第7話 紅の発現

 薄汚れたドレスを着た少女は熾された火の傍で鉢を持ち、中の液体をすすりながら冷厳に閉ざされている市壁の門を見上げた。彼女以外にもいる避難民らしき者たちは皆同じようにくたびれ、薄汚れ、疲れ切った顔で壁を見た。今か今かと開く時をじっと待っていた。


 ホンとインファがアメンブルクを脱出してから、早半月の時間が流れた。ディヴォンまで続いたモグイ族秘密の道を行った二人は、途中何度か野宿を繰り返したのち到着した。


 とはいえ、インファが示した野宿の場所には、既に何度か使われたたき火の跡があったり、雨風を凌げる巨岩の影にあったり、また立ち枯れた木の洞に保存の利く食糧が密かに貯蔵されていたりした。これらはすべて大半島を行き来する漂泊民であるモグイ族が、互いを助け合うために残したものだった。


 このような休息所を使ったものは、置いてある物を使い、あるいは借りて命を繋ぐ。そしてその代わりに身に着けている物を置いて、他の誰かの助けになることを祈って立ち去るのだ。実際、インファは移動する際に懐から金子の小袋を出すと、同族にのみ通じる密かな印を付けて地面に浅く埋める。


 それでも、ホンにとってはなかなかにつらい旅程であった。野宿そのものは、軍を率いて歩いた者であるからか、さほどに体に堪えなかったが、変わってしまった小柄で華奢な体を使っての強行軍が、精神を自身が思っている以上に疲れさせた。


 かつての一歩を進むためには三歩四歩と足を動かさなくてはいけない。もどかしい気持ちは余計な力を体にこめる。それが知らず知らずのうちに、石をすり減らすように疲労を蓄積させたのだ。その為にディヴォンの市壁が見えた時、やっとこの苦労から一旦自由になれると思ったのに、二人の前に広がっていたのは一層の不自由であった。


 それも、ディヴォンの北側門の周囲には自由都市サヴォークからの避難民が大量に居座っていたからである。彼らはシー王国南伐軍が近づいてきた時、サヴォークから一路ディヴォンまで逃げた者たちだが、そのあまりの多さ故にディヴォンの行政官が町の収容人数を越えると判断し、数日おきに開門しては、女子供や老人といった弱いものを優先して入場させる措置を取っていた。


 入場したものは、担当の文官の差配の下、縁故の当てがあるものは移動の支度を、そうではないものは市内の富裕層の援助による新しい生活の準備をさせられた。


 もちろん、住み慣れた街を着の身着のままで離れたサヴォーク市民の中には、なぜ軍団を派遣して町を取り返してくれないのかと市長に談判するものもいたが、ディヴォンとその周辺を防衛するレムレスカ第五軍団を任されている将軍は首を縦には振れなかった。


 サヴォークを守護していた第七軍団が壊滅した以上、第五軍団までやられては北部属州にすむ帝国人民を守る者が居なくなってしまう。そうなればより多くの人民の血が流れ、災禍が広がるだろう。今はディヴォンを硬く防衛する準備を進め、帝国本土の元老院と皇帝が、この事態にどう行動するのか判断を仰ぐしかない。このように考えていた。


 差し当たり、ディヴォン周辺まで逃げ延びたサヴォークの市民には軍団の保護がなされた。第五軍団による軍需物資の放出が行われ、市壁の周りには難民のキャンプが広がることとなった。避難者はそこでいつかは自分の番がくることを祈りながら門が開く日を待って過ごしていた。


 ホンとインファはそのような集団の中に紛れ込んでいたのだ。幸いにも二人の姿は怪しまれなかった。周囲に集う避難者も、彼らを守るために巡回していた軍団兵も、二人を『お付きの者を連れて逃げ出してきた令嬢』と受け取って、手厚く保護した。二人には質素だが暖かい食事が配られたし、雑魚寝になるが大きな集団用テントの片隅で寝ることもできた。


 ホンは配給された硬い黒麦のパンを、酢と干し肉のスープに漬けながら食べていた。食べながら、自分の周囲にいる避難民たちを注意深く観察した。まるで猛獣の巣の中にいるような緊張感だった。こんなに大勢の帝国人に囲まれているのは生まれて初めてだった。飛び交っている言葉は当然帝国語で、時折話しかけられると、たどたどしく受け答えした。


 そのしゃべり方はまだ不自然なものに聞こえたが、避難生活で身心が落ち着かないためだろうと、曖昧に受け取られてるらしく、大して疑われていないことに安心した。今こうしてた焚き火を囲んでいるのはホンの他には子供や老人ばかりで、若い男性の姿は少なかった。


 どうやら第五軍団からの指示で成人男性は組織化され、キャンプの維持運営を行っているらしいし、女性陣の多くは配食や傷病者の看護に駆り出されている。現にインファはサヴォークから逃げてきたモグイ族のグループの下へ出掛けていて、何やら仕事をしているらしい。


 自分も何かした方が周囲に馴染みやすいのではないだろうかとホンは思い、実際に動き出してみたのだが、ここ三日ほどはこうして子供たちの遊び相手や老人の話し相手になることが多かった。手伝いに参加させてほしいと進み出ると、周囲の人たちはホンの姿を観察して、恭しく拒否するのだ。悪いが、貴女の様なご令嬢に汚れ仕事をさせるわけにはいかない、門が開いて係官がやってくるまで休んでいた方がいい。などと言われて厄介払いされる。


 物憂げに食事を終えて食器を片づければ、いよいよ手持ち無沙汰になり、ため息をついた。


「皆私を壊れ物を扱うように大事にするのね。なんだか息苦しいわ」


「大分言葉が上手になりましたね、お嬢様」


「ひゃっ?!」


 いつの間にかインファが傍にいて声を掛けた。


「びっくりするじゃない! 気が利かないわね」


「申し訳ありません。ですがお嬢様、ここで避難民と一緒にいつまでも門が開くのを待っているわけにもいかないでしょう?」


「そうね、今は何とかして中に入ってしまいたいけど」


 門が開いたのは二人が到着した前日のことで、今日か明日には門が開放されるかも、という噂が流れていたが、確証はなかったし、誰も自分が入場できるか分からなかった。


「そこでモグイに秘密で通れる道はないのか、探ってまいりました」



「あったの? そんなものが」


「あったりなかったりですね。街に依りますよ。で、結論から言うと、ディヴォンにはモグイが通れる抜け道はございませんでした」


「何か引っかかる言い方をするのね」


「抜け道自体はあるのですよ。ここは属州と本土を結ぶ街ですから。行ってみますか?」


「当然。このままじっとしてるのは性に合わないから」


「では案内します。言っておきますけど決して安全な道ではございませんよ?」


「多少の困難は乗り越えるものよ」


 曇りかけていたホンの瞳に光が戻ってきていた。


 二人はそっとキャンプから離れ、街道を外れた。周辺には難民を保護するために巡回している軍団兵の小隊がいて、彼らを撒かなくてはならかった。ディヴォンから遠ざかるにつれ人の気配がなくなっていき、代わりに岩だらけの平野、灌木がまばらに生える山道に入り込んでいった。


「属州へ本土から持ち込む商品には税がかかっています。違法な商売をする闇商人やモグイだけが、このような道を使うのです。その代わりこの辺りには盗賊が出るとか」


「盗賊ね……」


 山道に入っていくとそれらしき人の使った道があったが、尖った岩塊が散乱し、傾斜はきつい。キャンプで見繕ったサンダルがなければ今のホンではとても登れなかっただろう。


「今、属州から一刻も早く逃れたい者がここを通るとするわね。ディヴォンなら軍団が守ってくれるけど、ここはそうはいかない」


「私たちみたいにですか」


「そう。もしかしてそういうのって、盗賊からみたら恰好の獲物なんじゃないかなって……」


 嫌な想像が膨らんできたホンはそうつぶやいた。


 だがそれは単なる想像ではなかったのだと、直後にホンは考え直した。それはホンがオークであった頃に積んだ戦闘経験が与えた一種の直観だったのだ。そこは山道の勾配が緩やかになる箇所で、ちょうど足を止めて少し休める程度の足場があった。岩がちな斜面ばかりの景色だが、その周囲にはまだ転落を免れた大岩や、灌木の林が点在していた。横に広がってのびる枝木がまるで巨大なキノコのような影を作っている。その影の下で、何かが蠢いていた。


「インファ……」


 そっと視線を従者に向けたホンは、彼女の目が自分と同じように周囲への警戒に向けられていることを知った。インファが見ていたのは、斜面の上に出っ張っている庇の様な大岩の上だった。今日は風がないというのに、その庇の上から砂埃がぱらぱらと落ちこぼれているのが見えた。


 囲まれているという漠然とした不安と緊張が二人を結び付けた。二人は背中合わせに立ち、周囲を見回してから、注意深く山道を登り始めた。山道は険しくなったが、不安の元となる何かは二人を絶えず付け回した。灌木の下を縫って不穏な影は追いついてくるし、岩の影や裏側からは絶えず人の気配が濃厚に匂っていた。


 夏季の陽光が白い岩に照り返し、影を黒々と作っていたが、そこに入り込めば安全はないという確信があった。熱射は水分と体力を奪っていく。ホンの白い肌も上気して桜色に変じ、インファの濃褐色の肌には珠の汗が浮いていた。


 二人は足を急がせて峠に立った。そこからはレムレスカ本土北部の地平が一望できた。雑木林が点在する平野には手入れされた畑が広がっていて、それらがくねりながら伸びる石垣で丁寧に区分けされている、そんな地の模様が地平線まで広がっていて、その中を特段に太い一本の石の道が貫いている。


 アメンブルク街道とは違う、常に整備されたディヴォン街道は一方は山の影へ消え、ディヴォンに繋がっていた。もう一方は地平に伸び、まだ見ぬレムレスカの都市へ繋がっているのだろう。


 今自分が夢見たレムレスカの大地に足を踏み入れようとしていることに、ホンは興奮を覚え、忘我の恍惚に浸った。気のせいか鼻に香る匂いさえ、ただの土臭いものなのに楽しい。


「お嬢様、お気を緩ませないで下さい、来ますよ……!」


 こんな時でも決して油断しないインファの声にハッとなったホンが再び周囲を見た。包囲の実体が姿を見せ始めていた。木の深い影や岩の裏側から這い出てきた者たちが二人の前に立ちはだかっていた。この者たちは垢じみた黒い短衣を着て、足にはサンダルではなく脚絆を直に履いていた。髪は伸ばし放題に垂らし、皮脂で硬く固まっている。手に手に持っている短剣や短槍が鈍色の刃をぎらつかせていた。


 二人を包囲するように群がってきた賊徒どもの中で、ひと際に尊大な態度を取る男が一歩前に出てきた。そいつは嫌らしく笑うと空き歯から涎を垂らしながらしゃべった。


「いやぁ属州からのお客さんよ。ここしばらくはどいつもこいつも身綺麗な道を使いなさるんでぇ、あんたたちは久しぶりのお客さんさぁ」


「身に付かない言葉でしゃべりかけるんじゃあありませんよ、気味が悪い」


 インファがぴしゃりと言い捨てると、賊徒の頭目はにやけ面を捨てて無表情になった。ドスの利いた本性がさらけ出された。


「言ってくれるじゃねぇかモグイの女がよ。まぁいい、お前らは獲物だ。身包み剥いでたっぷり楽しんでから、奴隷商人に売り払う。モグイの女は大したものじゃあねぇが、そっちの娘はかなり高く売れそうだぜ。売り物の味見も楽しくなりそうだ、けけ」


 野卑な声が集る賊徒から沸き上がった。その嫌らしく露骨な、汚らわしい感情を晒している姿を見せつけられていると、ホンの脳裏にじわじわと火が付くように、何かが熱くなって血を巡っていった。それはオークであった自分を見ていた従士たちが時折見せていた欲望の表情によく似ているのだ。その不快感が立ち戻ってきて、打擲して頭を冷やさせたいという気持ちが湧いてくる。今のホンの小さな拳が固く握られた。


「お嬢様、いけません。今の貴女では……」


「やって見なくちゃわからないでしょう?」


「ここは私にお任せを」


 そう言うとインファは動いた。荷物を地面に捨て、両手を軽く握って少し足を広げて立つ。その胡乱な雰囲気に賊徒の頭目の目が細くなった。


「ああん、やろうってのかモグイの分際で」


「山賊程度の癖にモグイを舐めていると痛い目を見ますよ」


「言いやがったな! 野郎ども、少し痛めつけて大人しくしてやれや」


 血走った眼で武器を振るっていた手下たちがその一声で動き出す。


「顔は傷つけるなよ」


「手足は切っても使えるぜ!」


「綺麗に使ってやるからなァ!」


 刃物をちらつかせて迫る手下たちの油断を見たインファが先に動いた。不安定な足場でありながら最も接近していた者の前に踏み込む。


 一瞬にして目の前に現れた顔に手下が呆然となった隙に、インファの繰り出した肘が鳩尾にねじ込まれた。苦悶して体を折り曲げると、下がった顎を掌底で撃ち、同時に足を払って後頭部から地面に叩きつけた。


「ぐぎゃあ!」

「てめぇ!」


 いきり立った別の者が、手に持った槍で刺しにかかる。インファはそれを丁寧な回し受けで払い、柄を掴むと手元へ引き寄せた。同時に踏み込んで身体を浮かせていた男の腹へ正拳を打ち込むと、落雷を受けたように男が硬直し、次の瞬間に槍を手放して倒れた。


 奪い取った槍で次に攻め来る者の持つ短剣を払い、その動きを殺さず足を払って倒す。その動きは円弧を描く流麗なもので、はた目にはまるで踊っているかのようだ。だが散発的に襲い掛かる賊徒たちは、まるで木にかかった布を相手にしているような手ごたえのなさを感じていた。いくら攻めかかろうとすり抜け、逆に自分たちが傷ついていくのだ。


「な、なんだこの女!」

「化け物かよ!」


「ただのパンクラチオンですよ」


「パンク……なに?」

「次はこちらから行かせてもらいます」


 槍を捨てたインファが跳躍した。宙で体を捻り相手の頭上で膝を繰り出し、同時に腿で頸部を圧迫した。人ひとりの重さが瞬間的にかかった首から野太い骨折音が聞こえて賊徒の一人が頽れる。


 倒れる賊徒を足場にインファは再跳躍すると、伸身して両足を揃えた蹴りを見舞う。食らった者は肋骨を砕かれ悶絶しながら血を吐き、動かなくなった。


 動揺する賊徒たちの間を、インファが風の様に駆け抜けた。すれ違うたびに武器が地面に落ち、骨が折れ、血が散った。


 インファの動きが止まった時、襲い掛かろうとしていた武装した男たちはあらかた倒れ、血の泡を吹いていた。そのうちの何人かは、既に絶命していた。


「ふう、ざっとこんなものでしょう」

「ひぃ! 化け物! モグイの化け物だぁ!」


 まだ動けるだけの気力を残していた連中がそれを見て逃げ出し始めた。頭目の男が腰から剣を抜いて脅しかけたが効果はなかった。


「畜生、逃げるんじゃねぇ! こうなったら……」

 逃げ惑う手下の影に隠れた頭目は、インファとホンの視線がそちらに向いているうちに密かに接近すると、頃合いを見て一息に駆け出した。


「まだやりますか?……いけない!」

「へへ!」


 インファは頭目の目を見てその行動の意図を察したが、インファの華麗な武芸に目を取られていたホンは反応が遅れた。頭目は一瞬の隙を付き、ホンに抱き着くと、逆手に剣を持って喉元に付きつけた。


「ああっ?! は、離せ!」

「誰が離すか! おい、モグイの女! 大人しくしねぇとおめぇの連れがどうなるか、分かってんのか!」

「む……」


 駆けだそうとしたインファの足が止まる。汚い剣先がひたひたとホンの肌に当たっているのが見えたのだ。

「さぁ形勢逆転だ。大人しく俺と一緒に来てもらおうじゃないか。畜生、手下を随分殺してくれたじゃねぇか。楽しく暮らせると思うなよ、お前は手足を落として慰み者にしてやる。血も涙も枯れるまで嬲り尽くしてやるからなァ」


 追い詰められた男の正気ならぬ声音がホンの耳元でささやいていた。

「へへへ、甘くていい匂いがするなぁお嬢ちゃんよぉ。おめえさんもたっぷりと可愛がってやるぜ。へへひひへへへ!」


「ううぅ……イン、ファ」

「堪えてください、お嬢様。今お助けします」

「変な動きするんじゃねぇよ! ゆっくりと、こっちに、来な」


 反抗の構えをしぶしぶ解いたインファは、警戒の意思を目から消さずに、ホンを捕らえたまま剣を振り回している頭目に近づいた。

「もっとだ。もっとこっちに……おらっ!」


 剣柄がインファの鳩尾へねじ込まれる。抵抗を許されないインファの身体がくの字に折れた。続いて脚

絆で固めた足先で下がった顔を蹴りつけた。インファのくぐもった呻きを聞いて頭目は野卑な笑い声を挙げた。


「へへへ! 俺様を虚仮にするからこんな目に合うんだぜぇ、おら! どうした! さっきまでの威勢はよぉ!」


 男の太い腕に絡みつかれたまま、ホンは男がインファを蹴り続ける様を見せられる。目の前でインファが、自分をここまで助けてくれた人が無残に傷付けられていく。

「やめろ……」

「へへへ」

「やめろっ……」

「あん?」

「やめろと、言ってるんだ」

「文句があんならおめぇを代わりに打ってやってもいいんだぜ?」


 また抜き身の段平がホンのほうへ向けられたが、ホンは怯まなかった。体が熱かった。強い強い意志が血に乗って体を巡っていた。戦場で武器を持ち、配下を鼓舞して駆け抜けたオークのホン・バオ・シーの片鱗が、呪いで封じられた人間のホンの身体へ、わずかだが戻りつつあった。


「お前みたいな……オークにも人間にも劣る屑に……これ以上好き勝手、させるものか!」

 目の前をちらつく刃を無視したホンは自分を捕まえている男の腕へ両手を伸ばし、渾身の力を込めて握り込み、身体の重みを聞かせて前へ倒れ込んだ。抵抗されると予想していなかった男は堪えられずにそのまま投げ飛ばされ、地面に落ちた。


 汚い男の腕から解放されたホンは地面に捨てられていた短剣を拾い、転がる男の身体めがけて振り下ろす。男は咄嗟に振り向き自分の剣でそれを受けようとした。


 だがどういうことか、ホンの短剣はそれより刃の厚みも長さも倍はある男の剣を叩き折り、そのまま男の胸へと食い込んだのだ。


「はっ?!」

「ぐぎゃっ」


 あっけない手ごたえの後に聞こえた断末魔に驚いて、ホンは短剣を手放したが、深々と肋骨を折り砕いて突き刺さった短剣は抜けることがなかった。賊徒の頭目は折れた剣を握りしめて痙攣しながらのけ反っていたが、やがて事切れた。その眼は見開かれ、今際に見たものが信じられないと告げていたが、ホンもそれは同じだった。今の自分の細腕が人ひとり殺すことが出来るなど思ってもいなかった。


 とはいえ、周囲から人の気配は絶えた。散り散りに逃げていった山賊たちは、その内仲間と頭目の安否を確かめに戻ってくるだろうが、それまでにこの峠を抜けてしまえば追いかけてはこない。倒れているインファを抱き起してやると、彼女は腫れた顔で周囲を見回した。そして胸から柄をはやしている男の躯が転がっているのに気付く。


「お嬢様が……やったんですか」

「ええ……無我夢中で剣を突き出したら、こうなっていたわ……」

「今のお嬢様にそのようなお力があるとは……」


 思えない、とインファは言いたいのだ。肉体を鍛錬するパンクラチオンの目で見ても、人間のホンの身体のどこに、剣を砕き骨を折る力があるのか分からなかった。それほどに今のホン・バオ・シーの身体は嫋やかで儚いのだ。だがそのことに逡巡するのは今でなくても良い。


「ともかくここを抜けましょう。ディヴォン南街道に入れば賊の類も出なくなりましょう。後はレムレスカまで……うっ」

「大丈夫? 傷が痛むの……?」

「これほどのこと、大したことは」


 そう言いながら顔をゆがませるインファの姿は痛々しい。思えば自分を連れての逃避行で、彼女の世話になりっぱなしだった。今までもこれからも、恐らくインファは付いてきてくれる、運命共同体だ。もはや主従の何もなく、ホンはインファの助けになりたかった。


「インファ。私の肩を掴んで。一緒に行こう」

「お嬢様……」

「インファだけここに置いていくなんて、私嫌だから」


 ホンは無理やりインファの腕を取り、自分の背中から肩に回すと、共に立ち上がり引きずるように峠の下り坂を歩いた。今や自分より背の高い従者を抱くようにして進む彼女の目は、綺羅と光る紅の色を帯びていた。


「このような方に仕えることが出来て、インファは幸せでございます」

「まだ幸せには早いわ。ユアンを討つまで私たちは止まれないんだから」

「そうですね……レムレスカで好機を得ましょう」


 擦り下る坂道を降りていくと、豊穣に築き上げられたレムレスカの国土がまるで果てがないように二人の前に広がりを見せていた。

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