、一心不乱に走り出した。
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