第9話 魔術人ヨアレシュ
レムレスカ帝国首都レムレスカを構成する三重城壁の間にある市街は、中心を
ホンは往来を歩き、時折店に入って冷やかし、あるいはささやかな小物を買い求め、しばしの間己に科した諸々のことを忘れた。自分がだたの人間の娘であると思い成し、その役になりきって歩いた。オークの女武者だった日々が夢で、今の姿が現実だったら……と思わないでもなかったが、腹の中に潜み眠る自分のもう一つの本性が、それを許してはくれなかった。
そう思うと、次第に目に映る帝国の壮麗さも何やら色あせていくような気さえした。やがてぶらぶらと歩いていた足は街路の突き当りに出来た小さな広場で止まった。そこは市民のささやかな憩いの場であり、万神殿から分祀された臣霊の礼拝堂が建てられ、ひっそりとしていた。堂の中は人が立って数人入れる程度の広さしかなかったが、小さな祭壇には絶えぬように住民が供えた火明かりが灯され、香炉から細い煙が上っていた。
ホンは堂内の壁にもたれかかり、立ち上る煙をぼんやりと眺めた。自分のもう一つの本性である、険しく逞しいオークのホン・バオ・シーが目覚めてくる。今の自分の姿が生まれた起こりは、ユアン・ホーが差し出した香炉に仕込まれた毒だったことを思い出させた。
(いっそ帝国を流浪して、市井の人間として暮らせるなら、その方が楽なのかもしれない)
沸き立つうらぶれた感傷からそんな思いが生まれる。今のユアンはシー王国の王を自称する権力者で、今のホンは見目麗しいが根無し草にすぎない。本当に元老院を焚きつけて、アメンブルクにいる彼奴まで手が届くだろうか。すべてをインファの差配に任せてしまってよいのだろうか。小さな胸に抱え、不安が増してくるが、モグイ族という人脈があるインファと違い、ホンにはそういうものがない。
気晴らしをしているのにそう言ったことばかり思いつくのがだんだんと嫌になってきたホンは、礼拝堂から出た。もう帰ろう。十分楽しんだし、余り遅いとインファが心配する。太陽が徐々に傾き、空はまだ青いが地平の果てが僅かに赤みがかっていた。広場を抜けていく風も熱気をはらみながらも夜の涼しさを予感させた。
ベールを巻きなおして広場から離れ、また人の群れの中に入ると、店の中から溢れる光、道々に灯された明かりが目に入った。レムレスカの夜が近づいてくるが、市の中では夜が更けても灯りが散りばめられ昼の様に人が往来する。居酒屋で人はささやかな晩餐と酒に耽溺して浮世のやるせなさを凌ぎ、一晩の喜びのために流浪する娼婦を求める。
既に夜の香りが漂っている街中を歩くホンは、風に乗って流れてくる食べ物の匂いを嗅いでいる内にお腹が空いてきた。とはいえ、どこかで買い食いをしようという気にもなれず、足早にモグイの商館へ向けて歩いた。
次の角を曲がろうと辻に入ったホンは、そこを通る大路が意図的に開けられていることに気付いた。群衆が線を引かれたように道の端に固まっていて、よく見ると軽装だが鎧兜を来た兵士が等間隔に立って灯りを持っていた。薄暮の中、群衆は何かを待ち受けてざわめいていた。
ホンは興味を引かれ、思い切って傍に立っている兵士に声を掛けた。「この騒ぎは何でしょうか?兵隊さん」
「万神殿に輿が入るんだよ、お嬢さん」若い細身の兵士がホンの姿を見返しながら答えた。また足先からベールの下に隠れた顔まで眺められるという、今日一日に何度もされた動作を受け、相手がそれを一通り済ませた頃合いに、ホンは続けた。
「私、レムレスカは初めてなんです。もう少し教えてくれます?」
「い、いいよ。どうせ俺は辻に入ってくる連中を見張ってるだけの役だしね」
じろじろ見ていたのを咎められるのではと思った兵士は、ベールの下から微笑むホンを見て気を良くし、話してくれた。
「半月くらい前に、南部属州へ分祀された祭殿で臣霊憑きが起きたんだ。つまり、次の皇帝になる資格を持つ子供が見つかったわけだな。で、万神殿から神官団が派遣されて罹った臣霊から聞き取りをして、一人の子供を見出して連れてきたのさ。ほら、そろそろ来るぞ」
兵士が指指す先から、石畳を突く硬木の杖の音、叩き鳴らされる鈴と銅鑼の音が厳かな調子を取って聞こえてくる。灰色のローブに身を包んだ神官が先頭に立ち、一歩一歩塩を地に振りかけながらこちらへ歩んできた。それまでざわめき騒いでいた群衆はお目当ての物が近づいてくると沈黙し、神妙な空気の中輿が通り抜けていく。
輿を担いでいる男たちは万神殿で働くことで罪を償っている囚人たちだった。彼らは罪びとの印が肩に烙印され、さらに目隠しがされていた。下帯一本の裸体には汗が噴き出て、筋肉が盛り上がっていた。その重い足取りこそが贖罪なのだ。そして彼らが必死で担いでいる輿に目をやる。紫檀で作られた桁台の上に築かれた箱状の席は四方が珠を連ねた御簾で隠されて中は伺えない。だが薄っすらと、そこに誰かが座っているのではないかという気配だけがした。輿の後を行く楽器と杖を持った神官たちが歩行に合わせて杖を左右に突く。杖の先端で揺すられた鈴が鳴り、また別の物が打った銅鑼の響きがゆっくりと通りの壁に反響し、いつまでも耳に残った。
ホンは輿が来て、目の前を通り、そして通り過ぎてその後姿が見えなくなるまで、誰も声を挙げず、ただ静かに通り過ぎるのを見守っているのに気付いた。年を召した者の中には、手に
その空気の静謐さに、ホンはレムレスカ帝国の精髄を見た気がした。霊となって代替わりし、この世に君臨し続ける皇帝に対する尊崇が、帝国という巨大な組織を繋ぎとめている。その威光は東方からの新参者であるオーク諸族には絶対に手に入れられない、という思いに駆られた。血に根付いて築き上げられたものと、それを只奪って進んできたものとの、大きな違いを感じ取ったのだ。
視界から輿が見えなくなると、群衆は時が戻ったようにまた騒がしくなった。鳴子を打って兵士たちが交通を整理し始めると、ホンの隣に立っていた兵士も同僚に呼ばれた。
「さあ、俺も仲間の所へ戻らなきゃいけないから。お嬢さんもさっさとおうちに帰りな。ほら、もう串型塔の下に太陽が沈んじまう」
兵士が指さした先で血の様に真っ赤に輝く塔の先端へ太陽が消えゆくところだった。ホンは兵士に礼を言って、辻に立った別の兵士が交通を整理しているところへ入っていった。
兵士は人々を見ているわけじゃないらしく、ただ適当に路地から路地へ人の波を押し分けていた。ホンは前後から押し寄せてきた人々の圧力に押されて進みたい方向とは別の道へ押し込まれてしまった。
「あ、あの、私、そっちに……」
声をあげてみたが前後に押されたまま足は勝手に進んでいき、人の波から解放されるまで歩き続けた。気が付いた時には、通りたかった道から随分遠ざかっていた上に、既に太陽が完全に没して街灯が表通りを照らすだけの光しかなかった。
しかもよく見ると、周囲にある建物がこれまで見ていた者よりも粗末な普請であるように見え、道も石敷きではなく砂利敷きになっていた。どうやら第二区からさらに外側の貧民街まで押し出されてしまったらしい。侘しい光が点在する中に浮かぶ貧しい家々はホンが昼間見て回った町と同じ場所なのかと思うほどうらぶれていた。その光の外、映し出されぬ影でひっそりと息を殺す住人の気配がした。
振り返れば自分が出てきた道は、まだ多数の人々を吐き出していて後戻りはできない。仕方ないので別の門を通って第二区に戻るべく路地を抜けるために歩き出した。
(大路を一本外れるだけでこんなに町の見せる表情が変わってしまうのか)
埃っぽい夜風が脛を撫でる中、人気のない道を足早に進んだホンはそう胸奥でつぶやいた。漂っている空気が奇妙にも殺気立っているようにさえ感じていたが、それはホンが明らかにレムレスカの住人、しかも貧民街の住人に見えないからかもしれない。
自然と足運びが早くなるが、進むにつれて街灯が少なくなり一層に宵闇が濃くなっていき、目的の門へまっすぐ近づいているのかだんだん定かではなくなってくる。不安が足取りを重いものにした。
黄昏を越えて先の見えぬ道を凝視して歩いていたホンの背筋がその時、緊張で逆立った。目の前に人が立っていた。しかもそれは複数人であり、道を塞ぐように列をなしていた。そしてその人影たちは足を止めたホンに気付くと動き出した。その動きは明らかにホンを囲むためのものだった。
「何? あなたたちは?」
誰何の声に応えるものはない。だが包囲の輪を縮めてくる。そして闇の中から誰かがつぶやいた。
「女、痛いことをされたくなかったら、持ち金全部置いてきな」
鯉口を切る音が聞こえたが白刃の煌きは見えなかった。ホンは答えた。
「申し訳ないけど、女を囲んで如何こうしようなんていう輩に施せるほどの持ち合わせはないわ」
「生意気な口をききやがる。だが手前が持ってなくても手前の家族に持ってこさせるさ」
この男たち(声で男と知れた)は営利誘拐をするつもりなのだとホンは悟った。喋っていた声に合わせて周囲の男たちが一斉に鯉口を切って刃物を見せ、ホンが身動きの取れないほど囲いを狭めてくる姿からして、やり慣れていると思われた。これがインファの言っていた市内の危険というものの一つか。
「大人しくしてれば傷つけたりはしねぇ。黙ってついてきな」
自分を囲む男たちが動くのに引っ張られてホンは歩かざるを得ない。そうしなければ先ほどからちらちらと見え隠れする鋭い何かが肌を切るだろう。男たちに連れられて歩くホンの視界の脇で灯りを持った兵士が立つ門がちらっと見えたが、直ぐに遠ざかってしまった。あそこまで逃げられればと思ったが、その機会はなかった。
連れていかれたのは、昼間に立ち寄ったのと同じ構造の広場と礼拝堂だった。ただここの広場は石畳が所々はぎ取られて雑草が芽吹いていた。礼拝堂はまぐさが落ち壁に塗られた顔料も剥げているのに、堂内から強い光が漏れていて、粗末な布が戸口代わりに垂れ下がっていた。一目で自分を囲んでいる破落戸の溜まり場になっている場所だと分かった。そこに引き込まれたら安全はないだろう。
目的地が見えたことで男たちの警戒が僅かに緩み、肌に触れそうだった刃の気配が引いた。瞬間、ホンは俯くと同時に脇に立つ男の鳩尾に肩からぶつかり、そこに出来た囲みの隙間から倒れ込むように飛び出した。
「てめえ! 逃げるんじゃねえ!」
すかさず別の男の手が伸びて捕まえにかかった。ホンは振り向きざまに手を振り上げた。その手は相手の顔面を撫でるように通り過ぎたが、その直後男から絶叫があがり顔を覆って硬直した。振り上げたホンの手には帯飾りに仕込まれた刃が挟み込まれていた。小さな刃が男の鼻筋を落としたのだ。これほど強硬な抵抗をされるとは思っていなかった破落戸たちの動きが止まった。その隙にホンは路外の闇の中へ走り出した。
「畜生! 俺の鼻が!」
「待ちやがれ!」
いきり立った男たちの声が後ろから追いかけてくるのをホンは聞き取った。体に熱いものが巡ってくる感覚が蘇ってくる。強烈な戦闘の予感に打ち震えるオークの血が滾り、黒玉の大きな瞳がルビーの様に赤く光った。
(このままさっき見えた門まで走って逃げると、門衛の兵士に誰何されてしまう。そうなると私の身元を証明しなくちゃいけなくなってよろしくないわ)
モグイ商人の客分とはいえ、未だはっきりとした身元を持たないホンはそのような手間を費やす余裕はなかった。となると破落戸たちの追跡を完全に撒くか、蹴散らすしかない。どうするべきか逡巡しながら走る前方に人の気配がした。
「逃げられねぇぞ金持ちの嬢ちゃん!」
先回りした破落戸の仲間が道を塞ぐように立ち、手には大振りの短剣を握って構えていた。それを見た瞬間、ホンの戦闘に熟達した頭脳は彼らを倒すことを選択する。そしてホンは前方を塞ぐ破落戸たちの前でドレスの裾を持って跳躍した。軽くて小さい身体がオークの筋力で以て飛び上がり、男たちの頭上を軽々と飛び越えて背後に降りる。
「なんだぁ!?」
何が起こったか分からない破落戸に、ホンは腰に差していた短剣を抜いて切りかかった。
短い悲鳴の後、路上に剣を握った男の腕が二本転がり落ちた。無くした腕を抱えて悲鳴を上げのたうち回る仲間を見て、ホンを追いかけてきた男たちは激憤して抜剣した。
「散々暴れやがって、もう許さねぇぞ!」
「人を捕まえてお金を取ろうとするような無法な人間が何を言っているのかしら」
殺気立ち睨みを利かせる破落戸たちに対し、ホンは片手に短剣、もう片手に帯飾りの隠し刃を逆手に構えて抗戦の意思を明確に示した。
「あなたたちのような不心得者はこの壮麗なレムレスカにふさわしくないわね」
「しゃらくせぇ! やっちまえ!」
男たちが一斉にホンへ殺到した。だがホンのほうが動きが早い。素早く白刃の煌きの中に躍りかかり、危険に身を晒しながら一合、二合と剣を振るうと、必ず血の飛沫が飛んだ。男たちの腕が、鼻が、耳が落ち、流れる血で砂利道が汚れ、空気には嗅ぎなれた殺戮の気配が漂った。
その香りを、ホンは無我夢中で吸った。それは昼間、活気と陽気に満ち溢れたレムレスカの繁華街に漂っていた甘く爽やかな空気と同じくらい美味だった。
(私はオークではない。でもそれと同じくらい、人間でもない)
依って立つ足場の拙さを忘れる様に、破落戸たちを切って切って切りまくった。
闘いの高ぶりが静まった頃、砂利道の上は血と肉の飛沫で汚れきっていた。破落戸たちは例外なく二箇所の伊達を得て逃げ帰り、辺りから人の気配が絶えた。
「はぁ……」興奮が冷めると手の中の得物がひどく重たかった。ドレスの裾にさえ血の汚れは無かったが、身体には暫く匂いがこびりついているだろう。そう思うと、昼間に夢見た一市井に埋没するなど、まさに夢物語に過ぎないと知れた。
ともかく、危機は去った。後は第二区に戻るだけだ。汚れた短剣を砂利で適当に拭ってやり、その場を離れようとした、その時。
「いやぁ、お見事お見事。若い身なりで凄い立ち回りだったね」
声と同時に人の気配が突如としてその場に現れた。振り向くとそこには、壁に寄りかかって灯りの下に立つ一人の女性が拍手していた。身なりは酷く粗雑なローブを膝が見えるくらい短く詰めて羽織り、足は素足、手には細い輪が何本も嵌められていた。癖の強い茶褐色の長い髪を強引に纏めた頭には何本も簪が刺さっている。あざ黒い肌をしたその女性はにこやかに身振りを加えながら話した。
「誰だお前?って顔してるね。私は通りすがりの、魔術人さ。夜中に貧民街で切り合いなんて珍しくもないけど、その渦中で丁々発止と舞い踊ってるのがこんな美人なら話は別さ。いい見世物だったよ」
「貴女、急に現れたわね。いつから見てたの?」
「初めからさ。私は目くらましの呪いが使えるからね」
ほら、と女の魔術人は詰めたローブの下から手軽に短剣を抜き出して見せつける。街灯の光を淡く反射する刀身は様式不明の文様が彫りこまれ、また柄のつくりも同様だった。
「こいつでちょいと指先をだな」
言うが早いが魔術人は自分の指先へ刃先を滑らせた。人工光の下でもはっきりとわかる一筋の赤い雫の線が浮かび、一粒の珠になってローブの裾へ落ちた。ホンはそれを無意識のうちに目で追っていた。ローブの布地に落ちた血液の珠が繊維の中に染み込み、滲んで広がったな、と思った時には、そのローブを着ていたはずの魔術人がローブごと一切の視界から姿を隠していた。
「とまぁ、こんな具合さ」
背後に立った魔術人の女の声に背筋が泡立つ。思わず手の短剣で切りかかりそうになったが、ホンは寸でのところで抑えた。その声音には不思議と不快なところがない。敵意は感じられなかった。
「分かってくれたかな、綺麗でお強いお嬢さん」
「魔術人という種族がいたずら者だということはよくわかったわ。それで、私に何か用?こんな時間だし、私は早く帰りたいの」
「まぁまぁ、そう焦りなさんなって。いえね、私お嬢さんのその腕を見込んで一つ、お頼みしたいことがあるのさ」
「私には関係ないわね」
二の句を告げられる前にと、ホンは足早にその場から離れ始めた。すると魔術人が後ろからついて歩いてくるのだ。彼女は話を続けた。
「そんなつれないお顔をしないでも、いいんじゃあないの。綺麗な面が台無しだよ」
「余計なお世話よ。あんな有様になってしまったけど、私あんまり外を出歩かないようにって、家人に言われているの。その上魔術人なんて怪しい輩と親しくなってきました、なんてちょっと言えないのよね。だからほら、あっち行って」
「そんな事言わないでさぁ。元老院議員と知り合いになりたいんでしょ?」
出し抜けなその言葉にホンは驚いたが、それを顔には出すまいと堪えた。が、それをまるで無視して魔術人はさらに話した。
「ふ~ん……お嬢さん、お生まれは?」
「……サヴォークよ。知ってるでしょ?オークに襲われたから逃げてきたの」インファが考えた表向きの出自をよどみなく答える。
「知ってるよ~あれで第七軍団が殆ど全滅して、生き残った兵士と魔術人、あと護衛士が帰ってきたもん。で、今は失った属州を取り返すのか今ある領地に守りを固めるのかで侃々諤々してるって」
「……詳しいのね」
「魔術人は帝国と密約があるからね~色々と、ね。それでさお嬢さん。貴女サヴォーク出身じゃないでしょ」
軽々しい、しかし刺すような言葉だった。自分の後ろを歩く魔術人の女の気配を強く感じたのは、ホンが知らぬうちに緊張していたからかもしれない。
ばれるかもしれない。自分が人間ではないことに。
「へぇ、人間じゃないんだ。お嬢さん、下手なこと考えたら駄目だよ。魔術人っていうのはね、心を読めるんだから」
ホンは気が狂いそうなほど神経が荒ぶってきたが、懸命に平静を装った。
「それは、知らなかったわ。なら今私が考えていることがわかる?無礼な魔術人さん」
「こうやって私を喋らせておく間に、門までの距離を測ってる。それに片手でしまってある短剣を抜ける様にこっそり構えてる。私を怯ませて、そのまま逃げる。第二区のモグイ商館まで……」
自分の目を見ながら、まるで文章を読み取るように諳んじて見せる魔術人、その眼を見返しながら、薄っすら掻いていた汗が布地に張り付き、冷えていく感覚があった。
「言っておくけど尋常な手段じゃ魔術人は死なないから全部無駄だよ。このまま逃げるつもりなら、私は元老院にオークが帝都に紛れ込んでいるって、告げ口するよ」
「私がオークだっていうのも、分かるのね」
「外れ者の魔術人の呪いが掛かっているのは、最初見た時から分かってたよ」
自分が包み隠しているものを洗いざらいさらけ出されたような気がして、いっそホンは身が軽くなるような気がした。
「いいわ。魔術人さん、要件があるなら何でも言ってちょうだい。あと私は『お嬢さん』なんて名前じゃないから。ホン・バオ・シーよ」
「私もちゃんとした名前があるよ、ホン・バオ・シー。私はヨアレシュ」
不敵に笑うヨアレシュにホンは自分の知らぬ領域で自らの運命がまたどこかへ転がっていくような予感を得るのだった。
夜明けとともにモグイ族の商館に帰ってきたホンを、一睡もせずに待っていたインファが迎え、その傍に侍っていたむさくるしい姿の第三者がずけずけと館内に入り込んできた。そのまま一行は館内にあるホンの部屋に収まると開口一番、インファが叫んだ。
「お嬢様! お出かけになるのは百歩譲って許しましょう、ですが、ですが! この帝都、夜になれば営利誘拐の類に手を染める破落戸も多数おります、そのようなものの跋扈する夜の帝都を、お嬢様の様な麗しい方が無防備に歩き回れば、腐肉に集る蠅のように悪漢どもを吸い寄せてしまうのです! 今夜こそ、何もなく無事にご帰宅あそばされましたなれど、今後はどうか、日のあるうちにお帰り下さいませ!」
「ホンなら破落戸程度軽くあしらえるって分かってるでしょ、モグイのお姉さん」
「分かってるからと言って安心できるものではないのです! っていうか貴女は誰ですか、お嬢様と馴れ馴れしくして」
不安の夜を過ごしたであろうインファがかなりとげとげしくなっていたが、ホンはインファに昨晩の顛末を語った。
「……というわけで、残念なことにこの魔術人に私たちは弱みを握られているのよ」
「そういうこと、よろしくね、お姉さん」
「魔術人が人の心を読むという話、ただの噂に過ぎないと思っていましたが、まさか本当だとは……」
苦い顔でヨアレシュを見返すインファだった。
「それで、ヨアレシュは私たちに何をして欲しいわけかしら。私たちの正体をばらさないでいてくれる代わりに」
「魔術人の護衛士、って言って分かる?」
「……インファ、教えて頂戴」
分かりました、とインファは乱れた居住まいを直して答えた。
「そもそも、レムレスカ帝国はオーク諸族の侵入に対抗するために、領土内に散在していた魔術人たちを招集しました。彼らは本来帝国の支配を受けない存在でしたが、皇帝は彼らに一種の特権を授ける代わりに、帝国の防衛と繁栄に力を貸すことを求めたそうです」
「特権って何?」
「それは私が説明してあげる」
横からヨアレシュが口をはさんだ。
「ヤオジンはね、あ、ヤオジンっていうのは、私たち魔術人のことね。尋常な方法じゃあ体が死なないようにできてるんだけど、傷つけば動かなくなるし、壊れたら治りきらなくなることもあるんだ。レムレスカはその長い治世の間、辺土に隠れて住んでいた私たちを無視してくれていた。けれど普通に暮らす民衆から見たら、私たちは不死身の化け物で、よくわからない術を使う、恐ろしい存在だったのさ」
時折起こる魔術人と民衆の間の『不幸な事故』により、徐々にだが魔術人はその数を減らして行くのだった。
「だから私たちは皇帝に協力する代わりに、帝国領土内での安全を保障させたんだ。具体的には帝都とその他主要都市にヤオジンのための居留区を用意させ、自由に行き来できるように便宜を図らせた。それでも不意の事故や事件で危険に晒されることもあった。その上私たちは帝国軍に従軍して戦場にも出なくちゃいけなくなった。そこで帝国元老院は、帝国に協力してくれるヤオジンに『人を雇って身を守らせる権利と費用』を与えること決めたのさ」
「その権利に従って、個人で魔術人に雇われた傭兵や戦士のことを護衛士と呼ぶのです」
「なるほど、理解できたわ。そしてその話をしたっていうことは、ヨアレシュは私たちを護衛士として雇いたいのね」
「そういうこと。ホンが強いのはこの目で見て分かったし、この子だ!と思ったのよ。そこのモグイのお姉さんも強いんでしょう?遠路はるばるアメンブルクからここまでホンを守って連れてきたくらいだし」
ね、とヨアレシュは手を合わせて二人に頼み込む。
「お願い! あなたたちがうんと言ってくれないと、実は私困っちゃうのよ」
「困るも何も、私たちに否という選択肢はないのだけど」
「うふふ、そうだったね。でも困るのは本当なの。実は元老院が新しく第十三軍団を編成するんだけど、軍団付きのヤオジンに私が選ばれちゃってね。期日までに自分で護衛士を集められないと、先方が勝手に人を付けちゃうの。私、それは嫌だなァって思って。自分を守ってくれる人くらい、自分で見つけ出したいじゃない? こう、乙女として」
ヨアレシュはそう言って二人へ笑いかけた。服装は奇態で、髪はどこか不潔な印象を与えるくらいに絡み合っているが、顔立ちは綺麗で人に好印象を与えるものだった。そんな彼女が胸元に手を合わせていると、間に挟まっている肉が押しつぶされて強調されるのが見える。夜間だと気付かなかったが、ヨアレシュの胸は毬でも詰めてるのかというほど大きく主張しているのだ。
ふと、ホンは自分の胸に手を当てる。オークの時は気にしなかったが、人間の少女になってみると、自分についているものが随分と貧しいような気がしてくる。いやいや、胸の出来がどうということが何に関連するものでもないのだが。
ともかく、ホンはヨアレシュの提案をどう受け取るか考えた。復讐の戦略にはこれを好機とみるか妨害となるか。
「インファ、元老院に働きかけてアメンブルクに攻め込む話は、どれくらいで決着がつきそう?」
「今のままではまだ幾許かの時間がかかると思われます。こちらは活動資金に限りがありますし」
「ならいっそ、直接軍団の中に潜り込んでもそう罰は当たらないと思わない?」
「は?」
「私はこれを好機と見たわ。新しく編成される軍団はディヴォン防衛に向かうことになるわけで、そこで何らかの功績を挙げればアメンブルク侵攻を上奏させる梃になる、と考えるわ」
「理屈としては、あってますが……そううまくいきますでしょうか」
「やって見なければ分からないわ。少なくともここでひっそりと息を潜めていても、ユアンに復讐は出来ない。それにもう、息を潜めておくこともできないしね」
ホンの決断を見たインファは軽く首を振ってみせたが、表情は穏やかだった。
「仕方がありません。お嬢様が行くところに私は付いていくだけです」
「決まりね。ヨアレシュ、今日から私はあなたに仕える護衛士になるわ。戦場だろうとどこだろうと必ずあなたを守って見せる。だから、私の思いを汲んでほしい。復讐したい奴がいるの。そいつは私から多くの物を奪い取ってしまったから、その報いを……与えたいの」
「君の心を読んだから、大体の事情は分かってるつもりさ」
ホンの心を再び読みながらヨアレシュは答えた。
「まぁ、私は帝国との約定を守れればそれでいいのさ。そのついでに何が起ころうともね。だけどきっと、君の目的は必ず叶うよ。私が保証する」
「それは魔術人の呪いで分かるから?」
「いいや。単なる勘さ」
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