第16話 アメンブルクへの侵攻


 自由都市サヴォークが確保されて暫くの間、北方属州からアメンブルクの間は緊張した空気が漂っていたものの、両勢力は一切の武力行使を行わなかったので――第十三軍団は侵攻の準備のために、シー王国は領内の平定のために、互いにその存在を知悉し始めていながら、何の接触も起こらなかった。


 接触はなかったが、第十三軍団は休むことなく行動を続けていた。第五軍団から増強された兵との訓練が実戦さながらに行われたし、指揮官たちはそれ以外にも諸事雑務に追われる。


 中でも護衛士インファの取次により続々と入城してくるモグイ族傭兵を引き入れるのは中々に難儀な作業となった。これはモグイ族たちが自分たちを『商品』とみなし、この度の参戦の見返りに領地を与えるという取引をすることになっているからだが、一度に来る数人、時には一人でやってくるモグイ族に対し、逐一契約書を作製し、細目を確認させ、署名捺印を行うという手間がかかった。


 しかもモグイ族はこの度の取引によほど慎重らしく、関係者各位の署名全てを契約書に盛り込むことを要求したので、契約を成立させるたびにキュレニックス、ロウ、ウファーゴ、インファ、スピネイルは各自の署名をするため、各々の作業を中断して書類を行き来させるという煩雑なことをしていた。


 とはいえ、面倒な作業の後には報われるものがあった。半月の間に集まったモグイ族傭兵約500人は無事第十三軍団へ編入された。この者らはインファ程ではなくとも優秀なパンクラチオンの使い手達だった。


 一度、その腕を見てみようとキュレニックス将軍の前で重槍重歩兵との試合が組まれたが、四肢を鎧で固め、重い穂先の槍を繰り出す恐ろしい歩兵に対し、モグイ族たちは体にぴったりと合わせた皮の衣服と手甲、脚絆という軽装で立ち会った。彼らは槍の突きを滑るようにかわすと蛇のように兵士の腕に絡みつき、その関節を痛めつける、あるいは鎧に覆われていない手先や顔面を痛打して、歩兵と互角以上に渡り合った。


 この結果に大いに満足したキュレニックスは次のように語った。


「モグイ族が帝国の中で友好的に振る舞っていてくれることに感謝しなければならないな。彼らがもし帝国の中で反乱を起こしても、我々に有効な対策が取れるか分からない」


 これが将軍なりのモグイ族に対する厚意を含めた評価だった。


 

 準備が整い、いよいよ行動の時に移ろうという頃、キュレニックスはスピネイルを呼び出した。


 スピネイルは人目を避けた夜、キュレニックスの部屋へやってきた。将軍は部屋の外に点在する天幕の灯りを眺めていた。


「将軍、お呼びでしょうか」

「来たか、スピネイル」


 礼を示して立つ魔術人護衛士に、キュレニックスは鷹揚に対応した。


「以前、話をしたいといったな。雑事が粗方片付いてやっと話が出来る。飲むか?」


 脇の棚に収まっていた杯と酒瓶を示す。


「いえ。まだ勤務中ですので」

「固いな。美しい容姿が台無しだ」

「将軍閣下は私を口説きたくて呼ばれたのですか?」


 抑えているがスピネイルの表情は軽蔑の色を濃くしたので、キュレニックスは首を振った。


「すまんな、そういうつもりではなかった」


「それで……?」


「トゥラクがウェイダ村の件以来、お前を高く買っているのは知っているだろう?僅かな手勢でオークの部族を手玉に取ったことでな」


「あれはたまたま、私が思いついたことを実行しただけです。偶然ですよ」


「謙遜するな。お前が軍事に意見具申するときの確信を持った目を私は忘れていない」

 少し恥じ入るようにスピネイルが視線を逸らす。


「それにお前はここ数日の間、優秀な軍務官僚としての才能の持ち主であることも証明し続けた。特にモグイ族傭兵と交わした契約書の様式はよくできていた」


「モグイ族とは、昔から付き合いがありましたから」


「うむ。そうだったな……」

 キュレニックスは言葉を切って、少しの間沈黙した。スピネイルも次の言葉を、待った。


「魔術人護衛士にしてサヴォーク貴族、スピネイル・ハジャール」

「はっ」

「貴公をレムレスカ帝国元老院議員にして第十三軍団長としての権限により、1500の兵を指揮する隊長に任命する」


 厳かに将軍は宣言した。


「有り難いお言葉ですが、私は正式な士官ではありません」スピネイルは静かに答える。


「うむ。確かに魔術人護衛士は原則として魔術人に属し、帝国の軍制にその席を持っているわけではない。本来軍を分けるときは首席百人長若しくは騎兵隊長にその任を負わせるのが通例だ。しかし」


 キュレニックスの目がぎゅっとスピネイルを射抜いた。


「今の私の目には、手元にいる誰よりも軍の指揮をやらせてみたいと思えるものは、お前しかいない。ゆえにやらせるのだ」


「過分な評価、痛み入ります。ですが……」


「くどいぞスピネイル『代将閣下』。私はもう決めたのだ。お前も腹を決めろ」


 代将、それはレムレスカ帝国の軍制における指揮官代行者に与えられる仮の称号である。それをつけて叩きつけるような言いにスピネイルは一瞬唖然とした表情をしたが、唇を固く結びしばし瞠目してから、


「隊長の任、お受けいたします」


「うむ。では代将、貴公には雇い集めたモグイ族傭兵を全て任せることにした。何しろレムレスカ帝国軍はモグイ族と共闘などしたことがないからな、下手に合わせても足並みが乱れる。それと元からいる第十三軍団兵と、私の重槍重歩兵の半数だな」


「それでは閣下は移譲された第五軍団の兵だけで進むつもりですか」

「そうだが、なにか?」


 時折この若き将軍の無謀さには、内心で驚かされてばかりのスピネイルだった。


「四千五百の軍勢でオークの軍団とぶつかるのはかなり分が悪いと思われます。ここまで進んでこられたのは、質がまちまちの小集団のみを相手にしていたからなのですから」


「手厳しいな、早速」


「サヴォークを守ってくれた帝国軍は今の貴方の手勢の倍はおりましたが、敗れているのです」


「分かっている、分かっているとも。だから私は、戦わない」

「は?」


「お前が戦うのだ。スピネイル」

 


 

 モグイ族を加えた総勢六千の兵力を擁する第十三軍団は、冬の訪れを予感させる中秋の候、復興の兆しを見せつつあるサヴォーク市壁の外に集結した。


 その陣容は従来のレムレスカ帝国軍軍団のそれを知っている物が見れば、さぞかし異様に思えたことだろう。まず、集まった人数が定数である四千五百を大きく上回っているのだから。加えて編成に加わっている者の中に、明らかに帝国人ではない者が多数混じっている。


 彼らモグイ族傭兵集団は設えに差はあれど、皆一様になめし皮で作られた、身体の線が出るような薄い作りの皮鎧を身に着け、兜の代わりに布を巻き、逆に手足を厚く守る籠手と脛当てをしていた。



 そしてひと際目を引くのが、三頭の象を中核とするツァオ・オーク氏族の集団だ。集団といっても、その頭数は首魁であるウファーゴ・ツァオを含めた数人に過ぎないが、モグイ族、帝国人を圧倒する巨体、そしてそれをさらに上回る象を率いる姿を間近に見て、肝をつぶさない者などいるはずもない。


 とはいえ、注目を集めていたウファーゴ族長の顔色は余りさえない。ここは見栄の張りどころと分かってはいたが、懐事情は最悪を極めていた。まず、象たちは戦争に駆り出すには年を取りすぎていたし、交易で得て以来まともな戦闘訓練などさせたことがなく、今まで自分と長老格オークたち専用の輿として使っていたものだった。そして自分に従うオーク戦士は、ウェイダ村に居留を許されていた氏族の非戦闘員の中から有志を募ったのだが、当然戦闘能力的に未熟で、実戦に送り出すわけにはいかなかった。


 かくも情けない戦闘集団では、いかな弱小氏族とはいえ戦闘民族であるオークの矜持が挫けるものだが、それでも強行したのは、この作戦が「レムレスカ帝国に反旗を翻すシー王国に帝国に友好的なオーク氏族を擁立させる」という点にある。


 仮にここで終始戦線から離れた場所で参加していては、王位に就いたところでシー王国の自由民がウファーゴに従ってくれるはずがない。ここは意地でも「王位に就くためにレムレスカに援助を申し込んだ酋長」という、与えられた役割に見合った格好をしなくてはならなかった。


 もっとも、冴えない理由はもう一つあった。


「陛下、顔を上げられよ。小さき者たちが見ておりますぞ」

「言われんでもわかっておるわ」


 嘆息しながらウファーゴは声をかけたオーク戦士を見る。そこには黒い鎧を着込んだ元シー王国従士、ハイゼ・フェオンが立っていた。


 数日前、ウェイダ村に戻って出陣の用意をしていた折り、スピネイルの紹介で現れたのがハイゼだった。スピネイルの手で捕らわれたハイゼがウェイダ村内で虜囚となっていたのを、ウファーゴは初めてその場で知ったのだ。ハイゼも、ツァオ・オークが帝国に保護されたのを知ったのだった。



『族長。この者を陣に加えていただきたい』

 虜囚生活で落ちぶれた風情を漂わせた戦士の傍に立つスピネイルはそう言った。


『断る。そ奴は戦闘の最中に失踪し、儂の従士たちを見殺しにしたのだぞ。もう二度と同じ斧を持たぬ仲よ。どこへでも連れていけ』


『そう突っ張らないでいただきたい。第一そうして戦士を失ったために、陣立てに事欠くほどではありませんか。ここは一つ、私の顔を立ててこの者を使ってやってはくれませんか』


 それに、とスピネイルは続けた。


『族長はこれから、シー王国と戦うにあたり、敵と通じるものを持たねばなりません。今シー王国を牛耳るユアン・ホーは、旧王ラン・バオ・シーに連なるものを悉く排し、圧制の下に押さえつけている。特に旧従士の者たちは、ハイゼの様に逐電するか、さもなくば下従士なる捨て身の兵として遇されるかせねば死を免れぬそうですよ』


『そ奴を取次に、旧従士たちを取り込めというのか』

『それが族長、貴方のためであると私は考えます』

『ふん……ハイゼ、お前も何か申し開きをしてみよ、聞いてくれる』


 以前と比べて少し痩せたように見えたハイゼは、飢え餓えた目で両者を見た。


『……某は政が分からぬ、ただのオーク戦士に過ぎぬ。武威を利かせうるところあれば駆けつけ、斧槍を振るうのみ。この度は虜囚と相成り申したが、それとても兵火の習い故、さして気にもしておりませぬが、しかしなれど、この度、シー王国を襲い、あのユアン・ホーめを弑するというのであれば、今一度我ハイゼ・フェオンはウファーゴ・ツァオ族長のため、粉骨砕身の務めを果たして見せましょう。何故ならば、某はいくつもの氏族を渡り歩きましたなれど、思い返すのはシー王国の朋輩の事ばかり。今のシー王国の現状は余りに忍びない』


『復讐のために斧を取るというのか』

『然り。嘗て見えた姫騎士ホン・バオ・シー殿下の弔い合戦にござる』

 ひくり、とスピネイルが動いた。


『仄聞したオークの姫騎士か。さぞ麗しかったのだろうな』


『麗しく、力強き方であった。ユアンめは隠しているつもりだろうが、もうすでにこの世の方ではあられぬのは必定。かの麗人の仇を討てるのならば、某は何者とも手を組みましょう』


『その言葉、信じるとしよう。今一度私と共に戦え、ハイゼ・フェオン』

『御意に……』



 こうしてツァオ・オークの陣中に復帰したハイゼ・フェオンは、今や壊滅状態のツァオ・オーク従士団の筆頭従士に任ぜられ、ツァオ氏族から募った五人の少年兵を任された。


「さぁ陛下。もそっと胸を張り、小さき者たちを納得させる威信を見せられよ」


「ふむ……こうか」


「良いですぞ。皆もあれがオークの王かと思っておりましょう」


「何やら飾り物になったようで奇妙なものだな」


「今は飾りでも、いずれ実がつきましょうや。某も筆頭従士なる役職を奉じて、徐々に政の勘所が見えてまいりました」


「ふん。そう言うなら申してみよ。此度の戦の割り当ては如何になっておる」


「我らとモグイ族の傭兵、そしてこちらに居並ぶ千人ばかりの兵を副隊、残りを主隊とし、主隊はこのままアメンブルクへ伸びる街道を行き、我々は街道を離れ、アメン川下流域へ向かい、そこから川伝いにアメンブルクへ目指す。これは主隊を囮にユアンの軍勢をつり出し、その間に我らでアメンブルクを抑える策であります」


「そうだ。つまり我々がここまで来た道を逆に辿ることになる。嘗てのツァオの地を経て、次はお前がツァオへ至った道を遡る」


「因果なものですなぁ」


「これも定めよ。おぬしに任せたツァオの若造たちはどうだ?」


「小さき者たちの将軍めが用立ててくれたおかげで、何とか具足恰好は付きましょう」


「そうか。しかし、返す返すも小さき者たち、レムレスカの豊穣な陣容よな」


 居並ぶ1000と4500の兵を鞍上から眺めながらウファーゴは言う。全員が固く鍛えた青銅の板金で編まれた鎧と兜を付け、手には盾、そして槍を持って立つ姿は、朝日を照り返して勇壮である。


「レムレスカではオーク戦士はこの兵士ら十人に等しいと言うそうだが、仮にそうだとしても、それもそう先の長い話ではないな」


 弱小部族を率いていたからこそ、何事も数と量こそが大事であるとウファーゴは考えている。なるほど、千のオーク戦士が居並べば同数のレムレスカ兵士では太刀打ちできないだろう。だが、二千、三千と揃えられるレムレスカ兵士なら、戦術と機運次第で勝敗は逆転するだろう。所詮一人と一人、死ぬのは同じ数だからだ。


 そんな風にオークと人間とのあり様に思いを馳せていたウファーゴだったが、やがて兵士たちのざわつきが静まったのに気付いた。


 兵士たちの視線が先頭に現れたキュレニックスに集まった。説教壇に立つ将軍は自分に注目が集まっているのを十分に確かめてから話し始めた。


「戦友諸君、第十三軍団の勇士たちよ。我々はこれより、ここ自由都市サヴォークを悲劇へ追いやった蛮族たちの居留する、嘗て我らの父祖が開拓した都市、アメンブルクへと進む。彼らはその昔、地味貧しい東北方の地よりここに移動してきた折り、同じく北方に属州を開拓していた帝国と衝突し、最後には最前線の地アメン川流域と、その中心地であったアメンブルクを領有し帝国と友好を築いた。だがそれは、彼らと戦った我らの父祖が軟弱だったからではない。彼らに安住の地を与えることで、そこより南方の地、すなわちここサヴォークの安寧を確約するためであった」


 兵士たちは自らの擁立する若き将軍の言葉に聞き入っていた。キュレニックスは続ける。


「だがシー王国を名乗る蛮族たちは、愚かにも我らと築かれていた友誼を一方的に捨て、この地へ襲い掛かったのだ。我らレムレスカの民は信義を第一に尊ぶことを父祖より学んだ者として、この裏切りを許すわけにはいかない。だがシー王国の他にも無数の蛮族が流域には居住しているし、全ての蛮族が我々との友誼を理解できぬものでもない。そこにいる者こそ、我らと友誼を結ぶことを選んだツァオ・オーク氏族の長、ウファーゴである」


 指し示した先へ兵士たちの視線が移った。象の上にいるウファーゴを見る兵士たちの表情は、一定の敬意を含んだものであった。それは今までレムレスカの兵士がオークに向けたことのない感情であった。


「そこで私、元老院議員にして将軍であるキュレニックスは、シー王国を継承する正当な権利を有するウファーゴ族長を支援し、彼の希望するシー王国王位を授けるべく、彼と彼の軍勢を伴ってアメンブルクへと向かうのである。諸君らはこの戦いに北部属州の平和と安全が掛かっていることを肝に銘じ、一層の忠信と勇気を奮うことを期待する」


「第十三軍団、万歳!」

「キュレニックス将軍、万歳!」


「ウファーゴ族長、万歳!」


「万歳!」「万歳!」「万歳!」


 キュレニックスが演説を結ぶと、兵士たちから歓呼の声が返った。盾を槍の柄で撃ち叩き、その意志と権利を承認する、古来からのレムレスカ兵士における作法である。


 百人長たちがそれぞれ法螺貝を吹き、それを受けて兵士たちが動き出す。それと共に、軍団を指揮する将軍直衛の部隊が軍団旗を掲げた。本来ならそれはただ一竿のみのはずだが、この度は違った。


 キュレニックスの直衛隊とは別の隊、すなわち魔術人護衛士付小隊からも旗が上がったのである。しかも、掲げられた竿には二枚の旗が結わえられていた。一つは、帝国軍制における代理指揮官の指揮を指す、代将の旗。


 もう一つは、嘗てここサヴォークを指揮し、そしてシー王国南伐軍の前に玉砕した、第七軍団の軍団旗であった。キュレニックスは何処かよりこの旗を見つけ出し、代将旗と共に掲げることを命令したのだ。


 これを見た兵士たちは震えた。嘗てここで滅んだ軍団が、今目の前で復活を遂げたように見えたのだ。


 もちろん、これはただの小細工である。本当に第七軍団が復活されたわけではない。このような小技の使いぶりが異様にうまいことに、スピネイルは苦笑した。


「キュレニックス閣下は、本当によく兵士たちの心を掴まれるな。先ほどの演説もそうだ。はったりばかりではないですか」


「将軍閣下は兵士の力を引き出す魔性を持っているのでしょう」


「その魔性に自信がある。だから魔術人を守ることに汲々としない」


「まったくさぁ。生きる心地がしないったらない」


 自慢の上司を褒め称えるトゥラク首席百人長に、生意気をいうヨアレシュ。


 なるほど、確かに先ほどの演説ははったりまみれであった。ウファーゴにシー王国を継承する権利など全くないし、彼もそれを持ち出されるまでは考えもしなかった。だがそんなことは末端の兵士たちには関係がないことだった。あるのは戦うに足る理由があるぞ、と自分たちに語り掛ける将軍の篤い言葉だ。忠誠を誓った相手がそういうのだから、付いていく。


「そういうものなのさ。私とはやり方が違うが、将とはこれが出来なければ将ではない」


「ふーん。じゃ、あんたはどうやって兵士を心服させて、戦わせられるっていうのさ、スピネイル」


「まぁ待て。今少ししたらな」思わせぶりにスピネイルは答える。


 やがて主隊四千五百が離れ、一路アメンブルク行きの街道へ流れていくのを見計らい、スピネイルは隊伍を縫ってツァオ・オークの陣列に近づいた。


『族長。提案があるのだが』


『如何した、スピネイル殿』


『貴公の所有する象を一頭、貸していただきたいのだ』


『象を? 何をする気だ?』


『まぁ、何も言わずに貸していただけないか。決して傷つけたりはしないから』


『むぅ、分かった。象使いよ。予備の象を寄せるのだ』


 象使いが無言でうなずき、鉤尺を振って空荷の象を呼び寄せる。


 予備の象は純然たる荷役用だったらしく、付けている鞍は質素なもので、積載用の括り紐が無数に垂れ下がっていた。


 目の前に壁の様に立ちはだかった象を見上げたスピネイルは、懐から短剣を抜くと、その括り紐を何本か切り落とし、結わえ直して一本の綱にした。


 そして象使いが象を座らせるや否や、象使いの指図を待つことなく象の背中へ飛び乗った。


『なんと無謀な! 振り落とされるぞ!』


 驚いたウファーゴの前で象が嘶き、後ろ足で立ち上がった。周囲からどよめきが起こる中、スピネイルは器用に皮綱を振り回し、象の口へ噛ませ、手元に引き寄せた。するとまるで馬の手綱のようになった。


 瞬間、スピネイルの目が紅に光ると、手綱が締まって象は一鳴きする。だが、やがて前足を降ろすと、徐々に挙動が大人しくなった。


『そんな馬鹿な! 象使いもなく乗りこなすなんぞ……』


『ふふふ。族長、私はこの象に好かれたようだよ』


 唖然とするウファーゴを残し、象を歩かせるスピネイル。巨獣の背に座る少女戦士の姿に兵士たちは弩肝を抜いた。


 自分に注目が集まったのを確認してから、スピネイルは自分の持てる魅惑を振り絞った、可憐な声音で叫んだ。


「皆さん! 私がこの部隊の代将に選ばれた、護衛士のスピネイル・ハジャールです! 閣下は私に、こちらのウファーゴ族長を、無事アメンブルクまでお送りする任を与えました。どうか、私と共にその任を全うできるよう、お力をお貸ししていただきたい!」


「キャー! スピネイル様ー!」


 突然の黄色い声にスピネイルがギョッとして振り返ると、モグイ族傭兵部隊の指揮を任せていたインファが満面の笑みで手を振っていた。


「……スピネイル代将閣下、万歳!」

「第七軍団、万歳!」

「万歳!」「万歳!」


 兵士たちが承認の歓呼を送ったことで、ひとまずスピネイルの指揮は行き届いた。


(やれやれ。だが、これで準備は整った。漸くだ……私はお前の下へ戻ってきたぞ、ユアン・ホー)


 腹の中でスピネイルは闘志を研ぎ澄ませ、再び敵の目の前に現れる日を指折り数え始めた。

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