一ノ一 泉桜次郎

 どれ程の時間歩いただろうか。

 追手を警戒しつつ、疲弊しきった体に鞭打って足を進める内、桜次郎おうじろうはふと小さな洞穴に目を留めた。


 入口付近には草木が生い茂り、うっかりすればその存在を見落としてしまいそうな程の目立たぬ横穴である。 一時体を休めるには、最適であるように思えた。


 桜次郎はまず周囲の蔦や小枝を拾い集め、即席の鳴子を作ると、入口の草木を折らぬよう、慎重に洞穴へ進入した。

 洞穴の奥は入口からは見渡せず、これもまた追われる身には都合の良い地形と言えた。


 外からは見えぬ位置に鳴子を張り終えると、次に内部を調べ始めた。

 入口の大きさから予測した通り、然程大きな洞穴では無い。三十歩程で最奥に突き当たった。

 そこには桜次郎の背丈程の小さな鳥居と、賽銭箱のような物が鎮座していた。少なくとも最近人が出入りした形跡は皆無であったので、打ち捨てられて久しい神社か祭場であろうと推測出来た。


 彼は鳥居に一礼してから、その傍に腰を下ろして壁に背を預けると、懐から湿気った干し肉を取り出して食した。

 鋭利な牙は人間の歯と比べて、遥かに簡単に肉の筋を喰い千切る事が出来た。

 竹筒の水をぐいと飲み干すと、鬼灯を腰帯から外し、胸に抱くようにして腕を組み、瞼を閉じる。

 様々な思考が、沸々と浮かんでは消えていく。


 今後の道程。追撃の手が緩まる事は無いだろう。あるいは大阪へ跳んでから西へと向かい、挟み撃ちにする腹積もりやも知れぬ。厳しい旅となる事は覚悟していたが、双達を始めとする福岡の兵の反応は予想以上のものだった。今後も鬼灯の力を借りねばならぬ場面が訪れるだろう。


 猫に変わった頭。鬼灯の副作用以外には考えられない。師匠と同じく、このままその力を引き出し続ければ、いずれは全身が侵される。だが、やらねばならない。最早後戻りは出来ない。


 双達。国を出奔する前に見た時よりも、目の隈が濃くなっていた。その心中を、心の読めぬ己に推し量る事は難しい。双達は職務に忠実な男である。関門海峡でも、本気でこちらの命を奪りに来ていた。

 それについて恨みに思う事は無い。恨みに思う資格も無い。事情はどうあれ、国と民を裏切ったのだから。


 師匠。知事。佐賀県の森の魔女。霊峰富士。鬼灯。

 疲労が思考を押し流す。未だ降り止まぬ雨音を遠くに感じながら、桜次郎は徐々に微睡まどろみの中へと落ちていった。

 


 

 

 「何があっても絶対に出るな」と言われてから数時間、おれは耳が痛いぐらいの静けさに耐えかねて、父の編んだ行李こうりを中から開けて辺りを見回した。

 部屋の空気に鼻が触れた途端、吐き気が込み上げて来た。鉄臭さと生臭さが入り混じった、酷い臭いだった。

 

「おっ母」


 最初に目に入ったのは母親の死体だった。ずっと暗闇の中に居たせいで、星明りでも物を見るのに不足は無かった。

 母は着物を乱雑に脱がされていた。それが何を意味するのかを知るのはもっと後になるが、首に刺さった刀が致命に及んだ事は容易に理解出来た。

 呆然と視線を彷徨わせると、土間に二つの小さな体が折り重なっているのを見つけた。松兄まつにいすみれだった。

 松兄は菫に覆いかぶさるようにしていたが、二人とも死んでいるのは明らかだった。松兄の背中には大きな穴が空いていて、それはきっと菫の小さな胸を貫通していた。


 おれは多分夢遊病者のような足取りで外に出て、そして外も似たような有様だった。 

 玄関先では父が仰向けに倒れていた。胸には兄妹と同じような穴が空いていた。鉈を片手に持っていたから、戦おうとしていたんだと思う。

 遠くの方で銃声が聞こえた。火縄筒とは違う、遺物の銃特有の鋭く乾いた音だ。あれが鳴る度、きっと人が死ぬのだろう。父も兄も妹もそうだった。それが分かる程に聞き慣れてしまった。


 隣家を覗いてみると、軒先で矢史郎が倒れていた。つい先刻、近所の悪餓鬼を引き連れておれに喧嘩を売って来た奴だった。

 五対一だったが、返り討ちにしてやった。意気揚々とうちに帰って、開口一番おれは家業を継がず侍になるんだと息巻いていたのが、もう遥か昔の出来事のようだった。

 矢史郎は鍬を両手に握っていた。武器とするには身の丈に合わない道具だった。身の丈に合わぬ敵と戦おうとしたのだろう。五人がかりでおれ一人倒せない子供が、遺物を手にした山賊どもを相手取ろうとした結果なのだろう。


 松兄と菫は殺された。隠れる順序が逆なら、兄妹が生き残っていただろうか。おれにはそうは思えなかった。

 きっと鳴り止まない砲声や山賊どもの怒号や、母の悲鳴や……あるいはおれの泣きわめく声を無視出来ずに飛び出しただろう。


 そうして殺されたに違いない。おれとは違う。家族を見殺しにして生き延びたおれとは。


 村の中に生き残りは居なかった。死体の数が足りなかったので、何人かは連れ去られたのだと思う。四国辺りに売り飛ばすのだろう。そういう噂話を聞いた事があると、いつか父が話していた。

 こんな何も無い、しけた山村を襲うような賊は居ないと、怖がる菫を宥めていた事を思い出す。


 むくろを清めて埋葬するのに丸二日かかった。冬の入りだったので、なんとか腐敗が回る前に終える事が出来た。

 その頃のおれには、襲撃を軍に報告するという発想は無かった。

 心の中は一つの感情で溢れていて、他の事を考える余裕は無かった。


 簡素な墓を建て終えると、おれは山へと踏み入った。あてがあった訳では無い。

 右手に握った刀に突き動かされるような感覚だった。母の血に濡れた刀。血脂を落としても、その刀身に家族の無念がべったりとこびり付いているような気がした。






 冬が来て、春が来た。夏が来て、また冬が来た。

 そうして季節が三周した頃、おれは沢で一人水を汲んでいた山賊を捕まえた。

 三本目の指を落としたところで、そいつがおれの村を襲った山賊の仲間である事や、現在は隣山の頂上にある神代の遺跡を根城にしている事を喋り始めた。


 時期が来たと思った。三年の歳月は、おれを確実に強くしていた。

 飢えた獣や、未知の武器を持った野盗を相手取り、修羅場を潜り抜ける内に、おれの体は幾度も叩き上げられた刃のように強靭になっていた。


 そいつか、そいつの仲間が母にそうしたように、山賊の首に刃の切っ先を突き立ててると、おれは隣山の方を見た。


 あのてっぺんに、仇が居る。






 三年前と同じ、酸鼻極まる光景が目の前に広がっていた。

 あの日と違っていたのは、物のように転がる山賊どもの死因である。その箇所に差はあれど、どれも一刀の下に命を断たれていた。

 首を横薙ぎ。頭を唐竹割り。胴を袈裟に一閃。喉元を一突き。心臓を穿ち、肩口まで斬り上げ。鮮やかなまでの殺人の手際。徹底して効率的で無慈悲な殺戮。

 切り口は恐ろしく滑らかで、切断面をぴったりと合わせればすぐにくっ付くのではないかと思わせる程だった。


「ーーこのような所で如何した、わらし。こやつらの同朋という風体には見えぬが」


 山頂の中心地近くに、一振りの刀を携えた侍が立っていた。白髪交じりの総髪の、枯れ木のような印象の男だった。

 傍らには首を落とされた山賊の死体。たった今まで生きていたと見え、首の断面から鮮血が断続的に噴き出していた。


「……あんたがやったのか。これ全部」

「いかにも」


 侍は何でもないように首肯した。

 おれが山頂に来るまで、銃声の類を耳にする事は一切無かった。

 それは遺物によって武装した悪名高き山賊どもを、ただ一発の銃弾を放つ暇も与えずにことごとく斬殺した事を意味していた。


「たった一人で?」

「然り。前々から追っていた輩だが、最近になってこやつらが一定の範囲に居る人間の数を把握出来るという神器を所持している事が分かってな。軍を動かすと先手を打たれ逃げられる。そうした事情で、私が単独で来た」


 そこまで言い終える頃には、既に侍はおれの様子に気付いていたように見えた。


 おれはと言えば何をすればいいのか、何をすべきなのか、全く分からなくなっていた。

 仇討ちの為だけに己の全力を注いで今日まで生きてきたというのに、復讐の機会はおれの眼前で永遠に奪われてしまっていた。


 熱くて湿ったものが頬を伝うのを感じて、その時初めて己が泣いている事に気が付いた。親兄妹を殺されても出なかった涙だった。


「何故泣く」

「おれは」


 震える喉を精一杯に押さえつけて、おれはなんとか胸の奥から込み上げる何かを言葉へと変えていった。


「おれは、こいつらに村を潰された。家族を殺された。その日からずっと、こいつらを殺す為だけに生きてきた」

「……それは」

「侍は!」


 直感的に、侍が頭を下げようとしているのが分かった。冗談では無いと思った。


「侍はっ!民を守るものだろ!悪者をやっつけるんだろ!なんっ、なんであの日に来てくれなかった!そんなに強いなら、なんでおれの村を守ってくれなかったんだよ!なんで…… なんで今なんだよ……!なんで……!」


 それは無茶苦茶な理屈であったに違いない。侍といえど何もかもを救える訳では無い。おれの村の事だって、救いたくなかった訳は無い。


 それでも言わずには居られなかった。

 何故おれの家族が死ななければならなかったのかと、何故おれの仇を殺してしまったのかと、その理不尽をぶつけずには居られなかった。


 ややあって、侍は深く頭を下げた。ぴしりと音がしそうな程の綺麗な一礼だった。


「済まなかった。全ては私が至らぬが故に起こった事だ」


 非の打ち所の無い謝罪であったと思う。言葉以上に、その物腰に謝意が込もっていた。

 それ故に、おれは神経を逆撫でされたような感覚に陥った。

 理屈では無い。それこそ子供の駄々のような感情だったろう。


「おれと立ち合え」


 行き場を失った復讐心に突き動かされるまま、そう言い放った。

 礼をしたまま動かなかった侍の頭が僅かに持ち上がり、猛禽類を思わせる眼光がおれを射抜いた。枯木のようだと思われた全身に、磁場のような不可視の力が巡っているようだった。


「私に立ち合えと」

「そう言った。今この場でだ」


 侍は姿勢を戻しつつ、心中にわだかまった何かを排出するように息を吐いた。

 一呼吸分の間を取ると、彼は腰の物に手を伸ばさず、素手のまま構えた。

おれの眉間にはきっと、生涯の内で一番深い皺が刻まれたと思う。


「何の真似だ。抜け、抜いて構えろ。おれと勝負しろ!」

「この刃は我が国の民に仇成す者のみを斬る」


 毅然とした口調だった。水が高きから低きへ流れるが如く、当然の摂理を説くかのような。


「お主には向けられん」


 侍の構えは、例えこのまま斬りかかったとしても、一触れさえせず返討ちに遭う事を予期させるのに十分なものだった。一塊の巨岩に打ち込むようなものだ。


 おれは刀を捨て、侍と同じく素手の構えを取った。鷹の目が、僅かに丸く見開かれたように思えた。


「あんたが抜かんならおれも抜かん。この拳でぶちのめす」


 そう言った時の侍の顔は、今思い出しても奇妙なものだった。怒っているような戸惑っているような、もしかしたら笑いを堪えていたのかもしれない。

 それでも侍の態度に、こちらを侮るような空気は微塵も感じ取れなかった。

 福岡県が誇る侍は、その時間違いなく本気だった。


「侍頭、鉄目天元かなめてんげん。童、名は何という」

「泉桜次郎」

「承った、泉桜次郎。我が全霊をってお相手仕つかまつる」


 それを合図に、俺は地を蹴った。

 何の小細工も弄さず、ただ真っ直ぐに踏み込む。

 侍の顔面に目掛け、槍を突き出すが如く右の拳を思い切り打ち込みーーその日のおれの記憶は、そこで途切れている。

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