第5話 ユアン、本性を現し、姫武将は斃れる


 地平線の向こうへ太陽が沈み、双子の月が上る頃、ラン王の館は晩餐の宴で賑わっていた。オークの長たちは先祖代々の風習に従い、つまり円座に組まれた食卓に着き、そこへ運ばれた食事を命名に取り分けて食べるのだ。酒も振る舞われ、また余興に呼び遣わされたモグイの芸人が歌と踊りで参列者を喜ばせる。


 そのような歓楽の場でありながら、室内はほのかな緊張感が支配していた。誰もかれも一様に飲み食い浮かれているように見える。しかしよく見ると、ある者は隣の男へ酔った風な口をしながら『うっかりと』昼間には口にできなかった領土割譲に関する取引条件を提示し、それを聞いた相手も酔いに任せたふりをして答える。そんな暗中の闘いが静かに繰り広げられていた。


 ラン王もまた参列者の間を行き来し、酒を注ぐ傍らで密かに親族方の耳にさりげない提案を聞かせて回った。良き土地を細切れに手に入れるくらいならば、いっそまとまった地域に丸ごと移ってはどうか、ついては今いる土地をこちらへ譲ってくれるなら、此方は最小限の取り分で引き下がろう。反応はすぐに上がってきた。アメン川流域で凶兆があるゆえに再移住したいので、よしなに手ごろな領地を指示して欲しい、そのためならこの度の占領地を一旦すべて王家の下に預けた体裁をとることもやむなし。


 幕間の政治闘争ともいうべきこれらのやり取りを見届けるものがあった。宴の場で末席を与えられたユアン・ホーは、周囲を動き回る権力の奪い合いを肴に、肉を食い、酒を呑んだ。ラン王が慌ただしく宴会場を出ていくのを確認したユアンは、それを追うように自らも会場を後にする。


 館内の間取りを知悉しているユアンは、ラン王の執務室に灯りが入れられているのを発見した。そのまま戸を叩き、気になって後をつけてきたと一声かけるのは簡単だった。だが、そうはしなかった。


 ユアンは振り返り、執務室の前から離れ、自分に充てられた客間へ戻った。オークの客人向けに作られた室内は何もかもがユアンにとって大きすぎ、不便この上なかったが、一つだけ今日の行動に有利な点があった。隠し物をするのにとても都合が良かったことだ。


 ユアンは客間に灯りを入れることもなく問いかけた。


「魔女よ、貴様の出番だ」


 無人であるはずの客間の闇の中から、何者かが声に従い現れ、ユアンに応えた。


 

 ラン王は執務を補佐する奴隷に作らせた文書を口述させ、その中身を改めて確認した。今日館内にいる親族方全員がラン王の提案を聞き、承諾した。実のところ長引く評定で引くに引けなくなっていた親族方にとってラン王の出した条件は渡しに舟であったということだろう。山羊皮に書かれた文書は、ラン王の名の下にはせ参じた軍勢によって獲得された領地は全てラン王の下に管理されることを、指揮下にあるオーク諸族の代表者は認める旨が記されていた。後はこれに出席者の氏族印……証明の手斧に記されるものと同じ物が押されれば、決定は公式のものとなるだろう。


 文書を丁寧に丸めて懐に入れたラン王が執務室を出ようとした時、何者かが戸口を叩いた。

 振り返ると戸口がゆっくりと開く。誰もいないのに勝手に開いた、わけではない。視線を下げるとユアンがばつが悪そうな顔でラン王を見上げていた。


「宴会場で姿を見なくなったので、探しましたよ」

「すまぬ。例の策が成功する目星が付いたゆえな、こうして書に起していたのだ」


 室内に入ったユアンはそう言ったラン王へ笑いかけた。


「それは重畳。更なる繁栄を願っておりますよ」

「うむ。ついでだがユアン。やはりおぬしの存在は我が家に必要だ。どうか留まって一角の将となってはもらえないか。従士団や親族方は我が必ず説得するゆえな……」


「その話はおいおいに。ところでですな」


 と、ユアンはマントの下に吊り下げていた酒瓶を持ち上げて見せた。


「実は貴家へ参る途上で、大変珍しい酒を手に入れていたのを、今の今まで忘れていましてな。先ほど家政の奴隷衆に命じて逗留されている親族方にも振る舞ってきたところです。どうか王も一杯お召しになられませ」


 ほほう、と上機嫌なラン王は見せられた酒瓶へ興味を示した。それは幾分か古い様式の陶製の瓶で、表面には見覚えのない絵柄で彩色がされていた。


「これは……レムレスカ帝国で出回っているアンフォラ酒というやつかな」

「流石にお目が高い。帝国人でも滅多に呑めない品です」

「ふむ、では一つ御馳走になるとしようか」


 言うとラン王は部屋付きの奴隷に指示して酒杯を用意させた。部屋に置かれていた過去の戦利品を飾る棚の下から出てきた杯へ、ユアンは酒を注いだ。


「部屋に酒を隠しているなどと言ってくれるなよユアン。ホンやインファめに窘められるゆえな」

「ふふふ。王も好きですな」

「酒こそオークの血潮であるからな!では、これからの互いの繁栄と幸福のために」

「成功と幸福のために」


 二人は杯を掲げ、同時に呑んだ。酒は強い酒精の中に僅かな獣臭の漂う独特な飲み口で、生の内臓を食らったような不思議な印象をラン王に与えた。


「ふう。かなり強い、薬酒のような味だわい。体に沁みるようで、忘れがたい味だ」

「興に沿えたようでなにより」

「しかしこのような珍奇な品、なにゆえホーであるおぬしの手に渡ったのか。詳しく話してくれぬか」


 酒が腹の中で燃え立つようで、ラン王は腰から力が抜けてしまいそうだった。たまらず近くの椅子を引き寄せて座り込んでしまうと、一層腰が重く、椅子の背にくくり付けられたように動けなくなった。


 ユアンはそれを知ってか知らずか、ラン王に乞われたまま話し始めた。


「このアンフォラ酒は、私が諸国を流浪しているうちに知り合ったレムレスカ人が所有していたものでした。私はそれを、すこし余人に聞かせ辛い方法で入手し、最近まで秘密の隠し場所で保管していたのです。いつか必要になる時のために」


「必要な、時とは?」

「その隠し場所にはほかにもいろいろなものをしまい込んでいましてね、この度はそれらを大盤振る舞いすることに致しましたよ。例えば、夜陰に乗じて市壁を乗り越えて館の中へ潜入できるホーの戦士たちを雇うための金子とか」


「な、なん……」


 その時、ラン王は驚愕した。口が利かなくなっているのだ。顎と舌が自由に動かず、ぱくぱくと口を開くことしかできない。ユアンはそれを見ながら、全く表情を変えずに話し続ける。


「大事なのはオークの酋長たちを一挙に嵌め落とすための手段を探すことでした。その為に私はレムレスカの貴族を脅迫し、口を割らすために彼の身体を八つ裂きにして殺し、得られた情報を元にある人物を探しました。王は魔術人という連中をご存知ですね?オーク諸族がレムレスカ帝国と接触するようになってから表に出てきた、古代の住人達。本当かどうかは知らないが、彼らが使う呪いは本物だ。強靭なオークと互角に戦えるように帝国を強化できるほどね」


「う……あ……」


 視界が歪み、像がぼやけていく。その感覚を不動の姿勢で受け入れざるを得ない状態にラン王は恐怖していたが、それ以上に目の前の矮小なオークが何を語ろうとしているのかが読めないことに、なお一層の恐怖を感じ始めていることに気付いた。


 それは王としてあるまじき過ちだった。人の性質を読み間違えるという、決定的な失敗だ。

 ユアンはちらっと脇に視線を逸らした。そこには事態の推移を困惑した表情で見守っている部屋付き奴隷がいた。


「うああっ……!」


 逃げろ、と言ったつもりだったが、もう遅かった。

 ユアンの身体が蛇のように静かに、しかし鋭く動いた。目にもとまらぬ動きで腰から刀が抜かれると一瞬で奴隷の胸を貫く。奴隷は悲鳴を上げることもできずに、その場に頽れた。


「これから起きることを思えば、些細な事ですゆえ、お気になさらずに、王よ」


 血を拭って鞘に納めながら、ユアンはラン王に近づいてくる。得体のしれない怪物にも似た何かが自分をどうするか、考えなくともわかるだろう。


「私はある魔術人の協力を得ることに成功しました。とは言っても、レムレスカ帝国の意図ではありません。すべて私の野心のためだ。今頃館内に入り込んだホーの戦士たちによって、今の貴方の様に体を硬直させたオークの酋長たちが処分されていることでしょう。皆自分を追放した憎き長達に復讐が出来ると喜んでいたよ」


 語りかけながらユアンはラン王の背後に回り、腰かけに手を置いた。振り向くこともできないラン王は何もない壁を凝視する。


 激痛。眼球だけを必死に動かして、自分の右胸から刀身が突き出ていることに気付いた。


「私はお前の、生まれついての王者としての気風を、心底憎んでいたよ」


 囁きかけられながら刀が引き抜かれ、再びの激痛が走る。左わき腹から二度目の刺突が入った。分厚い筋肉と脂肪を貫いた刃が内臓を切り刻むべく捻じり込まれ、喉奥から込み上げてくるものが口から溢れた。


「お前のその、弱い立場の者の苦しみを理解してやろうという意識の下にある、強者の余裕、豊かさが、どれほど私を傷つけていたか分かるまい。だから私はお前たちを、シーの王家の全てを頂戴する」


 内臓から多量の出血が起こっているために、ラン王の腹は服の下で赤黒く膨張していた。食いしばった口元からとめどなく鮮血が溢れ胸元へ垂れていく。ユアンの刀は外科医が振るう手術刀のごとく繊細に振るわれた。外傷は最小限に見える。だがその皮一枚下の内臓器官は既に治癒不能なほどに傷つけられていた。


 だが、出血によって体内の毒素の密度が下がったためだろう、ラン王の唇の強張りが緩む。内側から押し出てくる血を吐き飛ばしながら、彼は背後に立つ裏切り者に叫ぶ。


「身体のみならず、魂魄さえも卑小な男であったか!不覚!」

「黙れ」


 三度目の刺突により、遂に腹が割けた。王の口から苦しみの呻きが漏れたことにユアンは確かな愉悦を味わい、笑った。


「さて、王よ。そろそろ現世との別れの時が近づいてきたようだぞ。王の魂は必ずや勇者の館へたどり着けるでしょう。もちろん、ホンも」


 娘の名を聞かされた父親は最後の絶望へ叩き落された。これから迫る死の恐怖を圧倒し、大切な者がこの地平から永久にいなくなる喪失の苦しみが襲った。


「む、娘を、どうする、つもりだ……」

「あの男勝りの姫騎士どのには死ぬより苦しい呪いをかけて差し上げるつもりだよ。安心したまえ、直ぐには殺さん。さぁ覚悟されよ、ラン・バオ・シー。ホーの男に情けを掛けたばかりに、すべてを失った哀れな男よ!」


 心臓の中心を正確に狙った最期の刺突が見舞われた。体の中心に咲いた鋼の華は鮮血の花弁で彩られている。オークの王は目を見開き、何事かを叫ぼうとした。だがそれは言葉にならず、宙へ消えた。大量の出血が服を伝って床へ流れて溜まった。強靭なる生命の塊は形を失い、流血と共に永遠に失われるのだった。


 ユアンは荘厳な気持ちを持ってラン王の屍を見た。己が歩むべき道への第一歩が、生まれて初めて歩みだされたような感動があった。これはそのために天へ捧げられた供物だった。


 

 ホンの部屋へインファが帰ってきたのは、既にホンは自分の食事を終えて武具の整備をしていた頃だった。


「ただいま戻りました。お召し物が汚れますよ」

「貴女が居ないと手持無沙汰なのよ。宿題も出来たしね」

「へぇ。それではお見せしてもらいましょうか」


 そう言われたホンは机の上に置いてあったロウ板を手渡す。ロウ板には金釘流な癖のある字体ではあるが、結構の整った帝国語の文章が綴られていた。


 それは授業の行えないインファがホンへ与えたものだった。帝国淑女なら誰でも受け取るだろう、異性からの恋文を抒情たっぷりに返事する文だ。時と場所を図った文章に、その時の心境を象った三行詩を書けなければ帝国の社交界では笑われてしまうという。


 ホンがどれくらい帝国の社会知識と文章技術が身についているかを試すために、インファは架空の貴公子に扮して手紙を書いた。ホンはそれを読み、読み書きの例文集や戯曲集、哲学の対話篇などを参考にしながら返事を書き、夜に戻ってくるインファがそれを添削するのだ。


 インファは渡された手紙文を読みながら鉄筆を持って文章の脇に線や点を付けていく。


「『今の私の心は神殿に捧げられた剣にも似て』というのは少し武骨すぎますね。『捧げられた花にも』の方が柔らかで、貴婦人らしいですよ」


「でもこの貴公子は、昨日は宝石の填まった短剣を添えて私に手紙を送ったのでしょう?ならそれに当てて剣の例えでもいいじゃない」


「あと三行詩の三行目の『我を貫きて』という語句は同衾を仄めかす言い回しになるんですけど、貴女はこの貴公子とそういう仲になるのを望んでいるんですか?」


「全然。だってこの貴公子は皇帝に恨まれて閑職に回された役人で、私は父親が病没して残された遺産の屋敷に暮らしているんでしょう?ということはこの貴公子は私じゃなくて私の持っている屋敷が欲しいから恋文を出している。そんな男に優しくされて、父親の贈り物を渡すような真似は出来ないわ」


 当然と言った口ぶりでホンは答えると、それまで磨いていた手斧を軽く振った。


「お嬢様、採点いたしますと全体の構成は及第点ですが、細かい部分に粗がございますね。本当にこのような手紙を送りあっていたら、いつまでたっても相手の文が途切れなくなりますよ」


「そうなの?」

「帝国社交における手紙の送り合いというのは、形式と結構のぶつけ合いです。相手の文章上の不備を付いて返書すればそれだけ自分の要求を飲ませやすくなるということです。お嬢様はこの貴公子に何を求めていますか」


「そりゃあ、早く自分のことは諦めて、どこか別の人に目を移して欲しいってところかしら」

「それでは弱いですね。むしろ相手に金品を要求するくらいでないといけません。かつ、優雅な貴婦人としての体裁を文章に添えるべきですね。この場合は……」


 と、インファはホンの文章に適切と思われる文章を挿入し始める。歓待の準備で忙しい中でもインファは授業を忘れないでいてくれることに、ホンはその真剣な表情を見ていて感じ取れた。


 そのことが顔に出ていたのかもしれない、インファの視線がロウ板からこちらへ移っていた。


「なんでしょう。私をじろじろ見て」

「ふふ、別に。いつもありがとう、インファ」

「これくらいどうということもありません。それに礼を仰るなら、昼のうちに泥だらけになるほど暴れないで下さい。洗濯の手間が増えます」


「仕方ないじゃない。象で遠乗りをしたくても私の象はまだ休ませている最中だし。館の中で運動くらいさせてよ」


「そう言いますが、昼の立ち合いで足を取られた時点で負けたくないばかりに、雨上がりの泥濘に飛びつけるくらいなら、いっそ従士たちが倒れるまで連続組手でもなさってたら良かったでしょう」


「百人の従士に対して、私一人で?」

「お嬢様はお強いのでそれくらいで十分です」


 つんとインファが言いすました。そんなことを言われてはホンだって少しは言い返したくなる。


「だったら今度から貴女も訓練に付き合わせようかしら。貴女だって強いじゃない、あの乱戦の中で私の背後に付けたくらいだもの」


「パンクラチオンは戦場で使うものではございません」


 モグイ族は流浪し、流れ着いた先でどのような仕事でも受けられるように、様々な技術を身に着けている。その中でも特に、自衛のために身に着けられた戦闘技術がパンクラチオンと呼ばれる。インファはモグイ族の中でもおそらく有数の技前を持つパンクラチオンの使い手だろう。


 インファは添削が済んだロウ板をホンへ返すと、支度部屋へ戻った。ホンはロウ板を持って机に付き、山羊皮の紙に写し始める。今日は随分と静かな夜だった。ここしばらくの間、夜でも宴会場が賑やかなのが離れたこの部屋からでも遠く聞こえていたというのに、今夜は大人しい。まさか昼間にした自分の提案が何か劇的な効果を上げているから、などとも思えなかった。


 灯りの下で紙面に走る筆の音だけが心地よく室内を満たしている。ホンの太く短い指が握る羽筆が懸命に細やかな線を結んで字を作っている。オークの手先では実用に耐える文字を書くのは技術のいる話で、書字の用が要るオークは常に、手元に専用の奴隷を持っている。ホンのように自分で書き物が出来るオークは例外的だった。これもインファから習ったものである。


 山羊皮に字を写し、ロウ板の字を消していた時、支度部屋の戸口が叩かれた。


「お嬢様、ユアン様が参っております」

「入っていただいていいわ」


 手燭を持ったインファに連れられて入ってきたユアンは、机に付いたまま出迎えたホンへ礼を示した。


「夜分遅くに女性の部屋を尋ねる無礼を許してくれてありがとう、ホン」

「そのようなお気遣いをなさらなくてもよいのですよ、伯父様は家族なのですから」

「そうかい。実は宴会場の空気に中てられて呑みすぎてしまってね、少しここで休ませてもらえるといいのだが」


「ええどうぞ。伯父様はお身体が強くはないのですから、呑みすぎはいけませんわ」

「いやまったく。自分を顧みない行いはするもんじゃないね、ははは」


 来客用の椅子に腰を下ろしたユアンは深く息を吐くと、ホンの部屋を見渡した。その眼はベッドの脇に立てかけられた手斧に一瞬止まったが、直ぐに目を反らして机の上に置かれたロウ板に注がれた。


「書き物の途中だったのかい。申し訳ないね」

「いいえ、もう終わったところですから」

「そうか。いや、文武の両道に通じている君がいればお父上も心強かろうな、先ほど仰っていたよ、例の術策が成功しそうだとね」


「それは結構なことで」

「誠に誠に。だが君は余り嬉しそうではないな」

「親族方に与えた領地が帝国を刺激することは間違いないですから。親族方だけで対処できなくなれば、庇護に置いている王家が出張って守らねばなりますまい。そうなると、軍を率いるのは私です」


「だがそれこそラン王の願うところだ。親族方の勢力を弱め、シー王国という形に依存させることで自らの権力を大きくする。もっとも、帝国といっても北にばかり目を向けてはいられまいし、今日明日に事が起こるわけでもない。そう気負うこともあるまいさ」


「伯父様は帝国の事情にお詳しく存じますね」

「この体では、オークよりむしろ人間たちの中に混ざる方が簡単なのさ」


 皮肉げに言ったユアンのやるせない表情に、ホンは罪を感じた。


「すみません、要らぬことを言った気がします」

「ははは、気にするなホン。帝国に興味があるのは私も同じさ。君と同じくね」

「なんのことでしょう」

「ロウ板の上に薄っすら残っているのがオークルーンでなく帝国語だからさ」


 ホンの胸で心臓が飛び上がるほど高鳴った。顔にも出ていたに違いなく、傍のインファが眉を潜めてホンを見ていた。


「君は密かに帝国について調べ、学んでいると見た」

「口外なさらないでいただけるとありがたいのですが。皆に笑われます」

「分かっておるよ。それに実のところ、私には丁度良かった」

「は?」

「いや、いつも迎えてくれたシー王家の方々へ何か贈り物をしたかったのだが、オークらしいものが手に入らなくてね、仕方なく、帝国より手に入れた品が手元にあるんだ。不快でなければ受け取ってくれるといいのだが……」


 帝国の品! その響きがホンの動揺を別の方向へ誘導する。ホンは心の揺さぶりを顔から出さぬように意識した。氏族の礼儀に基づき、相手から戴かなくては。


「伯父様から贈り物を戴けるなんて、とても嬉しいことですわ。謹んで頂戴しとうございます」

「そうかそうか! 受け取ってくれるか。ではでは暫く待ってくれ、部屋より取ってこよう」


 ユアンは顔を綻ばせながら一旦部屋を辞した。インファとホンは足音が遠ざかるのを確認して胸をなでおろした。


「さほど気になされなかったようで命拾いしましたね」

「本当にね。まさか隣の部屋に帝国の品々が詰まってるなんて思ってもいないでしょうね」

「精々若者の奇特な趣味、程度と思っているでしょうね。まさか重度の帝国趣味耽溺者だとは露とも知らずに。いやはや無知とは怖いものですねお嬢様」


「人を薬物中毒者か何かみたいに言うのやめてくれない?」

「とんでもございません。主の秘匿が甘かったために、自分へ類が及ぶのではないかなどと気にしていただけです」


「ぐっ」


 主が奇行に走っていたら、それを上位の者に報告する義務が世話係にはあるわけで、そのような話にならなかっただけ幸いだったと言いたいわけだ。おのれの不手際だけにホンはインファに言い訳が出来ない。


「ま、なんにしても帝国の品を頂けるのはお嬢様にとって喜ばしいことでしょう」

「そうね! いったい何を頂けるのかしら、楽しみだなぁ。ユアン伯父様はなかなか風流なところがあるし、期待してもよさそうね。きっとあの物腰は帝国で身に着けられたんだわ」


 稚い童のような顔を浮かべてはしゃぐホンを見ながら、インファはユアンが帰ってくるまでに軽い応対の準備をせねばならないと動き始めた。その時、ユアンの座っていた椅子をずらそうと手にかけた時に、そこから僅かだが血の香りが漂っていることに気付く。はて、ユアン様はどこかお怪我をしているようには見てなかったけど……。


 程なくユアンは再びホンの部屋へやってきた。片手には白木で作られた箱を携えていて、ふるまいはまるで親に見つからずに悪戯をしようという子供のようだ。


「人に見つからぬようこっそり来なくてはな。さ、開けてみてくれ」

「拝見します」


 机に置かれた木箱を開くと、中には金属質で出来た球状の道具が収められていた。底に獣を模した四つの足がついていて、上面の蓋を外すと眩しいほど白くて細やかな灰が敷かれていた。


「これは……香炉ですね。レムレスカ帝国では様々な用途に使われていると聞きます」


 ホンは興味本位の視線で首を巡らせて、受け取った香炉をしげしげと観察した。炉の表面にも浮彫で様々な動物が描かれているのだ。


「素敵な贈り物、ありがとうございます伯父様」

「いや、なんの。喜んでもらえてなによりだ。どうだね、一つ火を入れてみては」

「しかし、香炉には香りを出す香木が要るのでしょう」


 そうだ、南国から持ち込まれたという珍奇な香木があると先日習ったのをホンは思い出した。


「実はその香炉の灰は香木を燃やしてできた物なのさ。だから火を入れれば僅かだが香りが立つ」

「まあ。そうなのですか。インファ、火を頂戴。嗅いでみたいわ」


 インファは頷き、一旦片づけた手燭を再び持ってくると、冬場の暖を取るために使っている炭の欠片に火をつけて香炉の中へ入れた。閉じられた香炉の蓋に開けられた小さな穴から細い煙が伸びてくねくねと絡みながら部屋を満たし始めると、なるほど、ホンの鼻孔に嗅いだことのない不思議な香りが漂ってきた。


「良い香りですね……」

「そう思うかい?」

「ええ。何やら甘くて、コクのある香りですね。ほんの少し、獣脂を焼くような匂いに似ている気がします」


 思わずホンは満たされた香りを胸いっぱいに吸った。こんな香りに包まれて帝国の教養人や貴婦人たちは暮らしているのかと想像をたくましくする。次第にホンは自分が宿題の手紙を受け取った貴婦人の気分になった。絢爛に建てられた都の端に立つ、小振りだが優美な館に、少数の召使奴隷と共に暮らす自分のイメージを掌で玩ぶ。憂鬱な心持ちで、手元に預けられた浮ついた貴公子の恋文を見ながら、どうやって追い返そうか、何を頂戴しようかと悩む姿を妄想した。


 その姿はまどろみ始めた牛のようにだらしなくなってきていたので、壁際に控えていたインファは声を

挙げようとして、己の体に起きた異変に気付いた。目や耳は活きているのに、手足がまるで石でできているかのように動かなくなっているのだ。


 部屋を満たす香炉の煙の中で、ただ一つ動き出すものがあった。来客椅子から立ち上がったユアンは、楽し気に顔を崩しているホンを見上げて言った。


「ふん。よくぞそこまでだらしない顔が出来るものだ。それほどにこの香りが堪らなかったかい、ホンよ。残念だがお楽しみの時間は終わりだ。お前にはもう一つ、私から贈り物がある。入れ、魔女よ」


 インファの傍らで戸口が勝手に開く。地面に這いつくばるようにして入ってきたローブ姿の影が見えた。


「流石の手際だ。貴様の作った呪いで館内のオークたちは全て無力化されたぞ。ここにいるホン・バオ・シーが最後だ。最も、警戒されないために私も毒を浴びねばならなかったがな」


「おぬしには呪い消しの水をたっぷりと振りかけておいたゆえ、如何なる私の呪いにもかからぬだろう」

「ふむ。ではこれより仕掛ける別の呪いはどう掛ける?毒香の呪いを解いた瞬間にこの女オークは私を絞め殺すかもしれないんだぞ?」


「わしが直接触れて呪いを掛けるとしよう。直は早い。解呪と同時に新たな呪いが掛かる」


 呪い? ということはこのローブの人物は魔術人だ。しかも他のオークは毒で無力化? インファには今どういう事態が起こっているのかわからなかった。分かるのは、主ホン・バオ・シーに危機が迫っていることだ。


 守らねば。ホンを守らねばならない。その為には、パンクラチオンを使わねばならない。パンクラチオンには呼吸によって体内の力を活性化させる技がある。インファは呼吸した。毒の混じった空気を吸い、体の中に入ってきた毒と共に吐いた。


「で、この女オークにお前は何の呪いを掛けて欲しいんだい」

「こいつが最も喜ぶだろう呪いをくれてやるのさ……」


 インファに背を向けているユアンと魔術人は声を潜めて会話している。だらしなく細めたまま硬直しているホンの目の奥が、困惑と幻滅に潤んでいる気がインファにはした。ともあれ、呼吸だ。インファは呼吸する。体の毒が抜けて清澄な空気を取り込むにつれ、不自然に強張っていた手足の筋肉に感覚が戻りつつあった。


 魔術人はユアンと密談を済ませると、懐から短剣を抜き、フードの下に差し込んだ。ユアンの位置からはそれが何をしているのかが分かる。初めてあった時、蝙蝠を鳥に変えて見せた時のように、呪具である刃に己の体液を塗りつけているのだ。


 魔術人は刃を掲げ、椅子の上に斜に座っているホンへ近寄った。巨大な膝の上に這い上り、肉置き豊かな胸に手を置いて、ぬらぬらと怪しく雫の滴る白刃を首筋に押し付けるべく手を伸ばす。


 早く、早く動き出さねば。インファは足の裏で床を握り、手のひらで宙を掴んだ。あと少しで完全に毒が抜ける。呼吸せよ。


 魔術人の動きを見守っていたユアンが、動くはずがないと思っていた世話係のモグイ族から不審な気配が発せられていると気付いて振り向いた。その視線がインファとかちあった。魔術人はホンのドレスの襟首を引っ張り、鎖骨の上にある太い動脈の上へ狙いを定め、名状しがたい呪いを成就させる詞を口ずさみ精神を高める。


 インファの四肢が爆発的に躍動してホンの膝上の魔術人へ飛び掛かった。だが同時にユアンは抜刀してこれを妨害するべく切りかかる。横から体当たりざまに浴びせられた一太刀がインファのわき腹を切り裂いた。


 インファが来客椅子の傍に置かれたテーブルをなぎ倒しながら床に崩れ、膝上の魔術人の短剣がホンの首筋に一線の傷を与えた。


 突如、身を強張らせる呪香から解放されたホンは絶叫を挙げてのたうち回った。膝にいた魔術人は卑しげな笑い声をあげて飛びのいた。


「ひひひ、やってやったぞ。貴様に私の呪いを直にくれてやったわ!直は素早いぞ、すぐに効果が現れる」


「お、お嬢様!」


 立ち上がり床を転げまわるホンへ駆け寄ろうとしたインファをユアンがけん制する。


「おっとそれ以上近づくなよ、モグイの世話係。まさか自力で呪香を脱出するとはな。モグイの芸とは侮れん」


「ユアン様、これはどういうことですか!」


「なんだ、聴いていなかったのか? このユアン・ホーはシー王国の要であるオークの酋長たちを退けて、彼らが築き上げてきたものをすべて頂戴する、ということさ」


 怒りに燃えて立ち上がったインファだがわき腹に食らった斬撃が体の自由を奪う。尋常なオークでは身に着けない巧みな剣技だった。むしろモグイの技に近いと感じる。


 その間もホンは苦しみの声をあげながら床をのたうっていた。つけられた傷は取るに足らないものだったはずなのに、身体が自由になった瞬間、ホンの全身から痛みが発せられたのだ。骨が砕け、血液が沸騰した。肉が解け、神経が裂かれた。内臓は寄生虫が這いまわっているかのように苦しいし、頭は思考がまとまらない。痛みに耐えるためには叫び続けるしかなかったが、体力の続く限り叫んでも、苦しみは治まらなかった。


 やがて叫び続けるだけの体力さえ失い始めたホンは、床の上にぐったりと仰向けに横たわった。全身が熱くなり、伝染性の熱病を患っている気分だった。


「伯父、様、な、なぜこんな……」


 絶望がホンの心を挫く。ユアンは彼女を見下ろす。


「いっそお前が知恵足らずの馬鹿女であればこんな手間をかけることもなかったんだがな。自分の才覚を恨め。オークの酋長の子として産まれた事を呪え。そうして初めて私はお前を姪御として愛せるだろう。それまでお前が生きていられるとは思えないがね」


「うう……ゆ、あ、ん……」

「んん?」


 呻くようにしてしか、もはやしゃべれないホンへ屈み込んだユアンを、震える腕が伸びて掴んだ。


「か、な、ら、ず、こ、ろ、す……」

「……ははは、ははは、ははははは! 殺すだと! お前にそんな機会は絶対に訪れない! 絶対にだ! お前は私と同じ、無力で卑小な存在に蹴落とされるんだからな!」


 ユアンは自分を掴む腕を蹴り飛ばす。その痛みが後押ししたのか、ホンは白目を剥いて意識を失った。意識が途絶えたまま体を壊して回る呪いの激痛がどこまでもホンを追い詰め続けた。意識の手綱を失ったホンの身体は脈打っていた。ドレスの下の肉がぼこぼこと沫だって膨れ、かと思えばしぼみ始めた。その様をユアンは見世物を見るような目で楽しんでいた。


 ユアンと魔術人の目がインファから離れた。その隙をインファは見逃さなかった。かといって、たった一人で逃げることなど考えもしなかった。


 インファは二人の目を盗んだ瞬間、壁掛けのランプを外して床に叩きつけた。その音で二人は振り返ったが、そこに映ったのは床に広がった油に燃える炎を背に立つインファの、尋常ならざる姿だった。


「ふん。死にぞこないが。先に死んでラン・バオ・シーに詫びてくるといい」


 刀を構えて接近するユアンに対し、インファは跳躍した。傷の痛みは無視し、壁を蹴ると、床に落とした以外の壁ランプめがけて飛んだ。


「何?」


 呆気にとられたユアンを飛び越えて、インファは室内に置かれた壁掛けのランプをかたっぱしから床に叩きつけた。既に燃え始めた室内の火は調度品に燃え移り囂々と音を立てて燃え始めた。


「やめんかこの根無し草が! 館が燃えてしまう!」


 猿めいて宙を跳ねるインファへユアンの斬撃が迫った。インファはそれを紙一重で躱し、床に倒れている主の下へ着地した。


 間近でホンの姿をみたインファは仰天した。あの血肉みなぎり、オークとしての健康そのものだったホンの身体が、服の下で萎び小さくなっていた。それも病気でやせた、といったものではない、物理的に小さくなっているのだ。東方の美を思わせた濃い緑色の肌も血色を失い、枯れ木の様に淡い色に変色している。


「お嬢様! お嬢様! お気を、お気をしっかりお持ちくださいませ!」


 そのあまりの変貌にインファの意識が向けられている間に、室内の火は壁を伝い天井へ達し始める。ユアンは決断する。


「おい、魔女。脱出するぞ。そしてこの部屋に呪いを掛けろ」

「なんの呪いだね」

「封印だ。この二人を焼き殺す。ちと計画が変わるが、大差ない」

「あい、あい……」


 了解した魔術人が再び短剣を取り出して準備をする中、ユアンは先に部屋を出た。振り向きざまに、煙と炎の先に倒れ伏すホンだったものと、そこに屈み込むインファの姿を見た。


「主従仲良く冥府の館へ送ってやる。ありがたく受け取れ……」

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