第18話 戦場の霧の中で

 野営陣地が丘の上に張られ、そこに再集結したユアン率いるオーク戦闘集団だったが、その内実はユアン王を憤激して余りある惨状だった。


 まず、主戦力であるはずのホーの男たちによるオーク従士団と自由民兵士が半壊していた。彼らは敵集団に誘引分散されて主戦場から引き離された後、後退から一転して攻勢に出た帝国軍により手痛い打撃を被った。それだけならまだマシで、その折に乱れた統率から徴用した兵士たちが脱走、行方知れずになっていた。その上で敵指揮官が率いる騎兵隊の追撃を受けた従士団は方々の体で退却し、なんとか体裁を残した形である。


 後詰であり、集結を促すために四方へ散った象騎兵も、その途上で敵兵による攻撃を受けてその数を減らしていた。逆に、堅固な防御態勢のまま後退し、最終的に逃げ去った敵前衛に食いつき続けた下従士たちの方が損害が少ない。


 総計して、戦場にやってきた時の2000強の軍勢が、今は一千弱、それも負傷した従士団と、反抗的な目でこちらを見ている下従士たちばかりという状態だった。これはシー王国史上、最も惨めな敗北だったと言えよう。


 とはいえ、ユアンはまだ自分の権力が崩壊した、などとは考えない。ここで自分の王国を守る姿勢を見せ、事実守って見せれば、しぶしぶついてきている下従士、そしてホーの男たちを黙らせておける。


 ユアンはその夜、主だった部下たちを陣に集めた。


「今、俺たちが採るべき道は二つある。ここからまた帝国軍を捜しに行くか、一旦アメンブルクに戻って仕切り直すかだ……」


「頭ぁ……」泣き言めいた声が部下の一人から上がる。


「国王陛下、だ」


「へ、陛下ぁ。残ってる兵士や従士だけで、帝国の兵隊と戦うのは無理ですぜ。奴らはこっちが大軍で近づけば、四方に逃げちまう。そいつらを追いかけるとこっちが四方から襲われるんだ。それで足を止めると、村々から徴用した兵士たちが俺たちの目を盗んで逃げるんだ。これじゃあ戦いにならねぇ。大体、帝国の連中は何を目的に俺たちの国にやってきたのか分かってるんですかい?」


「先代の王が起こした南伐に対する報復だ。再びシー王国が帝国の領土を侵すことがないように、勢力を削ぐのが目的だろう」


「あいつらは村々を襲い、俺たちを倒した。だったらもう目的は達成したも同然だし、これ以上の闘いは起きないんじゃないですかい」


「それは……」


 自分を見る部下たちの目が嫌戦に曇っているのをユアンは感じ取った。ただでさえやる気がない連中をこれ以上駆り立てても、勝てやしないだろう。


「……わかった。お前たちの気分を汲んでやろう。翌朝を待って陣を払い、アメンブルクへ帰還する。首都で英気を養い、物資を補充し、しかる後帝国の動向に対応する。いいな?」


「へいっ」


 部下たちは頷き、各員の天幕へと帰っていった。

 


 翌朝、その日はこの地域の秋特有の濃霧が、丘の麓一面に深く垂れこめていた。


 陣を引き払ったオーク戦闘集団は、霧の中一体となり隊列を組み、丘を降りて北上、アメンブルクへ向かう。


 隊列の中核には象騎兵と象戦車を置き、前列に従士と兵隊、後列に下従士を置いた。万一、追撃を受けた場合の備えである。


 象戦車の中から指揮を執ることにしたユアンは、戦車兵たちと象騎兵に、周囲への警戒を厳にするよう命じた。


「この霧の中に敵兵が隠れているかもしれないだろう」


 それはユアンの考えではごくごく常識的な行動だったが、傷つき疲れ、戦意を落とした従士や兵士たちには違って見えた。


 兵士たちは、鋭い目をして周囲をにらむ象騎兵のまなざしや、戦車の狭間から見える戦車兵の瞳を見て、自分たちが既に敵に囲まれているのだ、という錯覚に陥ったのだ。


 既に戦意を失った兵士たちに、この錯覚の恐怖が足運びを後押しした。行軍は指示するよりも早く、激しくなった。曲がりなりにも形を成していた軍団の形態が乱れてくる。


「総員、もっとゆっくり歩け! 走るな! 落ち着け!」部下を宥める隊長の声が各所で聞かれる。


 だが、逆にその声が兵士たちに自分たちが危機に陥っている、という確信を与えるのだった。


「ここは危険だ! 走れ! 死にたくない!」


「いや、大丈夫だ! 落ち着くんだ。足を止めろ!」


 前列が混乱しつつある中一方、後列を任された下従士たちの行軍は静かだった。彼らはもともと、ラン・バオ・シー、ホン・バオ・シーの親子に鍛え上げられた勇士である。戦場にあればその動きは整然としたものだった。たとえ、まともな武具も与えられぬ雑兵扱いであろうとも。


 ただし、彼らを率いる羽目になったホーの男たちはそうではない。彼らはこの、不気味なまでにしっかりと行軍している集団に、恐れと疑惑を抱いた。他の部隊が手痛い損耗を被っているのに、なぜこいつらだけがこれほど勢力を残しているのか?


 そもそも、この不遇な集団がユアン・ホーとその一味である自分たちを守るために、真剣に戦ってくれるという保証はどこにもないのだ。戦場ではふとした偶然や故意から、同士討ちが発生するのも珍しくない。今、ホーの男たちの武力は衰えている。この深い霧の中、もしかすれば……


 募りゆく不信感に胸が締め付けられていた時、下従士の一人が声をかけてきた。


「隊長、最後列から報告がある」


「な、なんだ。言ってみろ」


「俺たちは付けられている。丘を降りたあたりから俺たち以外の足音が後方から付いてきている」


「なんだと!」


「誰かが殿となって本隊を守らなければならない。どうする?」


 隊長のホーの男は逡巡した。ユアンからは追撃があった場合、下従士は反転して前方の味方を守れと命令されていたが、ユアンから離れた瞬間、こいつらは反旗を振りかざして自分を殺すかもしれない。


「どうする、隊長」


「う、うむ……」こいつらが本当に裏切るかわからない。しかし、信頼した関係ではないことは確かだった。


「……よし。下従士隊は反転。追撃を抑える。俺はユアン陛下に報告へ行く。いいか、俺が返ってくるまで攻撃はするな」


「わかった……」


 表情を殺した下従士が頷いたのを確認して、ホーの男は彼らから離れた。


 男は足を止め、霧の奥へと見えなくなった下従士……元シーオーク従士団員たちを認めると、振替り象戦車の方へ速足で近づいた。


 その時、霧の向こうから空気を切り裂く音が聞こえたように思えた瞬間、何かが後頭部を叩いた。


 その衝撃は小石をぶつけた程度のものだったように思えた男は、再び振り返って後方を見ようとした。


 だが、そう思ったところで、手足の動きが止まった。止まっただけでなく、力が抜けた。がっくりと膝が落ち、前方の兵士たちが踏みしめて泥濘始めた地面に膝をつく。


 何が起こっているのか分からない男は、ふと、後頭部に触れた。何か棒のようなものが、兜に突き刺さっていた。ただの棒ではない、分厚い刃が付いていて、兜を破り、頭骨に食い込んでいる。


 それが下従士たちに持たせた手斧であると気付いた瞬間、声を上げて前方の味方に伝えようとしたが、同時に背中へ無数の手斧が投げつけられた。


「がふっ」


 その内の一丁が肋骨を破り肺を潰したのだろう。悲鳴とも叫びともならなかった言葉の代わりに、血の

泡を吐き出し、ホーの男は倒れた。


 前方を行く象騎兵も、混乱している前列の兵士たちを宥めるのに必死て、後列の動きを見ることが出来なかった。


 だれも下従士が離れたことに気付くことはなかった。


 

 霧の向こうに行ったホーの男へ手斧を投げつけた、元従士たちは満足げに手ごたえを感じた。


「しばらくぶりだが、まだ手は衰えていないな」


「当然よ。たとえ裸一貫であろうとも、我らは武威に誉れ高き、ラン・バオ・シー陛下の従士よ。これまで黙って従っていたのは、陛下の興したこの国をいたずらに乱したくないからだ。だが、そのような我らの思いなど、ユアン・ホーには届かなかった。おぬしの様に出奔しておけばよかったと後になって悔やんだものよ」


「人聞きの良さが災いしたな。だが、安心せよ。次の王はユアンなぞより、遥かに良い。ラン王より、とは言えぬがな」


 元従士の男たちが口をきいていたのは、一人のオークだった。黒い鎧を身に着け、大身槍を担いでいた。


「行方知れずだったお主が老象に乗って近寄ってきた時はしこたま驚いたぞ、ハイゼ」


「すまんな、皆の衆。だが、呼応してくれて助かった。他の奴らはともかく、嘗ての従士であるおぬしらを敵に回すのは嬉しくないからな」


 ハイゼは自分を囲むかつての仲間たちへ信頼の笑みを浮かべて話した。



 副隊に付いていたはずのハイゼが、何故ここにいるのか。


 これこそキュレニックスの考えた毒矢戦術最後の矢であり、ウファーゴによる王位奪取を決めるための策の一部である。


 この時季、アメンブルク流域部では濃霧が発生しやすいことを前もって掴んでいたキュレニックスは、丘に追い込んだシー王国の戦闘集団が逃げるに際し、霧に隠れながら追いかけることを考えた。この点で、霧の中に追手が居るのでは、というユアンの懸念は正しいものだった。


 次に、ウファーゴ族長、並びに元シーオーク従士ハイゼからの聞き取りで下従士なる部隊の出自を聞いた彼は、この者らをウファーゴたちに呼応させて分離することにした。その為に、昨日の戦闘では防御に専念して相手の損耗を最小限にする必要があった。軍の撤退に際し、追撃を防ぐために精強な部隊を殿に置くのは常道だ。他の従士や兵士たちに比べて被害の少ない下従士が後列に置かれたのは偶然ではない。


 そして決め手は、元身内であるハイゼの言葉である。ハイゼは副隊がアメンブルクに侵入することが出来た時を見計らい、単身隘路を縫って移動し、濃霧の中オーク達の軍列に遭遇した。


 彼が携えていた命令は至極簡便なものだった。嘗ての仲間が敵軍の中にいるなら、声をかけて内応させよ、である。ハイゼにはまだ謀略の機微が今一つ分からなかったが、命令には従った。


 深い霧を通して敵陣を観察したハイゼは、最後列にいたオークにそっと近寄り、声をかけた。


「もし。聞こえるか?」


 霧越しに振り返った、見知った顔立ちのオークの目と目が合った。


「俺だ。ハイゼ・フェオンだ」


「?! ハイゼ! 何故お前がここにいる! みんな、ハイゼだ! ハイゼが居るぞ!」


「何?」「あのハイゼが!」


 小声で交わし合い、数人のオーク下従士が足を止めてハイゼの下へ近寄ってきた。荒織の黒い貫頭衣を麻縄で体に縛り付け、手には小振りの手斧一本を持つその姿は、とても戦場に立つオーク戦士とは思われない。ハイゼはそれを見てかつての仲間を大層哀れに思った。


「どうしたハイゼ。ユアンめは従士の中でも指折りの豪傑であったお前が帰順しなかったことで、大層怒っていたぞ。その怒りが俺たちに向けられたのだからな、償いをしてもらいたいものだ」


「償いなら、してやろうとも。嘗ての勇士たちよ。今こそ立ち上がる時だ!」


「立ち上がるだ?」


「既にユアン・ホーは帰るべき城を持たぬ王よ。アメンブルクの館の主は今、我が主君であるウファーゴ・ツァオである。お主らが耐え忍んできた雪辱を晴らす機会がやってきたのだ。どうだ、もしお主らにその意気がまだ残っているのなら、俺の言葉に乗ってはくれないか?」


 下従士たちは突如現れた旧友の言葉を信じられないような気持で聞いた。


 下従士の一人が手斧をハイゼに向ける。


「良くは分からないが、話を聞くにお前は敵軍の間者だな、ハイゼ」


「ふん、間者と言えば、間者」


「お前ひとりをこの場の全員で叩き殺し、その首をユアン・ホーへ差し出し、下従士たちの忠誠を示すこともできるのだ。先の合戦で、我々は不審の目を向けられているからな……」


 その発言で下従士たちの目が、戦意に鋭く輝いた。全員が手に手に持つ斧で打ち掛かれば、造作もなくハイゼは死ぬ。一方、そう言われたハイゼは、手挟む大身槍を構えるでもなく、悠然と、ふてぶてしくその目を見た。


「俺を殺して下従士なる卑賎な職に甘んじるのを良しとするならそれも良し。だが、俺はお前たちが、また輝かしき従士の綺羅なる鎧武者となって、俺の隣で立ち、背中を守ってくれるのを期待するがね」


「ウファーゴ・ツァオなる者がユアン・ホーより信用できる保証がどこにある」


「そこはほれ、そのウファーゴ様の従士団の筆頭は俺であるからして、その人を見る目をもって信じてもらうしかないな」


「お前が? ラン王の下で無役だったお前が?」


 信じられないという目で下従士はハイゼを見る。ハイゼはそれを真っ正直に見返した。


 途端、下従士の一人が噴き出した。


「はははははははは! これはいい! よし、俺は乗った!」


「良いのか?」


「良いとも。それで、どうすればいい?」


 これだ、とハイゼは思った。この爽やかな気風の良さ。言葉にならぬ、練武の狭間でしか会得できぬ心の通った者同士の、意志の通じ合い。これこそが従士の従士たる一面を作っているのだ。それに比べればホーの男たちの従士面など、黒麦畑に突っ立つ案山子のようなものだ。


「まず監視の目を塞がねばならない。しかる後、お主らには隠れてもらう。この霧を抜ければ造作もなかろう」


「分かった。監視役の隊長には死んでもらうとしよう。なに、複数人で掛かれば造作もない」


「そうか、やってくれるか。ふふふ、お前たちが俺を殺して下従士に甘んじると言わなくてよかった」


「馬鹿を言え。お前を殺そうとすれば、此方に何人残るか分かったものではない」


 

 敗走中のユアン率いるオーク戦闘集団の後衛が、密かに離脱したのとほぼ同じく、左右を固めるホーの男たちの従士と、徴用された兵士のうち、脱走出来なかった者たちの下に、不穏な影が近寄っていた。


 それは気配はあれど形のない、まさに影としか言いようのないものだった。何かが自分たちの傍を歩いている。それをじっと凝視しようとすると、とたんに見えなくなるのだ。そしてその影は音もなく、しかし確実に自分たちに並走して付いてきている。


「ちくしょう! 囲まれているんだ!」


「走れ! 走れ!」


「馬鹿野郎! 走るな! 列を乱すな!」


 命欲しさに走る兵士、それを宥めるべく怒鳴り散らす従士の声が霧の中へ拡散する。従士たちの懸命な動きにも関わらず、左右を成す隊伍は徐々に乱れ、道幅を越えて広がって言ったが、一方で霧の中で迷子にならないように、最低限の塊と呼べる程度の集団は維持していた。


 だが、互いの顔形をしかと見極めるには逡巡する、その程度の隙間の中に、陰は入り込んできた。


「ぎゃっ」


 誰かの悲鳴が上がり、乱れた足音が一つ途絶えた。


「どうした?」


「誰かが転んだ」


「放っておけ。拾いに行く余裕はない」


 口々に兵士や従士がそう言いあい、悲鳴の主は後方の霧に没した。


 兵士たちは歩いた。また暫くして、誰かが呻きとも悲鳴ともつかぬ声を上げて気配を断ち、霧の中に消えた。


「霧で足元がぬかるんでいるぞ」従士の注意を促す声が空しく伝わる。


 その後も断続的に、兵士が、あるいは彼らを隊列に戻すべく道の外まで張り出してきた従士が、僅かな声を残して居なくなっていった。


「おい。今、周りに何人いる……?」


 誰かが不安げにそう聞いた。


「分からねぇ。従士様方は敵なんていねぇって言ってるけど、絶対にいるんだ。俺たちを襲ってるのは人間なんかじゃねぇ。この世のものじゃあねぇ、地面に帰れなかった化け物に違いねぇ」


 迷信めかして兵士の一人がそう言ったが、次の瞬間、その兵士は明らかな恐怖の声を上げて倒れた。


「どうした!」


「ああっ! 何かが、身体に張り付いてる! お、俺の足がっ! ひぃ!」


「おい! しっかりしろ!」


 兵士は倒れた仲間を抱き起すべく、振り返って駆け寄った。そして自分たちに忍び寄った者の正体を、初めて知った。


 仲間はぬかるんだ地面に倒れていた。その背中には人間によく似た形の黒い影が張り付き、そこから黒い手足を伸ばしてオーク兵士の太い身体に巻き付き、締め上げていた。近寄ると肉の下で軋み、折れ曲がっていく骨の音が聞こえるのだ。


 兵士は恐怖に駆られながらおそるおそる仲間に近寄った。すると、陰の頭が持ち上がり、輪郭の朧な頭部に開かれた二つの目と合った。その眼は黄褐色の鋭い眼差しでオーク兵士をにらむと、自分の絡みついている兵士の身体を一息に締め上げる。


 明らかに生命を奪うだろう太い骨格の断裂音と共に、兵士は泥の中に倒れ、動かなくなった。その背中から立ち上がった影はゆっくりと、自分の下へ近寄ってくる。


「く、来るな……」


 また、兵士と影の目が合った。その途端、陰の姿が消え去った。そして兵士は自分の首筋に強い負担を感じた。


「がっ! ああっ!」


 いつの間にか背後に回り込んでいた影が首の上に抱き着き、四肢を絡みつかせて頸部を締め上げていたのだ。兵士は腰から斧を抜き、懸命に頭上へ振り回したが、陰はそれを巧みにかわし、鋼で編んだ綱の様に強靭な四肢で、オークの太い首を絞めた。


 ほどなくして、肉のつぶれる音を聞こえさせ、オーク兵士は仲間と同じく、霧でぬかるんだ地面に倒れる。


 脛骨が軋みを上げ、遂に粉砕断裂する音を聞いた影は、兵士の身体から離れた。


「首尾は上々のようですね」


 影の傍に近寄ってきたのは、インファだった。奇妙にも、その恰好は影のように黒い。体に沿って作られた皮鎧は霧を吸ってより黒く艶々としており、顔と髪を隠す鉢金と襟布で相貌は定かではない上、肌は顔料で黒く塗りつぶされていた。


「骨が折れる闘いだ。試合じゃあないから手加減は出来ない。最も、骨を折っているのは俺なんだが」


「結構です。本来パンクラチオンはこのような使用を想定してはいないのですから」


「だがこれもモグイ族悲願のためだ。すべてが終わったら俺は元の商人になる。もう二度とこのような使い方はしたくないな」


「そうでしょうね……ですが、今少しそのお力を借りましょう。アメンブルクまでの道々に配した皆の力でユアンの軍勢をすり減らしてやらねばなりません」


「分かった。インファ・アーラシュ、俺よりも業前の劣る連中の所へ加勢に行ってくれ。俺は大丈夫だ」


 影……モグイ族傭兵はそういうと、足を取られるはずの泥濘の中を音もなく走り、霧の中へ消えた。


 インファもまた、同じように気配を消し、霧の中で戦う仲間の下へ走る。


 

 霧の中に伏せられたモグイ族の傭兵たち、彼らは傭兵ではあるが、帝国軍の兵隊やオークの戦士たちの様に戦場で戦う術を持っているわけではない。その代わり彼らには一族が連綿と継承・発展させてきたパンクラチオンの技がある。無手、あるいは棒のような刃物を用いない戦闘能力を最大限に活用するべく、キュレニックスとスピネイルは策を練った。


 そこで、アメンブルクを抑えた後、ハイゼを調略に向かわせるのに併せて、同じく霧深くなる道中にモグイ族を分散して伏した。霧に乗じて接近してきた兵士たちに音もなく近づき、一人ひとり確実に倒していく。これは威力の面で、というより、霧という覆いの下から現れる見えない敵による攻撃を受ける恐怖を与えることを目的としたものだった。


 インファは霧の中を跳ねるように走ると、薄っすらとしか見えないオークの影を捉えた。高木をも飛び越えるような跳躍で一瞬にしてその首を掴むと、着地と同時に頸部を捻じ切った。兵士は一声も上げることなく絶命して泥の上に倒れたが、インファはそのまま跳躍し、次の獲物を探す。


 他のモグイ族とは違って、今のインファにパンクラチオンで敵を殺す事の葛藤は無かった。全てはホン・バオ・シー、スピネイル・ハジャールと名を変えた主の復讐を叶えるために、与えられた役割を果たす。そう思い直していた。そうすると、自分が養ってきた技の冴えを、どれほど通用するものか試してみたくなる戦闘者の潜在的な欲望を覚えるのだった。


 モグイ族でも五指に入る熟練者としての自負が、凡百の相手よりも上位の者を探させる。そしてその目は、散り散りになろうとする兵士を呼び集めるべく路外に張り出してきた象騎兵に向けられた。象騎兵は、騎乗している従士、象使い、そして象自身を倒してしまわねばならない。果たしてそれは出来るのか?


(出来るだろう。私なら)


 一足飛びに跳躍、宙で蜻蛉を切り、象の背中に音もなく着地したインファの気配に気が付いた従士が振り返った。


 従士はその姿を認めて、驚きと同時に腰の手斧を引き抜いて構えた。


「な、なんだ貴様は!?」


 人種も性別も見定めることのできない黒尽くめの闖入者は、腰を深く落として腕を広げ、従士に飛び掛かる。


 従士は身を守るべく手斧を振りかざしてインファの肩口めがけて叩きつけた。だが、それをインファは狙っていた。インファは自分に向けられた手斧を巧みに手取ると、相手の力を外へ逃がし、捻り取った。呆気にとられた従士の顔面を、そのまま両手に握った斧で叩き割る。


 途端に上がる悲鳴に象使いが振り向くと、後ろに座っていた従士が血飛沫をあげながら象から滑落する。その陰から血を浴びた黒い人影がぬっとあらわれた。象使いは悲鳴を上げたが、それは声にならなかった。すかさず動いたインファの手が象使いののど輪を一突きし、声を封じたのだ。痛みと、声の出ないことに恐怖する象使いの肩に飛び乗ったインファは、鍛え上げられた足でその首を固く締め上げ、素早く折り曲げた。


 無様な呻きを一つ漏らして象使いはぐったりと動かなくなり、前のめりに倒れて落ちた。視界を遮られた象が驚き、怒りの嘶きを上げて暴走する中、インファは懐から一本の焼き串を取り出した。露天商や屋台で使われるありふれた道具だったが、インファはそれを象の太く短い首を探り、ある一点を狙って一息に根元まで差し込んだ。


 焼き串は象の毛深い皮を抜け、固い肉の下にある骨の隙間を通り、分厚い頭骨の中にある脳の中枢部分を破壊した。途端、暴走していた象は痙攣の後、四肢を硬直させた。その巨体が泥の上に倒れ込み、インファは巻き込まれないように飛び降りた。


 倒れた象を検めたインファは、この巨大な生物の命を自分が奪ったのだという、事実を確かめた。象のつぶらな小さき目は硬直し、緩んだ口から舌が垂れ下がっていた。温もりは徐々に冷たい泥濘の中へと抜けていくだろう。


 本来目立つはずの象騎兵の一騎が居なくなったというのに、隊列を成す兵士たちや従士たちはそのことに気付かないようだった。気づく暇もないほど、彼ら自身のことで体一杯なのだ。


 インファは再び、仲間たちの暗躍する霧の中へと消えた。

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