第13話 迷う森
薄暮の中で開始したツァオ・オーク戦闘集団の攻撃は、80名のレムレスカ兵士による決死の水際防御により頓挫、戦闘集団は多少の脱落者を出して林へ退却した。闇深い林の中まで敵は追ってこないだろうというウファーゴ族長の思惑は当たり、無事な者は纏めて林の中央部まで引き籠ると、事後の対策を練った。
「脱落者を数えろ!」
「十二人です。皆川に溺れちまった!」
「族長! ハイゼの野郎がいません!」
「あの腰抜け野郎のことは放っておけ!」
慣れない戦働きで興奮する中、ウファーゴは長老格の意見を拾いながら、次の行動を考えた。薄暮攻撃が失敗した以上、次は夜襲になるが、相手が警戒しているだろう同じ道を通って攻め込むことはできない。
そうなると、多少大回りになるが林の脇を出て合流した太い川を渡り、村の裏手から攻め込むしかない。皮肉にも、ハイゼが事前に周囲の地形をつぶさに調査してウファーゴに報告してあったために行うことが出来る作戦だった。
そうと腹が決まれば、族長としてウファーゴは威厳と確信を表に出して戦士たちを叱咤する。
「林を捨て、川を渡るぞ。今度は夜陰に乗じて進む。先ほどの様に妨害されることはあるまい。皆のもの、行くぞ!」
「おう!」
指呼の間に見えた住みやすそうな土地にオークたちは是が非にもあそこを奪い取らねばならないと戦意を漲らせて移動を始めた。若木を折り倒して戦士たちは急ぎ林の中を過ぎゆき、野原に出ようとした。
だが、どうしたことか彼らはいくら歩き続けても林の端に到達することがなかった。
「族長! 出られません!」
「いいから歩け!」
行けども行けども変わらぬ景色に戦闘の興奮は冷め、恐怖と不安がオークたちの脳裏を一陣の冷風となって取り巻いた。
ウファーゴも顔にこそ出さないが、徐々に猜疑心が胸中に湧いてくる。もしや、ハイゼの報告に嘘があったのではないか。自分が不遇に扱われていることからの報復、そのためにハイゼは戦闘中に逐電したのではないか、という答えの出ない思いに囚われて、しかし歩みを止めるわけにもいかず、どしどしと歩み続けた。
だがツァオ・オーク戦闘集団が林の中に退避して数時間が経っても、林の端に彼らは到達することがなかった。こんなはずはない、最初に来たときはすぐさま端まで到達できたのに!
いつしか戦士たちの歩みは遅くなり、恐慌と不安の中で彼らは足を止めた。
「何故だ……どうして出られんのだ?!」
「族長、あれを……」
長老の一人が林の外を指す。外が見えているのに出られない恐怖に震える視線の先には、木々の隙間から村の灯りが見えた。村はまるで燃え上がっているかのように明るく照らし出されていた。大軍の籠った砦の篝火のようだった。
林に囚われ、歩き続けて疲労の溜まったオークたち、不安に苛まれて見たその炎の幻影を前に、ツァオ・オーク従士団を筆頭とした戦士たちは限界を迎えた。
「うわぁ! もうだめだぁ!」
誰かがそう叫ぶと集団から飛び出してあらぬ方向へ駆けだしていき、夜の闇に消えた。
一人がそのように消えると、次々に戦士たちは狂気に……恐怖に負けたことで陥る狂気に駆られて四方
へ逃げ出していった。
「おい! まて! 落ち着け! 逃げるなァ!」
ウファーゴの声もむなしく、戦士たちの多くが集団から離れて見えなくなった。
「族長、離れましょう。ここはまずい……」
長老の一人が項垂れたウファーゴを促す。ウファーゴは手元に残った僅かな手勢を纏め、不気味に照らされた村の見えぬ林の奥へと戻っていった。
ウェイダ村は夜だというのにアリの巣を突いた様な忙しさで、人は急きょ増設された治療所のベッドと倉庫を往復し、薄暮の中戦った八十人の兵士たちを労わった。
一方で、比較的傷が軽く、また収容された傷病兵のうち、ある程度立ち歩ける者には、魔術人護衛士の女戦士からの指示で、持てるだけの灯りを持って外に出ているという役目が与えられた。常設の篝火に加えて持ち出されたこの大量の灯りは、村の規模に不釣り合いなほど強烈な光と熱で周囲を包み込んでいた。
「これだけ火を焚いていれば林の中からでもくっきりと村が浮かび上がって見えるでしょう」
負傷兵のベッドの一つを占有するトゥラク百人長に対し、ホンはそう言った。
「これで夜襲を諦めさせるというわけですな」
「急ぎ支度せねばなりませんでしたので、篝火そのものを増やすよりは人に持たせてしまうのが早いと思いまして」
「なるほど。これが仕掛け」
「いいえ、仕掛けは別にあるのです」
ホンは林のある方角へ指を向けた。
「百人長が村の外へ出たと同時に、魔術人が密かに村を出ました。そしてあの林に呪いを掛けた。迷いの呪いです」
「迷い?」
「逃がすより、明日やってくる救援部隊と共に確実に撃退する方が良策であると、私は考えました。ですから、あのオークたちには林の中で囚われていてほしかったのです」
「それは、何故?」
「今後の第十三軍団のためです」
ホンはこの数日の間、収容された兵士たちが各戦線での戦闘がどのようなものであるかをつぶさに聞き取っていた。どの集落でも、出てくるのは少数のオークで、レムレスカ軍と激突せず、爆石を投げるなどの遠戦で茶を濁して退散する。
ホンはそのように話を聞く中で、今北部属州に出没しているオークたちがシー王国に従う者たちではないのではないか、ということに気付き始めたのだ。インファの報告で上がっていた旧従士団で形成された下従士による捨て身戦闘などとは明らかに異なるふるまいである。
ユアンが本当に北部属州を固持しようとするなら、もっと徹底的な戦いを指示するだろう。そうではないなら、ここにいるオークたちはシー王国に恭順していない他の部族による火事場泥棒的な進出であると考えた。
そしてそれはシー王国従士団員であったハイゼ・フェオンが、自分より格の落ちる戦士たちに混ざって戦っているのを見た時に確信に変わった。ちなみにハイゼは今、両手足を縛られたまま村はずれにある馬小屋へ運び込まれている。
さて、今いるオーク勢力がシー王国と関係がない弱小氏族ならば、ちまちまと追い払うよりも、これを一度でも確実に包囲して撃退する方が効果的であるとホンは考えた。進出した部族の一つが人間によって滅ぼされたとすれば、その噂は瞬く間に各部族に伝わるだろう。その上、弱い部族とはいえオークの長老階級を捕虜に出来るかもしれない。
「これはただの旧領回復作戦ではなく、オークと人間との戦争だと、私は思っています。蛮族とはいえただやみくもに戦ってよしとするのではなく……よりよき戦果のために策を考えたかったのです」
「ふふふ、まるで将軍のようだな、護衛士殿」
「あ、いえ、そのような……」
つい地が出てしまい、出過ぎたことをしたと思われただろうか。
焦りを感じたホンだが、トゥラクはむしろ笑った。
「相分かった。全ては第十三軍団とキュレニックス閣下の御為。明日来る救援の隊長格とも協議し、林に束縛したオークたちの処遇を考えるとしよう」
「……ご理解頂けて感謝いたします」
灯りは人員を交代しながら夜明けを迎えるまで焚き続けられた。遠い地平線から朝日の力強い光線が大地を拓いていく頃、山と積まれた松明の燃え滓に水がかけられる中で、見張りの兵が声を張り上げて、その場にいる全員に聞こえるよう、言った。
「道の向こうから、隊列がこちらに向かってくるぞー! 凄い大軍だ、あ、あれは、軍団旗だ! 本隊がやってきてくれたぞー!」
寝る間も惜しんで警戒を厳にしていた兵士たちが、その声を聞くや色めき立った。その中をホンは駆け抜けて見張りの立つ櫓に上り、兵の指さす道を見る。
街道から枝分かれした細い道を、長蛇の列がくねりながらウェイダ村に向かって近づいてくる。その先
頭を行く騎馬隊の、すぐ後ろに立つ旗手がはためかせるは、第十三軍団の証である軍団旗。
すなわち、今ウェイダ村に向かいつつあるのは、複数小隊による一寸した集団ではなく、総指揮官キュレニックス将軍が率いる本隊であるということ。その数、目算にして約二千。
ホンは櫓から急いで駆け下りると、治療所から飛び出してきたインファとヨアレシュ、インファに付き添われてベッドから置き出たトゥラクと共に村の門を出た。
先頭を行く騎馬隊の中でも鮮やかなマントでひときわ目立つ男が、一歩先を行きホンたちの前に止まった。
「オークの軍勢に脅かされていると早馬が来たから急ぎ駆けつけたが、どうやら無事のようだな、トゥラクよ」
「ま、まさか将軍閣下御自ら出向かれるとは思いませんでした」
「私は傷を負った戦友諸君を見捨てるような恥知らずな男ではないぞ」
迫力のある笑みで答えたキュレニックスに一同は首を垂れた。
「それでオークどもはどこに行ったのだ?」
「それが……」
トゥラクは脇を流れる細流と、その向こう側に広がる林を指しながら、昨日の戦闘と、その最中にホンが仕掛けた策について話した。
「するとオークの戦士たちがまだあの林の中にさまよっているということか」
「はい。至急重槍重歩兵による狩り出しをお願いします」
「おっと、林に入るなら、私もついていくよ」
ヨアレシュが手を挙げた。
「あそこに掛けた呪いを解かなくっちゃ、レムレスカの兵隊まであそこに囚われてしまうよ」
「魔術人が同行するなら我々も行かなくてはいけませんね」
インファの声にホンは頷き、馬上の将軍を見た。将軍は少し不快そうに眉をひそめたが、直ぐに向き直って兵士たちに号令した。
「あの林の中に傷を負い疲れた戦友たちを襲った蛮族どもが潜伏している! あの林を包囲せよ!」
二千の軍勢は迅速に将軍の命令を実行した。
まず行き来するのに不便な細流の上に木造の橋を架け渡すと、そこを渡って段丘を上り、林の周囲を巡るように展開した。一方で、昨晩から放置されていたオーク戦士の溺死体が回収され、将軍の下で検められた。
キュレニックス、ホン、ヨアレシュ、インファ、そして将軍子飼いの重槍重歩兵の小隊が林の中へ分け入っていく。一同が林の少し奥へ入った瞬間、キュレニックスは自分たちの周囲の空気が変わった、という感覚を覚えた。振り返ると、木々の隙間から外を囲む兵士たちの顔が見えたが、彼らとの間に生えている樹木に、薄っすらとだが靄の様なものが掛かっていることに気付く。目に見えているより、外の兵士たちとの距離が広がっているという錯覚があった。
「これが迷いの呪いか」
「昼間なら、そうと分かれば気付けるけど、夜じゃまぁ、無理だろうね」
ヨアレシュはトゥラク達が護送されてきた負傷者の小隊を守るために出撃した直ぐ後、インファの背に負われて同じく門を出た。インファはヨアレシュを負ったまま、村を囲む木柵と石塁を一回りして村の裏側へ回り、そこから細流を渡り、林に入った。
「ヨアレシュ殿は見た目より身軽でございましたよ」
「やめてよ、恥ずかしい」
インファの言にヨアレシュが鼻白む。
「林の中にオークは誰も残っていなかったよ。私は林の真ん中あたりまで来て呪いを掛けた。これにね」
林を進んだ一同の前には、立派な幹を持つ樫の木が一本、丁寧に下生を払われて立っていた。
「どうもウェイダ村の樵は意図的にこの樫を残しておいてくれたみたいだね。ま、何に使うつもりだったのかは知らないけど、丁度良かった」
ヨアレシュは器用にも樫の幹に取りつき、矢守めいてするすると昇っていくと、幹の上部にあった突起に手を掛ける。それは遠目には木の瘤の様にも見えたが、そうではなかった。突起はヨアレシュの手で幹から取れ、下に落ちた。
はっとキュレニックスは驚いたが、落ちた者を見て微かに唸り声をあげて、それを拾い上げる。それはどこの村落でも当たり前に使われている青銅で出来た草刈鎌だった。ただ、赤黒く変色した布地が握りにしっかりと結わえ付けられているのが目についた。
「その布地に呪いが掛かっているんだよ。あんまり触ってると呪いが移るよ、将軍」
ひらりと地面に降りたヨアレシュへキュレニックスがそれを聞き、不快そうにヨアレシュへ手渡した。ヨアレシュは布を取ると、懐から出した小瓶の液体を口に含んで布に吹きかけた。
すぐさま、林を覆っていた呪いの雰囲気は消散した。遠目に見えていた靄が消えて、木々の隙間からははっきりと外の景色が見えるようになった。
それと同時に一同の目の前で、呪いが覆い隠していたものが白日に晒される。それを見た兵士たちに動揺が走り、ヨアレシュが話した。
「迷いの呪いは個別に掛かるんだよ。つまり、一人一人が呪いによって分けられる。集団で入ればその限りじゃないけど、その時も集団から離れた者は呪いに掛かり、二度と元の集団に戻れなくなる。そうやって出口のない林の中で迷い続けるのさ」
林の中にはオーク戦士達が群れていた。ただし、木々の中で倒れ伏した者、精神を病み、喉を刃で突いた格好で絶命した者、あるいは同士討ちにて共倒れの者を除けばである。林の中の狭い地が巨漢の蛮族たちの死体で埋まっていたのだ。かろうじてまだ生気を残している者とて、明らかな衰弱の兆候が見て取れた。
オーク戦士たちはいきなり目の前に現れた人間の兵士たちに悲鳴を上げた。恐怖の悲鳴だ。出口の見えない迷いの森の中で、孤独と猜疑心に苛まれた彼らが一晩の間、一体何を見たのか、それを想像するのは恐ろしいことだった。少なくとも、将軍キュレニックスにとっては。
だが将軍は、そのような感傷を表に出さず、職務に没入できるだけの理性を備えた男だった。
「総員、構え! 蛮族を狩り出せ!」
オークたちを間近に見て動揺する重装重歩兵部隊は自信と威厳に満ちた将軍の声に、信頼を覚えた。彼らはキュレニックスが私費を投じて訓練した半ば私兵とも言うべき存在だから、いついかなる時でもキュレニックスの声あればそれに応えることが出来た。またそうであることを求められた。
キュレニックスの指揮によるオーク戦士討伐戦は、それまで第十三軍団が経験してきたどの戦闘よりも、一方的なものとなった。オークたちは戦闘能力を喪失しており、時折狂乱の体で反撃してくることはあっても、組織的な戦いとはならなかった。
衰弱した蛮族戦士の巨体に複数本の重槍が叩きつけられ、倒れ虫の息の首が刎ねられた。兵士たちはそれまでの鬱憤を晴らすかのようにオークたちを追い立て、切り、突き、殺した。林の中はむせあがるほどの濃厚な血の匂いで満たされ、流れた液体が無数の流れとなって林の外まで伸びた。
呪いさえ無くなれば、林はそれほど広い場所でもなかったので、正午を過ぎるごろには討伐はほぼ完了した。ただ追い立てて殺すという無情の行為に兵士たちが疲労を覚え始めた時、林の中のくぼ地に追い込んだオーク戦士の生き残りたちが最後の者となった。
人間が立って十人も立てないような狭いくぼ地に追い込まれた3人のオーク戦士を、囲う兵士の間からホンは観察した。
この戦士たちはただの戦士ではない。まず年齢が戦士の全盛期を越しているし、これまで狩り殺した戦士よりも、上質の武具を付けている。頭部には兜の代わりに真鍮製の環が締められていたが、これは古い形式だがオーク諸族の部族長が被るものに、よく似ていた。
「将軍、このオークは他のものと様子が違うようです」
「何故そう思うのだ?」
「年を取りすぎているし、身に着けている物が普通の戦士より良いもののように見えます。おそらく、戦士達の長かと」
「ふん。ならば一思いに討ち取るのが情けというものだろう」
「しかし私たちはオークたちについて、何も知らないのではありませんか?ならば今は情報が欲しいと思うのです」
「これを捕虜にしろというのか? 護衛士よ。オークと話などできるものか」
キュレニックスは片手を振り上げ、今にも部族長のオークに対し、『最期の慈悲』を示してやろうとした。
だがホンは、そのように挙げられたキュレニックスの腕を掴んだ。鋭い視線が彼から投げつけられたが、ホンはそれを受け止め、見返した。
「私が尋問致します」
「貴様にオークの言葉が分かるというのか?」
「私と、私と共に魔術人護衛士をしているインファは、サヴォークにて暮らしていました。そこでオーク
の国であるシー王国と誼のあるモグイ族からオークの言葉を覚えたのです」
腹の下で冷や汗を掻きながら、ホンは淀みなく『偽りの経歴』を話した。
キュレニックスは腕を取られたまま、ホンの目をじっと見ていた。整った顔立ちに上塗りされた冷厳な軍司令官の顔に変化はない。ただ、僅かに瞳が揺れているように見えた。
「……貴様にオークの言葉が話せるというなら、目の前のこいつらを説得してみせろ。無抵抗のまま縛につけさせることが出来るなら、捕虜として遇してやる」
「分かりました」
さて、ここからが正念場だ、とホンは気を引き締める。ここでうまく立ち回れば今後の発言権が得られるだろう。そしてアメンブルクに向かうのだ。
ホンは囲みの中に入り、くぼ地を降りた。間近で見た族長らしきオーク戦士たちは、土と血に汚れ、握りしめる斧の刃は欠け零れて、強張った表情に見ひらかれた黄色い目は血走っていた。彼らは今にも振り上げた武器でホンを叩き潰そうとしているが、そうすればたちどころに周囲から槍を繰り出されて死ぬと分かっているらしく、ぶるぶると震えながら張りつめていた。
ホンも自分の背中に注がれる視線の熱さを感じていた。特に、キュレニックスの青い視線をだ。
ゆっくりと息を吸い、ホンはオークの言葉で話した。人間の前で話すのは初めてだ。
『貴公は何処よりこの地へ参られた氏族か、斧に誓って名を名乗られよ』
喋り出した瞬間、周囲からのどよめき、目の前のオーク戦士が見せた驚きは、長く第十三軍団の歴史の中で語られることになるのだが、それは別の話である。
いきなり目の前に歩み出た小さな人間が、自分たちと同じ言葉を喋り出したことに驚いたオークは、半信半疑の体ながら答えた。
『わ、我らはアメン川の口より来る、ツァオ・オーク氏族。我は勇ましきオッファーゴ・ツァオとノルンの子にしてツァオの父、ウファーゴ・ツァオである。名を名乗られよ』
『我は……』
とそこで、ホンは言葉を飲んだ。彼らに「ホン・バオ・シー」と名乗るわけにはいかない。流石に弱小氏族でも、シー王国の姫の名くらいは知っているはずだ。ホンは習い覚えた帝国の名付け方を思い出して、答えた。
『我はサヴォークより来る、ザフィリ・ハジャールの娘スピネイル・ハジャールである。貴公らは既に、我々の戦士たちが包囲している。抵抗は無意味である。我らの将軍は貴公らの命を救う機会を、我に与えてくれた。この上は大人しく我らの縛に付かれよ』
ウファーゴが猜疑の目で見下ろす中、むしろホンは自分の偽名が周囲の兵士に不自然に聞こえなかったかを気にしていた。スピネイル・ハジャール。それが今から人間としての自分の名前になったのだ。
包囲の外からこれを聞いているはずのインファはどう思っただろう。後で聞いてみよう。
ウファーゴは揺れる目で周囲とスピネイル(ホン)とを見比べた。
『……この上は、我の命既に尽きたも同然。だが、我にはツァオの名の下に従う女子供が待っている。おめおめと命欲しさに武器を捨てることは出来ぬ』
『ならば他のツァオの民の命を保障しよう。オーク習慣法に従い、長は他の長の下に付く時、その下の民を長は守るものである』
『小さきものよ。お前たちがオークの法を守ることが出来るというのか』
オークの掟を人間の社会が守る、そんな事はこれまでなかったことだ。むしろホンの父は人間との約束を破ったくらいである。だがここははったりを利かせる所だとホンは決めた。
『ああ。我らの将軍キュレニックスはオークの掟に従い、ツァオ・オークの斧なき民を守るだろう』
『……そうか。二人、斧を捨てよ』
『ウファーゴ族長!』
『人間の下に付くなど、ラン・バオ・シーと同じ恥辱を味わうのですか!』
目の前で父の名を出されたことで、僅かな動揺を感じたが、ウファーゴたちはそれに気づかなかった。
『シー・オークはそれによって繁栄したのだ』 ウファーゴは慰めるように、困惑する部下二人に言った。
『スピネイル殿。そなたらの長に義を示したい』
ホンは頷くと、振り返ってキュレニックスに言った。
「閣下、こちらへいらして下さい」
名を呼ばれたキュレニックスが、警戒しながらも兵士の間からくぼ地へ降りてくると、ホンは彼の隣に立った。
「ツァオ・オーク氏族のウファーゴ族長が恭順の意を示します。受け取って下さい」
「うむ……」
キュレニックスを前にしたウファーゴと部下が膝を屈した。ウファーゴは手の斧を地に捨て、頭の環を外し、それをキュレニックスに向かって捧げた。
「長の印を受け取り、これを打ち壊してください。オークの習慣では、部族が他の部族を吸収するとき、弱い方の長の印を奪い、代わりに親族としての地位を与えます」
「この者と個人的に誼を持つつもりはないぞ」
「分かっています。ですからここは一つ、何か地位を相手に与えることにしてください。それで彼らは大人しく我々に従ってくれるでしょう」
「地位、か……」
考えながら、捧げられた巨大な環をそっと取り上げたキュレニックスは、自分の腰から剣を抜き、環を打った。真鍮の環は甲高い音を立てて割れた。
そしてそのまま剣をゆっくりと頭垂れるウファーゴの首元へ持って行った。ウファーゴの肌が逆立っているのが、隣に立つホンにも見えるほどだった。そのまま首を切るのかと思ったのだろう。
だが相に反して、キュレニックスは剣の腹を軽くウファーゴの肩に乗せるだけにとどめた。
「我、レムレスカ第十三軍団将軍、キュレニックス・マグヌスは、ウファーゴ・ツァオをその権限により、『帝国の友人』に任ずるものである。異議無き者のみ、声を挙げよ」
「……異議なし!」「異議なし!」「異議なし!」周囲の兵から直ぐに声が上がった。
「異議なしを認める。今日より汝は『帝国の友人』である」
剣を戻したキュレニックスを見て、ホンが続けた。
『ウファーゴ殿。キュレニックスは貴公らの保護を約束されました。立ち上がりなさい』
掛けられた声に応えて立ち上がったウファーゴの目は、それまでの憔悴したものではなく、長い間背負っていた重荷から解放された指導者が見せる、安堵と不安がないまぜになった、しかし、ものを考えることのできる理性ある眼差しだった。
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