第6話 ホンとインファの脱出

 翌朝、ユアンはかつての宴会場に姿を現した。宴会場は昨晩までの賑やかで楽しげな雰囲気はなく、漂うのは酒ではなく血の香りだった。床や壁には拭っても決して消えないだろうという程にこびりつく多量の血痕があった。


 昨晩から夜が明けるまでの間、ユアンが招き入れたホーの男たちがここで作業をしていた。毒酒で身心不詳のまま虐殺されたシー王国のオーク重鎮たちを運び出し、館の庭に穴を掘って埋めた。幸い昨日の雨で土は柔らかく、規模の割は楽な作業だったと思われた。


 ここを去った死人の代わりに、今ここにはホーの男たちが寝泊まりしていた。彼らは普段、オーク諸族が進出した大陸北方域の中でも、特に険しく、人の住むに能わない山岳や深い森の中に隠れ住んでいる。血の匂い漂う場所でも一向に気にする素振りもなく、むしろ心地よさげに眠っていた。


 ユアンの指示した作業は徹底していた。館内にいたオークは酋長格も従士も区別なく殺された。奴隷も館の運営に必要な最低限の数を残して主たちの後を追わせた。したがって館内は朝を迎えるというのに灯りを付けるものもない薄暗さ、厨房も食糧庫も静かだ。ここを支配していた者が去ったことによる、空気の喪失感があちこちに現れている。


 その空虚な屋内をユアンは一人歩き回ったが、やがて住処にしている客間に戻った。客間では共犯者である魔術人が椅子に腰かけて待っていた。ユアン同様一睡もしていないに違いない。もっとも、魔術人という人種が人間やオークのような睡眠を必要としているのか、ユアンにもわからなかったが。


「一国一城の主になってみた感想はどうかな、ユアン・ホー」


「悪くない気分だ。この館の中で俺に楯突くものは居ない、という確信は蜜のようだ。精々酔いすぎないようにしなければな」


「ほほう、てっきり小躍りして喜ぶものと思っていたよ。あれほど脳裏に燃やしていた憎悪の的であるラン・バオ・シーとホン・バオ・シーの父娘を惨たらしく殺したというのに、随分とあっさりしたものだ」


「あの二人を殺したのは全体の過程すぎん。俺の目的はホーの国の主になることだ。遠く離れた東方から引きずっているくだらない習慣法に縛られているオーク諸族をひっかきまわし、全てのオークをホーの下に支配する。それを拒むなら、滅ぶか東方に逃げかえればいい」


「いやぁ実に稀有壮大な野心だ。帝国の創造者レムレスも顔負けだな」


 魔術人と向かい合うように座ったユアンは卓上へ懐から取り出した山羊皮を広げて示した。


「私はオークルーンに明るくないが、これが何なのかはお前の心を読んでわかっている。これはラン・バオ・シーが持っていた領地交換の同意契約書だな」


「そうだ。後はこれに各酋長の鋼印を押せば、たとえ酋長自身が居なくても、彼らの後継たちはこれに従わねばならない。従わない場合は武力を持ってこれを強制する大義名分となる」


 手下の男たちが酋長の遺体を始末する前に、ユアンは彼らの懐から長の証の一つである鋼印を集めていた。これを握っているユアンは好きなように習慣法に則った文書を発行して、他の氏族を従わせることが出来るのだ。


「だが、酋長たち自身が突如消え、どこから現れたか定かではないホーの男がシー王国の権力を継承する、そんなことを下についているオークたちが承知するのかね?」


「少なくとも従士団は納得するまい。従士というのは酋長に直接紐付きにされる階級だからな。だから私は今いる従士団員を全て解雇する。こっちの文書を根拠にな」


 ユアンはもう一巻の山羊皮を取り出して同意契約書の上に広げた。それは同意契約書より短い文章が綴られていたが、下の部分に赤と黒の押印が押されている。


「こいつは俺が偽造した『ラン・バオ・シーは亡妻の兄ユアン・ホーへ長の権限を移譲する』という内容の、正式な契約書だ。鋼印、血判、花押、全てが押されている。こいつを破ることはオーク諸族には絶対にできない。破れば即追放刑だが、こいつを持っているのがホーの男であるというところがオークの悩みどころさ」


 『追放者は武器を持つ権利を伴う契約は結べない』が『鋼印・血判・花押を用いた酋長の文書を破ることは出来ない』のだ。今まで追放者がそんな手厚い契約を得ることなど考えられなかったからだ。


 ユアンがラン王から篤いもてなしを受け取れる仲になれた時、彼から従士に取り立てるためにあらゆる手立てを考えると言った時、オーク習慣法に明るいユアンの心に思い浮かんだこの矛盾点への疑問が、彼に遠大な野望を植え付けたといえる。粗野で武威を尊びながら、いや、それゆえに習慣法と契約を重視するオーク諸族社会に対するユアンの捻くれた帰属心が起こさせた行動といえた。


「ところで、封印を掛けたホンの部屋はどうなっている。火が漏れだしたりはしてないだろうな」


「あの部屋には『中のものを外に出せない』呪いがかけてある。人だろうが火だろうが、あの部屋からは永久に何かが出てくることはないよ。こちらから開けないか、もしくは、あの部屋に扉や窓以外の出口があったりしないかぎりはね」


 魔術人の呪いの効果とは、多分に術者の認識に依るところが大きい。『戸口』に掛けられた呪いによってホンの部屋は封じられている。


「そうか。ならもはや何も心配することはない。魔女よ、今までよく協力してくれたな」


 ユアンは満足げに言うと、広げていた山羊皮を丸めて懐へしまい、席を立った。


「ひひ、全て私の遊び心さ。お前の鋭くとがった野望がどこに突き刺さり、折れ砕けていくのか、楽しみに見物するよ」


「その必要は、ないな」


 席を立ったユアンが魔術人の背もたれに手を置いた。その恰好がラン王を殺した時の体勢によく似ていることに、魔術人は気づいた。


「なんのつもりだい?」


「俺がこの野望を達成するために必要とした、魔術人との協力は、これ以上必要ないということだ」


「正気とは思えないね。私が誰か他のオークなり、帝国なりにこのことを伝えるかもしれないとは考えないのかい?」


「心を読んでみろ」


 言われた魔術人はユアンの心を読んだ。読心すると魔術人には対象の思念が流れ込んでくる。


 流れ込んできたのは血塗られた短剣がわが身を貫く姿の思念だった。魔術人はせせら笑った。


「愚かな。尋常な武器で魔術人を殺せるはずもなし」


「試してみるか?」


 心を読ませているはずのユアンが嫌に余裕を見せていることに魔術人は微かな不安に襲われた。だが、魔術人には自信があった。オークの手に持つ武器程度では魔術人を傷つけることはできても、絶対に殺すことはできない自信が。


 ユアンが腰に吊るしていた刀の隣に佩いている短剣を抜く。


「そもそも、お前のようなはぐれ魔術人の存在を知ったのは、私が帝国軍第三軍団将軍の客分になっていた時だった。彼に付いていた魔術人に聞いたのだ。その魔術人は世俗に染まった堕落した男で、酒ばかり飲んでいた。酔い混じり魔術人に関する様々な話を聞いた……」


 雑談を口にしながらもユアンの手先は過たず魔術人の心臓を捉えた。衝撃と激痛を伴って自らの胸から突き出た刃を魔術人は見た。ユアンの持つ刀とは違う、古風なつくりの刃だ。どこかで見た覚えがある……。


「こ、これは、アゾット剣……」


「お前たち魔術人は誰でも一振りは持っている。当然だな、お前たちが呪いを使うために必要な品だか

ら」


「何故だ、お前の心に、これを持っているという情報はなかったのに……」


「飲んだくれの魔術人が得意としていた呪いは、暗殺だった。自分を囲っている将軍の依頼でありとあらゆる暗殺手段を研究していたよ。魔術人を殺すための研究もな。この魔術人殺しのアゾット剣もそうだ。もっとも、自らの命で実証してしまったがね」


 相手の背中からアゾット剣を抜いたユアンは椅子を蹴り倒した。年老いた魔術人は傷を受けたことが信じられなかった。痛みと苦しみが胸から広がり、身体の力を奪っていった。今まで考えもしなかった死の恐怖を知覚した。


「はぁ、はぁ、嫌だ、死にたく、ない」


「悪いがお前がいると邪魔なのだよ。俺の野望は俺一人の成果としなければ、手下どもは付いてこない。手品の種を知るものは一人でいいのさ」


 倒れた魔術人の上に跨ると、今度はアゾット剣を首筋にあて、真一文字に引き裂いた。魔術人の身体が痛みの衝撃に一度跳ね、そして動かなくなった。フードがめくりあげられて白日に晒された魔女の、悍ましいほど皺だらけの顔が宙を凝視していた。


 ユアンにとっては、余りにありきたりな殺害であった。人間もオークも魔術人も、死に際に見せる顔の、なんと代わり映えしないことか。


 だが、これで計画の全貌を知るものはユアン一人になった。手下にしているホーの男どもは卑屈な奴隷根性の塊で、ユアンの指図に口を挟むことなど絶対にできない。

 ユアンはただの死体になったものを客間の暖炉に蹴り入れて火をつけた。館内の暖炉は煙突が繋がりあっている。煙突は昨日の晩から絶え間なく煙を吐き出していたので、そこに別の煙が加えられても誰も気にするものは居なかった。




 部屋の調度を燃やし尽くす業火の狭間に消えていくユアンの姿を、萎びていく主を支えて立ち上がろうとしていたインファは認識していたが、さりとてホンを見捨てて駆け寄り縊り殺すことなど出来なかった。


 肩に回したホンの腕の余りの軽さに涙が出そうだったが、インファは彼女を支えて扉まで進んで手を掛けた。だが扉は開かない。鍵をかけられているのかと思い腰にいつも下げていた鍵束で開けてみようと試みて気づく。鍵穴に棒を差し込もうとすると不可視の力場に遮られて穴にはじかれてしまうのだ。だったらと強引に扉を破ろうと叩くが、扉は壁に貼り付けているかのように、小動もしなかった。


 木と土と石で出来ている部屋の中で燃えているというのに、火は天井を食い破らず燃え続ける。このままでは火に飲まれる前に蒸し焼きになりそうだった。絶対に、脱出しなければ。


 正面から出られないなら、何か別の方法で試みねばならない。この規模の館なら貴人に充てられた部屋には隠し通路でもないかと思ったが、ラン王もホンも、そのようなものがあるとは言っていなかった。


 だが、とインファは混乱する思考の中で記憶を整理する。煙を吸わぬようにホンの身体をだぶだぶになった彼女のマントで包んでやり、自身はパンクラチオンの呼吸法をとりながら、この部屋で生活する間に感じた違和感を思い出す。


 ホンを引っ張りながら、インファは隣の部屋へ移った。帝国趣味の小部屋にはまだ火の手が迫っていなかったが、時間の問題なのは明らかだ。寝椅子の上にホンを寝かせ、インファは脱出の糸口になるかもしれないものを探した。


「お嬢様、必ずやお助けします。モグイの誇りはこのようなところで死ねませぬ」


 壁際を埋め尽くしている品々を取り除け、括り付けにされている棚を脇へ引っ張る。本来なら一人でやる作業ではないほどに重いが、ホンが喪心している以上インファ一人でやらなければいけなかった。


 鼻先にきな臭いものが漂ってくる。死ねない。死なせない。落ち着いて呼吸せよ。


 呼吸法を守り手足に力を込めて、インファは重い戸棚を人ひとりが通れるほどの幅まで引っ張った。


 そこには壁を装飾する化粧板の中で一部分だけ装飾様式の異なる箇所があった。インファは最初、ホンとこの部屋を模様替えして帝国教養を学ぶための教室にする際、この壁面の作りを隠すために戸棚を置いたが、もしかすればこの部分には何か絡繰りがあったのではないか。


 インファはこの違和感をもつ化粧板をつぶさに調べた。時間はないが、一縷の望みをかける。手触りや、ほんのわずかな傾きがないか、仕掛けがあるならどんな方法でそれが作動するのかを考えた。


 背後から煙の漏れ出る音を聞きながら、違和感のある化粧板の隅に指を掛け、手前に引いた。化粧板はあっけないほど簡単に剥がれてしまった。剥がれた板の先には、下方へと伸びる狭い空洞がぽっかりと口を開いていた。


「やった!脱出いたしますよ!」


 すぐさまインファはホンを抱きかかえた。ああ、気のせいだろうか、先ほどよりさらにホンは軽く萎びている。


 ホンを抱え、穴の中へとインファが入っていった時、背後で扉の燃え爆ぜる音が聞こえ、同時に火炎が室内を明るく照らし出しながら広がっていくのを感じた。



 埃の薄い膜となって幾重にも張り付いている古い蜘蛛の巣を破りながら落ちていったこの穴は、完全な垂直というわけではなく、微妙に左右に捻じれ、くねっていた。お陰で足を掛ける梯子などがなくても何とか下に降りることが出来た。足の着いた場所から横へ空洞が伸びているのが分かったが、そこは人間でも屈まなければとても進めない狭い横穴だった。


 わき腹の傷から血がにじみ出て熱と痛みがインファを苛み、その上で抱えたホンを引きずるように這い進む。いっそ主を置き捨てて自分の身だけを助けられればどんなに良かったことだろう。だが仕事の放棄を良しとしないモグイ族の誇りと責任感、何よりホン・バオ・シーへの敬意と愛情が許さなかった。


 そして驚くべき、そして恐ろしいことに、体積が半分ほどにまで縮小し、インファの腕で抱えられるほど身軽になっているこのオーク娘はいまだに息が合った。弱弱しくも心臓の鼓動が腕に伝わってくるのだ。微かなうめき声さえ挙げている。未だ死んでいない彼女を、こんな暗くてじめじめした場所に置いていくわけにはいかなかった。


 横穴を這っているうちに、インファの膝や手のひらは散らばった鋭い石片で傷ついていった。外の光は見えなかったが風の流れがあることで確実に外へつながっていると知れた。


 そのまま進んでいると穴は徐々に上り傾斜になり、扁平に広がっていったが、その先には夜空を切り抜く月光が降り注ぐ出口が待っていた。痛む体で、片腕で人を担いで傾斜を上る苦労に関節は強張り、筋肉は悲鳴を上げて苛んだが、気力を振り絞り上り続け、出口の縁に手を掛けて転がるように抜け出た。


 そこはアメンブルクを囲む小丘の中腹に開いた横穴だった。丈の長い草が茂っていて穴を隠しているので、そうと知らなければわからないだろう。風は夏の夜とて涼しく頬を撫で、火照った体に心地よい。マントにくるまれた格好のホンを横に寝かせ、インファも隣に仰向けに倒れた。


 身体の痛みに耐えながらインファは考えた。ユアンは何と言っていただろう。シー王国を乗っ取るようなことを嘯いていた気がする。何とかするべきなのだろうが、インファは一介の世話係であり、ただのモグイ族だ。できることなどたかが知れている。


 だが、ホンは違う。彼女はシー・オーク族の酋長の娘であり、従士団で構成された象騎兵隊の隊長であり、先の南伐軍を率いた将軍である。その身の安全が確認されれば、彼女の一声でアメンブルクの外に派遣されている従士たちがはせ参じるだろう。


 問題は、彼女の体に掛けられた魔術人の呪いだった。今やその大きさはインファよりも小さく、身体に合わせて作られたドレスやマントにすっぽりと包まれ、形さえ定かではなかった。だが厚い布の下で息をし、微かに動いている。生きているのだ。


 インファは寝かせているホンを覆っている布を恐る恐るめくっていった。呪いによって二目と見られぬ姿に変えられているのかも、という未知の恐れが湧いたが、一時の安全を得られた今のうちに、次の行動を決めねばならない。その為にも彼女の状態を検めなくてはならなかった。


 オークの着心地に合わせられた厚地のマントの下を、インファは降り注ぐ月の青白い光によって見た。見た瞬間、それまでインファが想像していた呪いの印象、苦しみ、痛み、傷ついていく恐怖の観念が、砂の楼閣を潰すように崩落し、月光を浮かべている宇宙の様に真黒な場所から出現して、日常を奪い去ったユアンが秘めていた、常軌を逸する憎悪を感じ取った。それはなんとも歪で皮肉な力だった!


 そして幸運にも、身体を侵し巡る呪いの苦痛のうちに失神していたホンの意識が、その時戻りつつあった。未だ熱にうなされた後の様な力ない感覚にとらわれていたが、夜風と芝草の青く清涼な香りに包まれたためか、四肢の痛みが引いていくようだった。


 ホンが目覚めた時に最初に気付いたのは、自分を見下ろすインファの姿が、やけに大きく見えることだった。


「どう、したの、インファ、そんな目で、私を見て……」


「お、お嬢様っ」


 声を聴いて、やっとインファは驚きの余り硬直していた状態から復帰した。


「お、お具合のほうは……」


「最悪。まだ、体が痛いし、喉が、乾いた。子供の頃、ひどい熱病に罹った時を、思い出すわ……そうだ、ユアン!」


 叫んでホンは飛び起きた。朦朧としていた記憶が瞬時に立ち戻ってくる。伯父の差し出した香炉の煙、豹変した伯父が招き入れた魔術人の短剣、そして炎……。


「インファ! ここはどこ?! 館からどれくらい離れたの! 早く従士団や親族方の様子を確認しなくちゃ……」


「落ち着いてください! お嬢様はまだお身体が万全ではありません!」


「そんな事は関係ない! 父上に何かが合ったら、私はそれを引き継ぐ義務がある! これくらいの呪いで倒れて居られないのよ」


 息巻きながらホンは立ち上がった。意識がはっきりしてくるにつれ、呪いの効果が減じてきたのか、手足の力が戻ってきたのだ。だが立ち上がってみようとして妙にもどかしいことにホンは気づいてしまった。体に合わせて作られたはずのドレスとマントを着ているのに、どうして手足に纏わりつくほど布がだぶついているのだろう。それに昼間は腰の上ほどの高さにあったインファの顔が、隣立つ今は少し見上げる位置にあった。


「私、なんだか変だわ。インファが大きく見えるの」


「お嬢様は魔術人の呪いを受けております。その、影響かと……」


「そうね……さしずめ、私の身体を小さくする呪いといったところか。ひ弱なユアン叔父らしい、ちんけな呪いを掛けてくれたわね」


「いえ、ただそれだけではないようです……」


 自分を見るインファの目が奇妙な色を帯びていることにホンは気づいた。


「どうしたの? インファ。私の顔を見て」


「お嬢様……ご自分のお身体のこと、よく見ておりますか?」


「自分の身体?さっきまでかなり具合が悪かったけど、今はもう大分良く……」


 力強いが日光のように鮮明ではない月明りでホンは自分の身体をよくよく見た。そしてインファの困惑の程がどれほど深いのかが、徐々に自分にも理解できるようになった。


 自分の手指はこれほど小さくほっそりしていただろうか? 肌はまるで真珠玉のように白かったか? 腹や胸の肉が僅かな熱病の後とはいえ、これほどに痩せて落ちるものなのか? じわじわとこれら肉体の変化を認識すると、ホンは始めてこれまで一連の騒動に対して恐怖を覚えた。自分を形作っていたはずの物が悉く失われているという感覚に肩を抱いて震えが走った。


 唇がわななき、インファが覚えている限りでもっとも気弱な口ぶりでホンは話した。


「私、どうなっているの……?」


「お嬢様、落ち着いてください」


「落ち着いていられないわよ! わ、私は一体、何を、されたの……」


 未知であることの恐怖に呆然として、ホンの足は立っていた小丘の横穴からふらふらと歩き出して行った。


「私……」


「お嬢様?」


 身の丈にすっかり合わなくなったドレスとマントが、歩き出すたびに擦れて地面に脱げ落ちた。一糸まとわぬ身体に当たる冷風を感じながらも、ホンの心は狂気の縁から抜け出せなかった。むしろ隠すものがない自分の身体をつぶさに観察できてしまうことで、一層未知が増えていく。


「ああ……ああ……私は、オーク、の、ホン・バオ・シー、なのに……」


「お嬢様、いけません!」


「あ……」


 力なく斜面に踏み出したホンはその場に倒れ込み、青草の上を転がった。運よく石に当たったりはしなかったが、昼間まで降っていた雨で出来た大きな水たまりに落ちた。



「がっ! ふがっ!」


 悲鳴を上げたホンをインファが駆けつけ、直ぐに水中から抱き起してやった。被った泥水を吐かせてやると漸く落ち着いたらしく、そのまなざしから喪心と狂気の片鱗は見えなくなっていた。


「インファぁ、どうしよう。私、私」


「お嬢様、私はどのようなお姿でもお嬢様のお傍におりますゆえ……」


「でも、でも、この、私……」


 唾をのむホンは言葉が出なかった。それは今の自分の姿、状態を示す言葉があるのだが、それを無意識のうちに拒絶しているように、インファには思えた。


 だからインファは待った。脱ぎ捨てられていたマントとドレスを拾い集めて、膝の上に寝るホンの身体に掛けてやった。そうして共に月の光を浴びながら池の様な水たまりの傍でじっとしていた。何故なら、インファは信じていたのだ。ホンが立ち直ることを。


 膝の温もりが乱れては治まり、治まりては乱れようとするホンの心を支えた。ホンはインファの手を握った。今や自分より大きく強そうな彼女の手を握り、半身を起こすと、水たまりの縁に手を置いて水面の上に身を乗り出した。


 月光を写し取る静かな水面の上に、今のホン・バオ・シーの……かつてホン・バオ・シーだった者の姿がくっきりと映し出された。


 それを見たホンの口から悲鳴とも呻きとも呼べる叫びが漏れた。今映っているものは絶対確実に自分自身なのだ。それなのに、水鏡がホンに見せている姿には、ホンの記憶する自分自身の印象や痕跡が影も形もなく消え去っていた。


 巨大な真珠層を削って作ったようなつややかで白い肌をした、柔和で美しい輪郭線をした人間の少女、目は大きくつぶらでまつ毛が長く、鼻筋は歪みがなく慎ましやかに伸び、唇は鮮やかでしっとりと潤んで震えていた。一つだけ、頭皮を覆っている黒い髪だけが嘗てのホンの面影を許していると言えたが、それさえ以前より格段に艶やかで黒味を増して肌の上を流れ落ちている。


 これがユアン・ホーがホン・バオ・シーに送った呪いだった。今のホンは勇み称えられたオークの女将軍などではない。むしろそれとは対極になる、ひ弱で儚く、庇護を与えて囲い込まれてしまいそうな、可憐な人間の少女だった。ユアンはホンの帝国趣味をそれとなく知っていた。その為にこのようなえらく捻くれた仕打ちを考え付いたのだろうかと、事実を自分に付きつけたホンの心の片隅で何かが考えた。


 だが、大部分の意識はこの現象を前に途方に暮れて、これからの行動を決める能力を喪失してしまっていた。いったい誰が、私をホン・バオ・シーと認めるだろう? 父も従士もなく、それどころかオークの体すら無くし、あるのはモグイ族の世話係一人。


 そう思うと寄る辺のなさが夜風に乗って身に沁みるようだった。震え乍ら水たまりから離れ、ホンはまたインファの膝に寝た。マントを体にきつく巻き付けていたその顔は見開いた目のまま硬直していた。


「寒いですか?」


「寒いわ、すごく……これまで感じた事がないくらい、寒い……」


「もうすぐ陽が上ります。そうしたら……」


「そうしたら、どうするの?身一つで?ここはオークの国なのよ。人間がふらふら歩いていていい所じゃないんだよ。今の私が、いちゃいけない場所に、なっちゃったんだよ……」


 すべて、奪われた。人も物も何もかも。それが悔しくて悲しくて、零れそうなほど開かれた目から、遂に熱いものが流れ出した。


「あ、あ、う……うううっ」


 ホンは泣いた。泣かずにはいられなかった。彼女は夜明けの光が小丘より遠くに見える地平線から昇るまで、インファの膝を熱い雫で濡らし続けた。やがて太陽が空を青紫に染めはじめ、丘の向こうにある都市アメンブルクの目覚めが近づいてきた。


 ホンはひとしきり泣いた後、真一文字に口を結んで立ち上がった。ちょうどその時、夜風の最後の一陣が吹き、街から微かな火の香りを運んできた。もうその中に帰ることのない匂いを嗅ぎ、目を細めて朝日を見た。


「憎らしいほど天は私たちを置いて日を上らせ、何事もなかったかのように一日が始まってく。ならば、私たちも新しい一日に踏み出さねばならないわ。父は亡くなったかもしれない、いいえ、おそらく殺されているでしょう。私ももうオークじゃない。それでもまだ、私は多分、ホン・バオ・シーなんだなって思うの。だって私の心には、辛く冷たい絶望が満ち満ちても、ユアン・ホーへの復讐の火だけは消えないから。必ずあいつを殺す。全てが元に戻らなくても、あの男の命だけは頂戴する。力を貸して、インファ。それが果せたら私、モグイの奴隷でもなんでもなるわ」


「モグイに奴隷は要りません。ですが私はラン・バオ・シー様から依頼されたお嬢様のお世話係として、貴女の心に叶う仕事をするのが務めです。その代価に何かをくださるというなら、笑顔でいてください。『ホンを笑わせてやってくれ』というのが、ラン王からの依頼でしたから」


 らしくもなく、冗談めかしてインファは答えた。二人には家族の絆があった。それまで二人の間にほのかにあった、オークとモグイ族という出自の溝は、皮肉にもオークの身体を奪い取られた事で埋められ、以前よりも身近なものの様に思われた。


 だんだんと空が明るく青々と澄み切ってきた。鼻につく火と生活の匂いがよりはっきりとしてくる気がして落ち着かない。


「ともかく、ここを離れなきゃいけないわね。まず身の安全を確保したいわ」


「お嬢様、ならばここはいっそ帝国まで逃げましょう」


「帝国?! 馬に乗っても半月は掛かる距離よ。まだオーク諸族が進出してない北部属州南ならわかるけど」


「お嬢様が復讐をお考えなら、独力よりも何かほかの力を借りることを考えるべきでしょう。その為にも人や物が集まる帝国本土レムレスカへ行くべきです。なんとなせば、今のお嬢様は人間なのですから」


「そうね……そうしましょう。行こう、帝国へ」


 肚は決まった。後は行動するだけだ。インファはひとまず、ホンの身体に合わせてドレスの帯を調節してやり、足には歩きやすいように布を巻いてやると、顔を隠せるようにマントをローブの様に羽織らせた。


「モグイの道を使いましょう。ディヴォンまで急げば四、五日で行けます。道中の口もなんとかなりますゆえ」


 丘を下り、二人は平地へ出た。細い道が丘を巡ってアメンブルクへ繋がっている。インファの案内で道ヘ踏み出したホンは一瞬だけ振り向き、天へ祈った。


 私を必ずここへ連れ戻してください。父の敵を討たせてください。


 オークだったホン・バオ・シーの敵を討たせてください。


 願いを込めた祈りを手早く済ませ、ホンはインファの待つ細道へ進んでいった。

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