知ってる知らない
「袖隠しって花。知ってる?」
縁側で蝉の交尾をまじまじと見ていた私に望月先輩は問いかけた
彼女は西日を背にし
逆光で顔はよく見えなかったが
手には木目調のお盆を持っており
そこにはピヤッと汗をかいた麦茶の入ったグラスが2つ置かれていた
むむむ、氷までも美味しそうだなあ
「いや、初めて聞きます。えらい粋な名前ですね」
ありがとうございますと言って
望月先輩からグラスを一つもらう
グラスがこれまたチべたい
「そーそー。なんか昔、城内に咲くその花があんまりにも綺麗だったらしくてさ、武士達がついつい袖に隠して盗んだからだとか何とか」
「よほど、綺麗な花なんですネー」
グラスに口をつけ
冷えた麦茶を一気に流す
んー、これが夏の味だ
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望月先輩とは大学の授業でお世話になっている横須賀出身の先輩である
横須賀ブランドか
その破天荒な性格ときたら
これまた大変
古今無双の人騒がせであり
興味のないレポートの提出期限が近づくと
「朝まで手伝え」と言い
研究室で徹夜なんて日常茶飯事
そのくせ、自分の好きなトピックだと
ほんの2日程で書き上げるのだからタチが悪い
しかし
そんな彼女だが容姿が腹が立つほど良きなのだ
サラリと伸びた綺麗な黒髪ボブをお持ちで
オマケにお目々もパッチリ
近づくと漏れなく「良いかほり」が
私の鼻腔を突き抜け脳内にピンクウイルスを
蔓延させるのだからセコいたらありゃしない
なんだろうかこの姫君は
.........
「ん?ヒトラーはドイツ人じゃないよ。オーストリア人だよ」
1回生の春
新しい授業でのディスカッションの時だ
国際関係論の授業で
あるトピックに対して隣の人とディスカッションをしろという内容だった
ヒトラーを勝手にドイツ人と思っていた私に突き刺す望月先輩の槍
「え。そんなものも知らずにこの授業とってるわけ?え。なに学んできたの?」
初対面に限らず
遠慮などどこ吹く風と言った具合に
ドスドス物申す彼女
「え、ちがうんですか」
「ありえない。浅い知識しかないからそうなるんだ。よく受かったね」
私のガラスのハートをエグりにエグるボブ姐さん
「それに、さっき "ヒトラーのせいで国民はユダヤ人を嫌いになったんダー"とか言ってたけどさ、別にヒトラーが出てくる前からユダヤ人嫌いはあったんだよ。少し変わったことばかりしてたからね、彼ら。昔々からだよ。キリスト教の子供を十字架に磔て食べてたのが大きな要因じゃないかな。まぁ、他にもあるだろうけど」
無知な自分を殺したくなる
「だから、彼は小さい火種に油100リットル注いじゃった感じ。事を大きくしたんだよ。大きくなったのも不満ぐちぐちモードの当時のドイツ人のイライラの矛先としてユダヤ人がちょうどよかったのかもしれないね」
「はぁ...」
「何回生?せっかく学校にいるのに。もっと勉強したほうがいいよ」
望月先輩との出会いは苦かった
「花には色々意味があるって素敵だよねー。"袖隠し"だなんて」
「よく知ってはりますよね」
先輩は縁側に腰をかけながら
白い足をブラブラしている
サンダルが脱げそうになるのがきになる
「なんか素敵じゃない?ひとつ物事を知っているだけで
実は死ぬまで知らなかったはずの世界を1秒で知れるんだよ?うん。知識は絶対あったほうがいいよ。」
「はぁ」
「生活規範集のタルムードにも知識のないものほど貧しいものはないって書かれてるくらいだよ」
「そうですか...」
「人にとって学問は魚にとって水のようなものでありそこから上がると死ぬ!この言葉覚えといて。死ぬまでついてくるから」
ハハハ、とコロコロ笑いながら姐さんは麦茶をクピクピ飲む
「知らなくていい知識もあるじゃないですかー」
「うん。そうだね。確かに、そう。でも、知っている物が多いことは、君のこれからの人生の選択を大きく変えてくれるんだよ。知らなくていいデメリットよりも知っててよかったメリットの方がゼッッたい多いから」
それから私は
毎日図書館に行くようになり
本の虫の如く、書物を
片っ端から読み漁った
ところが
読めば読むほど
自分のアホさ加減に憤りを感じ
そして
人に内容を話せば話すほど
自分の吸収力の無さに凹んだ
知識に溺れるようになるのは
いつになるだろうか
彼女の脳みそに
追いつけるのは、いつになるのだ
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