第9話

  8


 ちょうどその頃、警察署の取調室で、刑事と容疑者の間に火のような応酬が続けられていた。

「ふざけるなっ。狸の毛を刈っていただと? そんなごまかしが、通用するとおもうのかっ?」

「ほんとうなんですよっ。天地神明に誓って、偽りは申しませんっ」

「誓うか? よし、誓うな? じゃあ、今日のお前の行動を、初めから残らず話してみろ。調書にとるからな。そのつもりで話せよ」

「どうぞとってください。ありのままお話ししますから。今日の10時過ぎでしたか、わたしは朝飯をすませた後、ふと台所の汚れているのが気にかかりましたので、台所の掃除に取りかかりまして、そのついでに、流しの下に鼠捕りを仕掛けているところだったんですが、庭の方で何かガシャンと音がするので、居間へ戻ってガラス窓から庭を見ると、棚に並べた盆栽は落ちて鉢は砕けているし、池の方では、中の鯉を狸が喰っているじゃありませんか!? わたしの自慢の盆栽と錦鯉なんですっ。ここだけの話、何十万円もする物なんですっ。わたしは窓を開けて庭に飛び出しました。狸めは鯉をくわえたなり垣根をくぐって逃げていきました。腹が立ってしかたがありません。鯉を狸に喰われたのはこれで三度目なんです。先々週に一度、先週にも一度、夕飯時にやって来て、鯉を喰い散らかして逃げていきました。そして今日には白昼堂々と…。しかも盆栽まで…。わたしは棚の下に落ちているカッターを拾って手に握りました。そのカッターは盆栽の太い枝を切断するのに使っていたものなんです。わたしは罰を与えてやらねばならないと思いました。カッターで毛を刈ってやって、その罪のほどを思い知らせてやろうと思いました。わたしは門を飛び出して、まだ鯉をくわえたままの狸を見つけ、猛スピードで追いかけました。人間もあれだけ癪に障ると、ものすごいエネルギーが出るもんですな。それに狸の奴は広い道なりに逃げていきましたから、見失わずに後を追うことができたんです。そうして狸が、紅葉山を登る坂道まで来て、その坂道を駆け上がっていくのを見まして、わたしはシメたと思いました。なぜかといいますと、この坂道は山の上の公園までずっと一本道で、道の両側は急な崖になっていて、狸といえどもその崖を下るのは不可能なほどの傾斜です。だからもう狸は公園まで登って行くしかない。わたしのすごいエネルギーはまだメラメラ燃えていましたから、この坂道を全速力で追いかければ狸を捕まえられると思ったんです。わたしは猛然と火の玉になって猛スピードで坂道を駆け上がりました。そうすると予測は図に当たったんです。公園の入口の駐車場のところで、とうとう狸を捕まえました。もちろん狸は暴れましたけれど、なに、暴れたってこっちはひるむものじゃありません。毛を半分ばかり刈って懲らしめてやろうと思いました。そうすればこれに懲りて、もう二度とわが家の庭に現れようとはしないでしょうからね。ところが、ひと束毛を刈っただけで、まんまと逃げられたんです。狸の野郎、わたしの顔面に、ひどい屁を喰らわしやがったんで」

「ワハハ。ほう。それで?」

「わたしはこのままでは収まりませんから、鉄塔に上って逃げた狸の行方を探しました。鉄塔のてっぺんからは公園の様子がよく見えますから。現れたら、そっと鉄塔を下りていって、電光石火の奇襲をかければ成功すると思っていましたので。けれども狸は現れません。結局、山の中に逃げられたと思って諦めるほかありませんでした。しばらくぼんやりと鉄塔の上から見える綺麗な海を眺めていました。そうしていると、誰かが鉄塔のてっぺんまで上って来たようなので、振り向くと、若い女が立っていました。それはいいんですが、女の後ろには、なんと、狸の奴めがいるではありませんか!? わたしは驚きましたけれども、今度こそ逃さじと思って、カッターを手にして突進したんです」

「ふむ」

「けれど女が身を屈めたのが邪魔になって、わたしは女にぶつかって、おもいっきりスッ転んだんです。女が肩を切られたと110番してきたとあなた方はおっしゃいましたが、わたしのカッターの刃が女の肩に当たったとすれば、その時しかありません。なにしろ瞬時のことでしたし、わたしは狸に夢中でしたから、カッターの刃が女に当たったなんてまるで覚えていないんです。で、ひっくり返ったわたしに飛びかかってきたのは狸でした。ガブリとわたしの胸に噛みついたんです。それはもうまるで猛犬みたいに噛みついてくるんです。わたしは思わぬ狸の猛反撃に怖れをなして、かろうじて狸の猛攻から逃れると、鉄塔を駆け下りて逃げていったんです。それでもわたしはカッターだけは手放さずにいたのは、執念というものがそうさせたんでしょうねぇ」

「ほう」

「わたしは公園の便所へ駆けていきました。北東の角の所にある、見捨てられたようなおんぼろの便所ですが。すぐシャツを脱いで傷を見てみました。肉を喰いちぎられたかと思って怖かったんです。幸いにも肉は付いていましたが、まだ出血が治まりません。流しの水で傷口を洗い、便所の傍のベンチに仰向けになって安静にしていました。そのうちにうとうとと居眠りをしていたようですが、ふと目を覚まして、傷口を見てみると、出血は治まっていましたので、もう大丈夫だろうと思って服を着て、歩いて帰ろうとしました。駐車場まで来ると、そこに四駆とスポーツカーが停まっていたのでちょっとびっくりしました。珍しかったので車を眺めていますと、四駆の助手席のサイドミラーの中で、チラチラと人影が見え隠れしている。なにかこちらを窺っているような感じがして妙だったので、もしやあの女がまだいたのかと思って、近寄って行って見てみれば、それが鉄塔の上に上って来たあの女なのです。わたしは狸の所業を思い出して怒りが込み上げてきました。…そして、わたしはひょっとしてこの女は狸を四駆の後ろに匿っているかもしれないという気がしました。女と狸は仲良しみたいにいっしょにてっぺんに上って来ましたし、わたしを凶悪な暴漢と思い込んでいるにちがいありませんから、狸が噛みついたことで報復されると女は思うでしょうから。それに四駆の後部座席は広くて、そこのガラスだけスモークになっていて、どうも怪しいんです。コソコソしていたのはそのせいだと思いました。わたしはなんとかして女にあの狸は悪い狸なんだから毛を刈って罰を与えてやらねばならないことを解らせようとしたんです。それが、わたしはとんだバカなことをしでかしていたんです。女はわたしを狸に報復しようとする凶悪な暴漢と思っているはずなのに、わたしは助手席の外に立って、シャツを捲って狸に噛みつかれた胸のひどい傷を示して、それからカッターを抜いて、狸に罰を与えねばならないことを懸命に解らせようとしたんでした……パトカーがやって来たのはその時でした…」

 男はテーブルの上の麦茶のグラスを掴んで、一気に飲み干し、ふぅと息を吐いた。

「ふぅむ……そうか、なるほど。今の話、全部調書に取ったからな。まぁ、録音もとっているんだがな」

「それはご苦労様でした。それでは、今日はこれで帰ってもよろしいでしょうか?」

「いいだろう。教えてやるが、匿うもなにも、その時もう狸は死んでいたんだよ」

「へっ?? 死んでた…って、また、どうしてでしょう??」

「君は鼠捕りを仕掛けていたところだったと最初に言ったな?」

「そうですが…?」

「そうすると、殺鼠剤なんかも用意していたんじゃないのか?」

「ええ、用意していました。流しの下に鼠捕りとか殺鼠剤を置いておこうとしていましたから」

「そうだろう。その殺鼠剤は、乾燥剤にそっくりなやつだろう。それを、シャツのポケットに入れていなかったか?」

「え?」

「そら、その破れてる、胸の右のポケットだよ。そこに入れていたんじゃないのか? 水色の粉が着いてるじゃないか?」

 刑事が指摘すると、男は顔を下げて自分の胸元を見た。

「おや? あ? あっ! アア! そうでした! すっかり忘れていました! なるほどっ、そうでしたか! いや、思い出しました。たしかに、胸のポケットに、殺鼠剤を入れたんでした。そうです。箱からいくつか出して胸のポケットに入れて、流しの下に置こうとしたんでした。そしたら庭の方でガシャンと音がしたもんですから。いや、思い出しました、思い出しました。まちがいありませんっ」

「そこを狸が喰らいついたんだ。殺鼠剤を呑み込んだとしてもふしぎでない。あるいは殺鼠剤を喰おうとしてしつこく喰らいついたんじゃないかな? 鼠が餌とまちがえて喰うくらいだから、うまそうなにおいがするだろうからな」

「そうですね。あの殺鼠剤はですね、大きい鼠用の、速効性の強力な殺鼠剤ですから、おそらく狸といえどもひとたまりもなかったのでしょう。いや、狸にも天罰が下りましたな」

「まぁ、しかし、狸が食い物を獲るのに悪意はないんだから、天罰などと思ったらいかんだろう」

「へぇ、まぁ、そう言われるとそうですが…。それにしても、ははぁ、そうでしたか。狸はもう死んでいたとは…。まったく、わたしも馬鹿なことをしたもんです。すると女の方にはまったくもって済まないことをしたわけですな。はぁ。近いうちに、お詫びに伺うつもりであるとお伝えくださいませんでしょうか?」

「君の容疑が晴れれば、そうするのがいいだろう。ふむ。よし。今日はもう帰ってかまわないぞ」

 刑事が言うと、男はパイプ椅子から立ち上がり、刑事に向かって深々と頭を下げると、取調室のドアを開けて出て行った。


この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。


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山の件 七海ナム @L-79

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