遺世界ブルーム
陸猫
序 壇ノ浦
その日、関門海峡は嵐に覆われていた。
時折閃く雷光が、荒波と曇天を背に崖際にて立つ侍の姿を浮き立たせている。
より精確には、侍は崖際に追い込まれていた。焔色の戦装束を身に着けた兵達が、獲物を手に包囲している状況を見れば、それは一目瞭然である。
兵の量、質、そして武装――刀槍弓矢は元より、量産が困難な遺物である
単騎の利を活かし、追跡され難い経路を選んだ上で、歩いて三日はかかる道程を半日と経たぬ内に駆けてきたと言うのに、未だ五十を下らぬ兵たちが陣を成している。
さもあらん。侍の腰に差された一振りの刀こそは、彼の国が宝刀にして神器なのだから。
当初の予定であった、瞑想転移術式に便乗して大阪まで渡る計画は既に頓挫している。
四十人の僧による詠唱が完了するには今暫くの時を要し、また転移術式の成立から『古洞』へ跳ぶまでにはどう足掻いても数呼吸の間を取らねばならない。この状況にあって、その隙が致命となる事は火を見るよりも明らかであった。
背後は断崖絶壁、その下にはうねる大波。そして海中より首をもたげる無数の海竜どもが、足を滑らせて転落する間抜けな獲物は居らぬかと、柘榴のような紅い目を光らせている。
さりとて、眼前の兵を切り倒して突破する事もまた至難。まず殺める事を封じられている上に、この場を切り抜けたとしても多勢に無勢の状況が変わる訳では無い。
そして何よりも――。
「ここまでだ、
暴風と雷鳴と詠唱の最中にあって、なおよく通る音声が和布刈の岬に響いた。
陣列から一歩前に出でた男の装いは、泉桜次郎と呼ばれた侍と同じく和装である。
やや痩身で年若く、顔色は紙のように白いが、その佇まいには一種の威厳が漂っていた。
彼こそは福岡県が擁するもう一人の侍にして、桜次郎にとっての最大の障害。名を
さながら罪人の判決を読み上げる官吏ごとく堂々と、双達は言葉を継いだ。
「転移術式が完成するまでは待たぬ。『鬼灯』を引き渡し、投降せよ。さもなくば」
双達は右腰に下げていた長銃を抜き放ち、泉の額にぴたりと照準を合わせた。
崖際の侍は知っている。あの左腕から放たれる弾丸の精密さを。『銭穿ち』『蚊やらい』『目釘打ち』……その神技を称える渾名を数えれば枚挙に暇が無い。
その上に厄介なのは、双達には魔術の素養があるという事だ。こればかりは剣技において彼を上回る泉をして、まず敵わぬと認める他無い才能であった。
狙撃と魔術。およそ侍には似つかわしくない技と才が融合した時、双達は実に恐るべき魔弾の使い手となる。
「申し開きの機会は与えられよう。知事は寛大なお方だ、降るのであれば命までは取らぬと仰った」
「……鉄目。私は師の遺志を」
「黙れ。動くな」
稲光が天空に皹を入れ、海竜の一匹を炭の柱へと変えた。その熱量に負けぬ程の怒気が、言葉の端に滲んでいた。
会話を囮に隙を伺い、鬼灯を抜かんとする桜次郎の目論見など、双達はとうに承知している。
双達が得意とする魔術の一つは読心。心中を一言一句まで正確に読み取れる訳では無い。だがどのような意図を持っているのか、察せられる程度であれば問題は無かった。
人が行動を起こす際には、必ず真っ先に心が動く。心の動きを察知出来れば、先の先を抑えるも容易きが道理。
例え桜次郎の言葉が本心から発せられたものであろうと、侍として鉄目双達が取る行動に変わりは無い。
「分かっている筈だ、私を出し抜く事は出来ない。貴様は
「――侍はただ主君の剣たるべし」
それは双達の言葉を受けて、殆ど無意識の内から発せられたものであるように思えた。
泉は視線を伏せ、重く低く、悼むかのように言葉を続けた。
「剣は想わぬ。剣は恐れぬ。剣は躊躇わぬ。剣はただ主君の敵を切り伏せ、鞘に収まるべきものなり」
双達は把持した銃を微動だにせぬまま、思考を巡らせていた。泉の放つ言葉の意図を。師の言葉の意味を。
泉が此方の隙を狙っているのは、読み取った心象からも明白である。
だが、隙を突いたところで一体何をするというのか。よもや内地に逃げ続ければ、国が追跡を諦めると考えている訳でもあるまい。彼の知る泉桜次郎という男はそこまで愚かでは無い。
故に双達は迷った。思考が読み取れるのに目的が読み解けない。その不可解さと、共に侍を目指して競い合った日々の残像が、引鉄にかけた指を凍らせていた。
それでも、彼が決断を下すまで
侍はただ主君の剣たるべし――正にその言葉を実行すべく、人差し指に力を込めようとした瞬間であった。
「本当にそのように思っていたのか」
「……何?」
「我らの師が真実そのように考えていたと、他ならぬお主が思っていたのかと問うた」
「――」
痩身の侍は、咄嗟の返答を己の中に見出す事が出来なかった。
代わりに想起したものは、鉄目双達の父にして師――
いかなる時も雄大で凛々しく、穏やかな凪のまま揺れる事無きあの心根の感覚が、双達はたまらなく好きだった。
だが、例えば山賊を斬った日。鬼狩りを成し名声を得た日。他国から来た武芸者の挑戦を受け、これを仕果たした日。
その心中に澱のような物が舞う事を、彼だけが知っていた。
嵐が過ぎ去った後の、褐色に濁った湖水を思わせるそれは、剣たるべしとの心得を弟子たちに説いた、あの日にさえも。
その思索が、逡巡が、桜次郎には手に取るように分かっていた。読心術など使う必要も無い。繰り返し伝えられてきた格言だが、師の本心では無いという確信があった。
鬼狩りの後、酒に酔った事など無い師が厠で吐き戻していた時の事を思い出す。師の最期、力を使い果たした直後の言葉を思い出す。
師は道具として振る舞う事を、きっと嫌悪していた。嫌悪しながらも、侍としての重責を果たした。
自らの意志を殺し、ただ剣としての力を振るい、主に仕える事こそが侍の責務であると、師は考えていたのだろうか。
それが正しいとも、あるいは間違っているとも、桜次郎に断ずる事は出来ないが。
誰あろう鉄目双達には分かっていた筈だ。九州随一と称される読心の使い手ならば、その正否を判断する事が出来た筈だ。
果たして、その読みは正鵠を射ていた。
読心の優位性に対する為には如何にするか。
正面から、本心から、心の隙を突く他無いと、桜次郎は結論付けた。
ほんの刹那で構わない。寸毫の間を奪う事さえ出来たならば。
何万、何十万、あるいはそれ以上に繰り返してきた動作だった。
右手で刀の柄を掴み、抜き放つ。斬って納刀する。神速の域に達した型――それでも尚、双達は動作の起りを掴んでいた。
間髪入れず、長銃が火を噴いた。感情の介在しない、反射にも似た射撃。全ての銃手が理想とする無為の一射。
その瞬間、圧倒的な兵力差は無に帰し、場の勝敗はただただ単純な、彼我の速度差に集束した。
泉桜次郎と鉄目双達は、この時初めて同じ土俵に立ったのだ。
侍は二つの博打を打った。
一つは双達がこちらの意図を察し、引鉄を絞り、撃ち出された弾丸が飛来するまでに鬼灯を抜刀出来るか否か。
螺旋状に回転しながら飛び来る弾丸も。降りしきる雨粒の一滴も。陣列の背後、背の高い杉の木に落ちようとしている雷の軌跡も。その一瞬、桜次郎には全てが見えていた。
同時に感ずる、背骨を遡っていく悪寒。己が世界ごと凍りついたかのような錯覚。刀身より放たれる濃密な死の芳香。
鬼灯を手にした者が例外無く味わう、猛烈な不吉。半身を三途の川に浸すかのようなその感覚を以てして尚、桜次郎の目が恐怖の色は映す事は無い。
侍は二つの博打を打った。今一つは――。
「……馬鹿な」
侍。
国中から選別され、鍛え抜かれた人材の内から、更にほんの一握りのみがその
その精鋭中の精鋭をして、一瞬呆気に取られた。生死の狭間、文字通り一瞬きの隙が命取りとなる間合いで。
それ程の狂気、それ程の愚行であった。
桜次郎は跳んだ。刀身で弾丸を逸らしつつ、前では無く後ろへ。渦を巻く関門海峡の荒波へ、血肉に飢えた海竜の群れへと身を投じた。
兵達の目には、桜次郎が稲光と共に忽然と消え失せたように見えていたが、唯一双達だけはその動きを捉えていた。心象の手触りが、確かに位置を伝えていた。父と同じ、揺らがぬ意志を湛えた心根。
「(対岸まで千歩足らずか)」
盤上遊戯における妙手と同じく、打たれてみなければ分からぬ手というものはある。
成程鬼灯の力を持ってすれば、海面に並ぶ海竜の頭から頭へと飛び渡り、終には壇ノ浦まで到達する事も不可能では無いかもしれない。
だが、彼の力は無限では無い。使えば使う程に侵され、蝕まれ、果てに待つのは暴走の末の自滅である。
「この……!」
愚か者が――という罵倒を、双達はかろうじて飲み込んだ。兵の前で頭が取り乱す訳には行かぬ。
桜次郎の目論見は分かっている。あれは国宝を捨てるつもりだ。
狂を発した亡父の言葉を真に受け、国の財産にして最高戦力を破棄するつもりだ。
双達は罵る代わりに滑らかな手付きで次弾の装填を終えると、半ば瞬間移動のような速度で遠ざかる桜次郎の背を目がけて弾丸を放った。
いかな狙撃の名手であれ、大木がしなる程の風雨の中、高速で動き続ける標的を穿つなど不可能。当然双達もそれは承知の上であり、故にその発砲は八つ当たりに近いものであった。
号砲をきっかけに、海上を跳躍する桜次郎に気付いた兵達が一斉に射撃を開始した。
放たれた弾丸や矢は弾幕となり、その一部は侍の身体を確かに捉えていたが、宙に紫電が閃くと同時に全てが叩き落されていた。跳躍の最中に身を捻りつつ放たれた一刀が、迫る脅威を
「撃ち方止め」
その斬撃を見るや、双達は唸るように命じた。それ以上の攻撃が無駄である事は、おおよそその場の全員が感じた頃合いであった。
「山口の守備隊に連絡せよ。共同して奴の追跡に当たる。沿岸の捜索も欠かすな。もし奴が途中で落ちれば、鬼灯はまた近辺の何処かに現れるぞ。あれが他所の人間の手に渡るような事態だけは避けねばならぬ」
「他国との共同を図るとなると、鬼灯強奪の件を隠し通すのは困難になりますが」
「構わぬ。鬼灯の奪還が最優先だ」
「は」
命を受けた兵達は迅速に動き始めた。
双達はしばし海峡を睨んでいたが、仇敵の姿は既に雨の向こう側に消えていた。
――壇ノ浦。
海峡を渡り終えた侍は街道を避け、鬱蒼と茂った森の中をひた走っていた。
嵐の間に距離を稼がなければならない。晴れ間が出て海竜が海底へ帰れば船が出る。短距離、少人数に限れば、簡易の転移術式を編んで古洞を経由し人物を輸送する事も出来る。鉄目双達が音頭を取る以上、追跡の手が緩む事は無いだろう。
鬼灯を連続して使用した負債は確実に蓄積している。
一足ごとに脳髄が痺れるような痛みが走り、鼓膜が破れそうな程の耳鳴りは止まる気配が無い。体中の関節がぎしぎしと悲鳴を上げ、視界もひどく霞んでいた。
早晩限界が訪れる事は明白である。移動手段か、安全な仮宿を見つける必要があった。二日や三日で終わる旅路では無い。
思考と焦燥が注意力を削いだか、木の根に足を取られて派手に転倒した。
山育ち故悪路には慣れている桜次郎だが、己が考えていたよりも疲労は深刻であるらしかった。
このまま眠ってしまいたくなる体に喝を入れ、上体を起こす。泥まみれになった顔を拭い……そこで初めて違和感に気付いた。
足元にあった水溜まりを覗き込む。曇天の上薄暗い森の中でははっきりとした姿を映す事は叶わなかったが。
その輪郭が人の形をしていない事だけは、理解せざるを得なかった。
頭頂部の両側に、ぴんと立った耳。尖った鼻と、そのすぐ下に大きな口。舌を動かせば、人のそれよりも明らかに鋭利な歯列を感じる。そして何より、顔面を隈なく覆う、しとどに濡れた毛皮。
「……ねこ」
侍の頭は、猫に変貌していた。
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