第3話 姫武将のホンネ


 自由都市サヴォークを襲ったシー王国南伐軍は三日三晩に渡って略奪の限りを尽くした。既に早馬が飛ばされていたために人や物の多くは都市から持ち出された後ではあったが、急な避難指示に組織だった逃亡が出来たわけでもなく、低い市壁に囲まれた都市の外れで逃げそびれた人間たちは、血に飢えたオークたちにとって恰好の獲物だった。


 また金品はともかく、嵩張る布地や金属製品を作るための地金といった産業原材料のようなものはよほど貴重なもの以外はほとんどすべてが手つかずで残されていた。


 オークたちは市内の建物は手当たり次第に暴き、価値あるものを奪っていった。末端の兵士に許された略奪は身に着けて持ち運べるものに限られていたが、それでも兵士たちの多くは満足だった。

 

 略奪が許された三日が過ぎ、隊伍を組み直したオーク軍団は、末端の兵士から小部隊の隊長格まで、皆体には色鮮やかな布地を巻き付け、頭には錫や鉛で作られた杯、脱いだ兜には零れるほどの貨幣が詰まっていた。


 ホンは部下たちが略奪に夢中になっていた間に、市内に残されていた荷車を確保し、そこに象騎兵隊の手で市内から集められた金属の地金や反物、貴人の邸宅に置かれていた石像などの美術品を積み上げた。南伐軍は最低限の守備兵を残すと、開通したアメンブルク街道を通ってシー王国の都アメンブルクへと帰還した。


 血と泥に塗れ、勝利と略奪に身を任せるオーク戦士の誉れに満ちた戦争に獣じみた顔を愉悦に歪ませた者らが北へと列をなして行くなかで、彼らを束ね掌握しているホン・バオ・シーの顔だけが妙に曇っていた。その眼は自分のすぐ近くを運ばれている荷車へ向けられていた。


 しかもその目くばせは、戦場で見せた勲とはてんでかけ離れた、そわそわとした落ち着きのない素振りで、近くにいたユンムは咳払いをわざとらしくしながらたしなめる始末だった。


「殿下、帰路とはいえ軍務中ですゆえ、気を散らさぬよう」


「う、んむ。済まない……」


 一度はそう言ってぐっと目を前方へ向けて顔を引き締めるのだが、しばらくするとまたうつむくようにちら、ちらと荷車を見てしまう。


 ユンムはこのような姿を下々の兵士に見られはしないかと気が気でなかったが、象騎兵の背にいるホンの顔は徒歩の兵士たちからは見えることはなかった。


 そして実際の所、ホンは隊伍の監督という定められた任務は既に終わったものと考えていた。あとは敵もいない道を通って帰るだけで、その間の規律維持くらいユンムに任せてしまっても問題なかった。


 だから、関心は荷車に向けられていた。正確には、荷車の一つにこっそり潜ませた、ごくごく個人的な嗜好品について、緊張から解放された緩み切った脳内でもてあそんで楽しんでいたのだ。


 ホン・バオ・シーはシー・オーク族の酋長一族の娘として、何不自由ない暮らしを送ってきた。オーク族の風習である女でも戦場に立てるよう戦闘訓練を施されてはいたが、平時であれば荒織りの絹で作られたドレスで着飾り、いずれは有力な氏族の男を夫として迎えるだろう、という立場だった。


 だが周囲の男たちにとって唯一の誤算は、ホンが卓越した戦士、将軍としての才能を有していることだった。剣、槍、棍棒、徒手空拳、騎乗、あらゆる戦闘でホンは周囲の男たちに勝ってしまったのだ。


 戯れに行われた石合戦で、父親の従士たちを奴隷を率いたホンが完膚なきまでに叩きのめしてしまった頃には、父親が一族を粛正して王を名乗ったこともあって釣り合う男子が周囲から居なくなってしまった。


 結局ホンは本拠を置くアメンブルクで施政を執る父ラン・バオ・シーに代わり出征する軍隊を指揮する騎士として世に出ることになった。結果はご覧のとおりである。


 今でははるか南にあるレムレスカ帝国本土でも『北部属州を侵すオークの国で先陣を切る、蛮族の女騎士』として名前が知られているほどだ。優秀な娘を持ったといって、父は常々娘を誉めそやしたが、ホンは内心極めて複雑な心境を抱いていたのだ。


 何故なら、彼女自身にはレムレスカ帝国を害する意志が全くなかった。それどころか帝国の育んだ優雅で繊細な学芸や文化へ強い憧れさえ抱いていたのだ。


 だが、ホンは人前では……少なくとも、兵士たちや将校たちの前、それどころか父親の前でさえ、そのような素振りはちらとも見せなかった。オークにとって帝国の人間たちの習俗は軟弱なものであり、身に近づけることを忌避する風潮があったからだ。


 男勝りの女丈夫と思われている自分がそんな趣味の持ち主を知られたらどうだろう。きっとみんな私を蔑むだろうし、野心果たして国王となった父の顔に泥を塗ることになる。


 そう思ったものの、好きなものは好きなのだからしようがないと、ホンはことあるごとにこっそりと、帝国の珍重な芸術品や書籍を収集するようになった。


 例えば今回の様に、出征した先の帝国領内での略奪品の中に、明らかにオークからすれば無用であるだろう、詩編や戯曲集などの巻物や、貴婦人のために仕立てられた帝国様式のドレスを密かに紛れ込ませ、後に国庫へ納めるときに回収するのである。


 こうして集められたホンの「レムレスカ帝国コレクション」で飾られた部屋に籠ることが、今や唯一の愉しみとなっていた。


(ああ、早く屋敷に帰って引き籠りたいが、戦勝の宴会にも顔を出さねばならないし、憂鬱になってくる)


 兜の下に隠れて誰にも見えないホンの表情は沈んでいた。だがそれが周囲から戦働きに浮かれる兵士たちを睥睨している厳ついまなざしと受け取られているのを知って、さらに憂鬱になるのだった。

 


 アメンブルク街道はかつてレムレスカ帝国領最北部の都市であったアメンブルクから自由都市サヴォークを経て、北部属州最南端の都市で帝国本土と連絡する直轄都市ディヴォンへと繋がる。北部属州を縦断する街道だった。


 シー王国の南伐軍がサヴォークを占領したことで北部属州の北半分が、実質的にオークの支配下に落ちたことになる。南伐軍はアメンブルク街道を行き、シー王国の首都となってまだ四半世紀にもならないアメンブルク市へ凱旋した。


 凱旋といっても、華々しい凱旋式をするわけではない。ただ整然と市壁の門をくぐり、市内に開かれた広場で国王ラン・バオ・シーによる解散命令を受け取るのだ。既に伝令が先んじて送られており、広場では従士に守られたラン王が演台の上に立って兵士たちを待ち受けている。市内に暮らす自由民のオークたちは、出征した自分の縁者たちが無事帰還するのを期待して広場の端にたむろしている。


 開かれた門扉から地面を蹴る軍靴の足音が聞こえてくると、待ち受けていた者たちの視線がそちらへ吸い寄せられた。そこに略奪品で体を着飾った荒々しい顔立ちの兵士たちが続々と現れ、広場を埋め尽くす。


 最後に、たった一人象の背中に乗って市内に入ったホンが、左右に分かれた兵士たちの間を通り、ラン王の前に現れる。重厚な法螺貝が従士たちによって吹き鳴らされたのを合図にして象から降りたホンが首を垂れ、頭上の王へ言った。


「偉大なるシー・オーク族の王にしてオーク諸族第一の者であるラン・バオ・シー陛下へ、ラン・バオ・シーとピン・ウーの娘ホン・バオ・シーが申し上げる」


「よしなに申せ」


「陛下の名において結成された南伐軍は、陛下の御意に従い、アメンブルク街道を進み、レムレスカ帝国軍団を破り、かの自由都市サヴォークを手中にしたことを報告し、これを陛下へ献上いたします」


「うむ。戦士諸君、我、ラン・バオ・シーは諸君らがシー・オーク族へもたらし、勝ち得たものを謹んで頂こう」


「陛下万歳!」「ラン王万歳!」「シー王国万歳!」


 兵士たちが槍を掲げてラン王を称賛した。


「我は諸君ら戦士たちの力を欲している。豊かな大地と実りをシー・オークの民にもたらすために。その為にも今は休み、新たな戦いへ鋭気を養うがよかろう。よって我ラン・バオ・シーは、我の名によって結成された汝ら南伐軍の解散を宣言する」


 力強くラン王が言い放つと、控えた従士たちが再び法螺貝を吹き鳴らした。大小さまざまな法螺貝の多重奏が広場を満たすと、市民から喝采が上がった。と同時に従士の後ろで待機していた黒子奴隷が進み出て道に花びらを撒き、無事戦から帰ってきた戦士たちを祝福して回っていった。


 そのようなささやかな儀式の後、戦士たちは従軍の証である槍を館の武器庫へ返し、各々の家路についた。それらを監督し、無事国庫へ武器が返納されるのを確認するのが指揮官の最後の務めで、ホンが解放されたのは日が暮れ始めた頃だった。市内に入ってきたのが正午になるかならないかだったから、それまでずっと一人、鎧武者の姿で武張っていなければならなかったのだ。


 館の武器庫へ錠を降ろし、鍵を傍仕えの従士に預けてから、やっとホンは自室へ向かった。オークの巨躯に合わせて建てられた館は、人間からすれば大宮殿かと見まがうほど広大だ。最も、よく見れば柱や壁の作りは質素なもので、装飾もあまり見当たらない。本来オークは華美を好まないものなのだ。


 ホンに充てられた部屋は三つあり、それらはすべて扉続きになっていた。まず通路へ直接繋がる支度部屋に入ったホンは、身に着けていた鎧を外して鎧掛けにかけ、下に身に着けていた毛織りの鎧下も脱ぎ、軽い部屋着に着替えようと重ねられた衣装箱を開け始めた。その動きは疲労から緩慢で、完全に油断しきっていた。


 だが瞬間、ホンが背後を振り向くと、そこには一人の娘が恭しく頭を下げて彼女を出迎えていた。


「おかえりなさいませホンお嬢様。お召し物の支度をさせて頂きます」


「ただいまインファ。主人が帰ってきたんだから一声掛けるべきではななくて?」


「大変お疲れだったご様子なのでお声がけが遅れました。申し訳ありません」


「いいわ。着替えさせて頂戴」


 ホンが砕けた女言葉で伝えると、インファと呼ばれた娘は手早く衣装箱から部屋着である亜麻織のドレスを取り出し、ホンを踏み台の前に立たせた。


「留守中の間、大事なかったわね?」


「お嬢様のお部屋に近寄る方はおりませんでした」


「それは良かったわ。そうそう、後で荷車から今回の収穫品を回収しておいて。巻物と衣服、あと小像がいくつか混ぜてあるから」


「かしこまりました。はい、出来ましたよ」


 相槌を打ちながらインファの手は休みなく動き、ホンが体を通したドレスの紐を結び、汗と埃で汚れた黒髪を拭いて櫛を入れていた。大分身軽になったホンは支度部屋から次の間に飛び込む。


 支度部屋に続いているのが所謂私室であり、寝室と書斎を兼ねた作りになっていた。大きな寝台が鳥の羽のしっかり詰められてこんもりと膨らんでいるのを見て、ホンはむらむらと身を投げ出したい欲求に駆られると、ひょいっと身を躍らせて寝台に入り込んだ。


「はぁ~……」


 柔らかな寝台の感触が張りつめていた諸々の感覚を癒してくれるのを感じ、実にだらしない身振りで寝そべりながら、ホンはぼんやりと戦場のやり取りに思いを馳せた。


 きっとこの後父上は臣下を集めて占領した地域の分配と統治の方法を決める評定を行うだろう。そこで私は南伐軍を率いた立場として進言をしなくてはならない。


 有力な従士たちはここぞとばかりに自分たちを代官に任命するようしゃしゃり出てくるだろうし、親族たちも利権の分け前を欲しがる。どちらも象騎兵隊に代表される王国親衛の軍事力を賄う大切な集団だから配慮をせねばならないが、一方でラン王の権力をなめられないために引き締めるところでもあるわけで……。


(ああ、面倒くさい)


 疲労で重くなってきたホンの思考力は詳細な事柄を考えることをやめた。だというのに体の方は疲れすぎているのか眠りに落ちることを拒んでいて、無駄に目が冴えて閉まっている。


 少なくとも今日明日中にどうこうすることにはなるまい、とホンは決めつけ、のっそりと寝台から起き上がった。飾りっ気のない文机の隅にかけられた鍵束を取って、封印された続き部屋の錠を開いた。


 私室でもっとも奥にあるその部屋は灯り取の天窓がなく、そのため日の暮れた今は真っ暗だ。壁際の角灯へ火を移して回るうちに、部屋全体が明るく照らし出された。


 そここそ、ホンにとっての宝の部屋、集めに集めたレムレスカ帝国の文物の保存庫だ。壁に作りつけた書棚には様々な書簡が収めてあるし、机にはいくつかの像……人のものや、見知らぬ南国の動物を象ったものが並べられている。


 そして部屋の中央部には、ホンにとっての最大の宝が置かれていた。精巧に作られた一体の木彫像が部屋灯りの中で幻想的に浮かび上がっていて、ホンの目を奪っている。


 この木彫像は人間の少女を象った作品で、一部のつなぎ目も見つからない完全な人体を作り出してい

る。ホンの愉しみは、この少女の像に手に入れた婦人服を着せて、帝国の市井を想像することだった。


「はぁ、今日も綺麗だなぁ、貴女は」


「何を像に話しかけているのです?」


「ひゃあ?!」


 いつの間にか部屋に入り込んでいたインファが背後から声をかけたことに、ホンは飛び上がるほど驚いた。


「申し訳ありませんお嬢様。ご希望の品をお持ちしましたので」


「そ、そう。ありがとう」


 なるほど、彼女が指示した机の上にホンが今回手に入れた書籍や衣服が置かれている。


 早速ホンは服を取り出して少女の像の前で広げてみた。それは鮮やかな藤色に染められた婦人服で、確かキトンと呼ばれていることをホンは知っている。丈や身頃も少女の像に丁度よさそうだ。


 そこで今像に着せている簡素な色のキトンを脱がしてやり、こちらの華麗なキトンに着替えさせた。動かない像に服を着せる作業はなんとも奇妙でもどかしい。


 だが無事に着せ替え終えてできた物を見てホンは満足した。華奢で可憐な少女が着ると、新たなキトンの魅力が一層増して見え、硬直しているはずの少女の表情さえ華やいでいるきがした。


「ふふ、好い。素晴らしいわ」


 自分の仕事に満足したホンは、次に書籍に手を出した。一巻ずつ手に取り、分類してある棚に収めていく。


「今日は何をお読みになりますか」


「博物誌がいいなぁ」


「では、プリニウスをお読みしましょう」


 インファはそういうと、今主人が分類した書棚から一本の巻物を取り出す。ホンは椅子を引き出してそこに座り、ロウ板を手に取った。


 インファが流暢な帝国語で博物誌を読み上げる。それにホンは少女の像と一緒に耳を澄ませた。


 インファはオークではなく、モグイの民と呼ばれる流浪民の出だ。漂泊の民ともいわれるモグイは芸を見せたり、あるいは定住民から汚れ仕事を引き受けたりして日々の糧を得るのだが、生まれたばかりのホンを残して妻を亡くしたラン王が、雑仕事を任せるためにインファを雇った。


 以来、こうして彼女はホンの世話係を務めている。


 実のところ、ホンがレムレスカ帝国へ憧憬を深めるようになったのは、寝物語にインファが語り聞かせたからである。


「インファ、もっと人間の国の話を聞かせて頂戴!」


「では、今日はご婦人方が好む舞台劇について……」


 そんなやり取りを小さな頃から続けていた主従は、いつしかレムレスカ帝国に関する教師と生徒の関係を兼ねるようになった。もともとホンが帝国の文物を収集するようになったのも、インファの授業に必要なためであったからだ。そして授業を通して興味を引き出されたホンは、さらに精力的に文物を集め……と、その行動はエスカレートしていった。


 今は、帝国で流布されている博物学の大鑑をインファが読み上げ、その内容についてホンが質問することが出来るほどだった。もちろんすべてオークの言語ではなく、帝国語だ。


『……ベルベル海岸から帝国へ持ち込まれたこれらの植物は乾燥させて粉末にすることで空気を浄化する木香として使用された』


『現在ではこの木香は帝国で利用されているの?』


『ベルベル海岸に起こされた南部属州が、帝国人の言う「異教徒」なる集団に占領されて以来、希少な品となっていると聞いています』


『そう。こんな辺鄙な場所まで運ばれてくることはなさそうね。一度その香りを嗅いでみたいわ』


 シー王国の建てられたアメンブルク対岸域は決して地味豊かな土地ではない。今は夏の半ばごろだが夜風は冷たく、冬になれば大地の底まで凍り付く。主食であり酒を醸す材料である黒麦の育ちもあまりよくなかった。


 その代わりこの一帯には地を一面覆いつくす広大な森林が太古より存在し、東方より移住してきたオークたちも、それ以前にここに植民していた帝国人も、木材の調達と豊かな森林がもたらす動植物を糧に暮らしていたのだ。南国の貴重な香木を取引できるような品が産出できるような土地じゃない。


 ホンは想像した。帝国の学者たちが記述した南部属州の光景を頭の中で思い描く。きっとそこは春雨の後のようなきれいな青空と微風が吹き、暖かく、地面は柔らかで、暮らす人間も穏和な表情をしているのだ。


「はぁ……」


「お疲れですか?」


「それもあるけどね。私はレムレスカへ行ってみたいのよ」


「存じております。お嬢様が常々、そこな木像を撫でまわしながら『ああ、可愛い!私もこんな服が着れたらなァ』と漏らして、そのあとに姿見の前でオーク女そのものの武骨な体つきを改めて確認し、深くため息をついているのを、インファは見ておりました」


「うぐぅ!」


 気を使わない従者の発言にホンから呻きが漏れる。


「時折インファは思うのです。お嬢様にレムレスカ帝国の教養を身に着けさせてしまったのは間違いではなかったかと。お父上や親族さま方がこのように身もだえるお嬢様を一目でもご覧になられたら、世話を任されたインファはお怒りを買ってしまいます。おそらく斬首にされるでしょう」


 つらつらとあり得る未来を語るインファを前にホンは大変居心地が悪くなってきた。自分が主人なのに!


「別に教えてくれと頼んだ、つもりはないわ……」


「ではこの部屋にあるものを洗いざらいお捨てになりますか?いいえ、捨てるのは流石に勿体ないので、出入りのモグイ族に下取りさせましょう。ご安心を、私の口利きで高く買い取らせます。さすれば御一家の金庫は満たされ、お父上も大層お喜びになりますわ」


「駄目に決まってるでしょう!」


 うっかり口を滑らせたばかりにとんでもないことを言い出すインファにホンは思わず怒鳴ってしまい、見上げるインファの目と目が合った。


 濃褐色の肌に白砂の髪をまとめたインファの面長な顔に乗った、黒玉の瞳がホンへ向けられている。そのまっすぐな目は喉元に短剣を突き付けているような印象をホンに与えた。無空の、誓約の刃だ。


「ごめんなさい」


「申し訳ありませんでした」


 二人は同時に謝った。


「従者として出過ぎた真似をしてしまいました。ご容赦くださいませ」


「今更言いっこなしよ。私にとってインファは……その、教育係で、母親代わりの、そう、姉のようなもので、つい甘えてしまうんだわ」


「私が姉、ですか。モグイの身に余ります」


「それに、帝国語を教えてくれるようになった時、約束したわ。『絶対に帝国へ行きたいなんて言わないこと』って。私は約束を自分で破っていた。だから貴女が怒るのは当然なのよ」


「お嬢様はいつかレムレスカ帝国へお行きになられますよ」


「シー王国の将軍ホン・バオ・シーとしてね。何百年もかけて帝国が築き上げてきた町や街道や建築物を破壊して略奪するオークの総大将として、レムレスカ帝国本土に入る。そんなの、嫌」


「お嬢様……」


「嫌だけど、そうしないと父ラン・バオ・シーの名前を慕ってついてくるオーク諸族を養えない。それは分かってる。だから結局、私はそうするんだろうと思う」


 ふう、と思わず深いため息が漏れるホンへ、インファは巻物を置いて近寄り、その肩を抱いた。人間並みの体躯であるモグイのインファでも、座っているホンにわずかに背が届かない。それでも、その行為がホンには暖かく感じた。非オーク的な、柔らかで曲線的な官能だった。


「インファはお嬢様のお世話係としてお嬢様の望む事を叶えさせて差し上げたいと思います。武威の鍛錬も、帝国の教養も、誰にも負けないほど身に着けられたお嬢様ですもの。きっと夢は叶えられますわ」


「慰めなんて、って言っちゃ駄目ね。ありがとうインファ、迷惑、掛けるね……」


 ホンも自分を抱くインファを抱き返した。太くたくましい両腕で細いインファの体を包み込む。ほとんど力をかけていないだろうに、身体にかかる圧力は人間の社会に近いものと遠いものの違いが露わになるようで、インファはホンを微かに哀れんだ。

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