第8話
7
空は夕焼け色に染まって、辺りは静かである。
「ちょっと待ってくれ。優奈さんが嘘をついているのかって? いやいや、そんなことは言っていないじゃないか。ただ、優奈さんが、事実を取り違えているかもしれないと思ったんだ」
「どういうこと、治典? 話してみて」
美幸が治典に言った。優奈も目を丸くして聞いている。
「だけどこれは僕の勝手な推測だし、優奈さんにとっては残念な話になるから…ごめん、やっぱり
「何よ。そこまで言っといて、話さないなんて」
詩歩が憤慨気味に言う。
「治典さん、わたしは平気。そういう話ってすごく興味あるわ。さっきからもう気になってしかたがなくて。ぜひ聞かせて」
優奈がそう言ってくれたので、治典は、
「優奈さんがそう言うのなら、話すけれど…」
と、ためらいがちに、語り始めた。
「優奈さんにとってはショックな話だと思うけど…僕は、あの狸のおかげで優奈さんは救われたんじゃなく、あの狸のせいで、その男に傷付けられるようなことになったんじゃないかと思うんだ」
「エッ? ど、どういうこと??」
三人は一斉にたずねた。
「狸が優奈さんの後を付いていったのは、優奈さんになついたとかじゃなくて、助けてもらいたかったからじゃないかと思うんだ。優奈さんになついてとか、鉄塔のてっぺんまで上りたくて付いていったというのは、やっぱりおかしい。たまに野良猫なんかがなついて後を付いてくることがあるけど、途中でどこかに消えていなくなってるのがふつうで、もしどこまでも付いてくるときは、動物の方によほど必死な切迫した状況がある場合だよ。何日も食べていない場合が一番考えられることだけど、そういう、飢餓状態のときの動物は肉が落ちてげっそりしているものなのに、あの狸はそうじゃなかった。まるまると太っていた」
「そうね。よく肥えた狸だったわね。体重もずいぶんあったわよ。狸は秋になると冬場に備えて体に脂肪を蓄えて太るそうだけど、でも、太っていたからといっても、腹ペコじゃなかったとは言い切れないんじゃないかしら?」
美幸が言うと、
「そうよ。だって、力士みたいに太ってたって、3日食べてなかったら腹ペコに決まってるもの」
と詩歩が言った。
「なるほど、その通りだね。だけど、あれを見てごらん」
治典は駐車場の西側の方を指差した。駐車場の縁に沿った植え込みに、柿の木が並んでいる。
「あの見事な柿の実の群れを。地面にもいっぱい落ちてる。狸が腹ペコだったら、あの柿の実をほっとくはずがない。それに、今は実りの秋の季節だから、山には熟した実がたくさん実ってるだろうよ」
「なるほど、そうね」
と美幸。
「狸は飢えてはいなかった。そうすると、必死に優奈さんの後に付いていったのは、狸に何か別の危機が迫っていたからだよ。一体それは何かと考えてみると、狸は何かに怯えていて優奈さんにすがり付いていったんだとしか考えられない。じゃあ、狸は何に怯えていたのか? それは、例の暴漢しかいないんじゃないか? というのは、優奈さんが話した車の中で待っていた時の出来事の中で、男が、『狸! 狸!』とすごい形相でカッターを振り回して喚いていたというのは、狸に噛みつかれたにしても、何か異常で、執拗だ。何か積もり積もった怒り、怨みといったものを感じる。つまり狸と男は鉄塔のてっぺんで出くわしたのが初めてじゃなくて、前から何かあったんじゃないか? そうなると、狸が怯えていたのは、男に狙われていたためで、男がカッターを持っていたのも、狸のために用意していたんじゃないか? 僕たちは男が優奈さんのような女の子を襲うつもりで鉄塔の上に待ち伏せていたんだと思っているけれど、そうじゃなくて、男が鉄塔に上っていたのは、狸の行方を探すためだったんじゃないか?」
「…」
「美幸と優奈さんが公園にやって来る前、男は公園で狸を追いかけまわしていて、狸を見失って、それで鉄塔へ上って行方を探していたんじゃないか? そこへ公園に到着した美幸と優奈さんが鉄塔に歩いていった。狸は鉄塔の近くの藪の奥に逃げ込んでいて、美幸と優奈さんの話し声を聞いて、様子を窺いに藪の奥から外を覗きに来た。狸は耳がいいから聞こえただろうし、男の声とは別の優しげな声を聞いて救いを求めようとしたんだ。そして優奈さんが鉄塔を上っていこうとする姿を見つけると、藪を飛び出した。それまでは狸は藪の奥に潜んでいたから、男が鉄塔に上っていくのを見なかったし、男も狸が飛び出したところを見逃したんだ」
「ちょっと待って。狸が耳がいいのなら、男が階段を上っていく音も聞こえたんじゃない?」
詩歩が言った。
「そう。たしかにそうなんだけれども、狸は階段の鳴る音を聞いても、それが男が階段を上っていく音だとは理解できなかったんだろうね。なぜかって、狸がそんな音を聞き慣れているはずがないから、何の音だか解らなかったし、まして階段を上っていく音だとはね。人間の声とは違うよ」
「ふぅん。なるほどね」
詩歩はうなずく。
「聞いていて思ったけど、狸は嗅覚も鋭いわよ。だから鉄塔を上っていく途中、頂上にいる男のにおいに気付くはずじゃないかしら?」
今度は美幸が言った。
「そうなんだ。けれど、狸の嗅覚は餌を探すために発達した嗅覚で、人間のにおいを嗅ぎ分けることができるかどうか…。狸は優奈さんと一緒に上っていったんだから、男のにおいは優奈さんのにおいに紛れていたと思うから」
「うふふ。なるほど」
美幸は微笑で報いる。
「そういうわけで、狸は懸命に優奈さんの後をどこまでも付いていった。けれども鉄塔の頂上には男がいた。狸も驚いたろうけど、男は優奈さんの後ろにくっ付いている狸を見ると、カッターを取り出して飛びかかった。優奈さんが自分に襲いかかってきたと思ったのは当然だけれど、ほんとうは狙いは狸だった」
「…」
「優奈さんは刃を避けようとして、とっさに身を屈めた。でもそれがよくなかったんだ。男は狸を狙っていたんだから。優奈さんが身を屈めて丸くなったものだから、狸にとっては優奈さんは身を守る格好な盾になったようなものだ。狸はすかさず優奈さんの体の陰に隠れた。それで、カッターの刃は優奈さんにぶつかってしまったんだ」
「…」
「…というのが、僕の推測なんだけど、どうかな? …?? …アーッ!」
治典が突然、大声を上げて驚きの表情で固まっているので、詩歩が、
「な、何よ?? どうしたのよ??」
と、怯えたような表情で聞く。
「…僕の推測は、真相に迫っているみたいなんだ…。美幸と詩歩は、気付かなかった? あの狸の尻のあたり、毛がなかったよね?」
「え? あ、あれ? それがどうしたの? あれは、毛の生え変わりで自然に抜けたか、それとも、古傷の痕かなんかでしょう?」
と詩歩は言う。
「…そうよね」
と美幸も言う。
「え? 毛がなかったの、あの狸?」
優奈が美幸の顔を見て不思議そうに尋ねる。
「優奈ちゃん、そうよ。あの狸のお尻のところ、少し毛がなくなっていたのよ」
「そうなんだ…」
「いや、ちがうんだ。僕も最初は抜け毛か古傷の痕かと思ったよ。だけどね、僕は妙だと思いつつ、適当にこじつけて済ませてしまったんだけれど、あの毛のなくなっていた部分には、よく見ると、5ミリほどの毛が、きれいに揃って残っていたんだよ。で…そこのタイヤの下から覗いているのは何だろう?」
「エッ??」
治典が四駆の左前輪、つまり今、治典たちが立って話をしている足元を指差すと、詩歩がギョッとした声を上げて飛び退いた。
「アッ、毛だわ」
美幸が言った。タイヤの下から、動物の体毛らしき毛の束が、僅かにはみ出しているのであった。
優奈は四駆を出てきて足元を見たとたん、口に手をやったまま固まってしまった。
「さっき気付いた時にはゾクッとしたよ。美幸、ちょっと車を動かしてみてくれないか?」
美幸は四駆に乗り込んでエンジンをかけると、四駆をバックさせた。そうすると、詩歩と優奈は悲鳴を上げた。
タイヤの下から、長さ10センチほどの毛の束が出てきたからであった。
「狸の毛だよ、これは」
治典は毛の束を掴んで、
「ほら、この切り口。この真っ直ぐ揃った切り口は、カッターで刈って出来たんだよ」
「ほ、ほんとだ」
と詩歩は驚く。
「じゃ、じゃあ、男は、狸の毛を??」
「そうさ。奴の仕業さ。男は狸を捕まえて、毛を刈っていたんだよ。でも途中で逃げられたんだ。男はちょっと刈ったくらいじゃ気が済まなかったのさ。もっと刈ってやる気だったんだ。そして、鉄塔に上って狸を探していたんだ。そうすると、なんと狸が鉄塔を上ってきた。男はカッターを手に飛びかかったけど、勢い余ったカッターの刃は運悪く優奈さんの肩にぶつかって、その拍子に男は仰向けにスッ転んだ。狸はそのチャンスに、男の胸に噛みついて、一矢を報いたんだ。でも、噛みついたのは、優奈さんを助けるためじゃなく、自分が助かりたかったからだよ」
「…お話、とても興味深いわ。でも、今の治典さんの話だと、男はわたしを狙うつもりなんてなくて、わたしを傷付けたのが過失だったのなら、駐車場のところでわたしに謝るはずじゃないかしら? わたしは男にとって無関係だった訳だから。なのに、謝るどころか、カッターを振り回してわたしを脅したのはおかしいわ」
優奈が治典に尋ねる。
「おそらく、瞬時のことで男は優奈さんを傷付けたことに気付かなかったのだろうし、気付いていたとしても、狸に噛みつかれた憤りやら無念さやらでいっぱいだったんだろうね。だから、優奈さんを脅したというより、狸の事を何か聞きたかったんだろう…と思う」
「その毛は決定的な証拠よ。男が狸の毛を刈っていたのは間違いないわ。だから犯人が狙っていたのは狸だったんだっていう治典の推測は当たってると思うんだけど、でもなんで狸の毛なんて…」
詩歩が唸る。
「それは、報復とか懲罰のためなのだろう。そうとしか考えられない。一体狸との間に何があったのか分からないけれど…。こればかりは男に聞いてみなければ分からないね。もし、狂人の仕業だとしたら、話は別だけど…」
「…それにしても、そんな悪い狸なら、あんなに苦労して埋葬することなんてなかったんじゃない?」
「…はは、いいんだよ。やっぱり狸はかわいそうだからね…」
すでに星の瞬く夕闇となった。
「さぁ、帰りましょう。治典と詩歩は近くていいわね。これから東京まで帰るなんてゲッソリ。今晩はホテルにでも泊まろうかしら…ねぇ、優奈ちゃん? 明日はお休みだしね」
「それがいいわよ、美幸。無理することはないわ。なんならあたしん家に泊まっていってもいいけど? でもその前に、今日はみんなくたくたでしょう? 体もだいぶ汚れたしね。ということで、みんなで銭湯へ行きましょう。綺麗でゴージャスなスーパー銭湯、近くにオープンしたばかりなのよ」
「ウフ。それ、いいわね。優奈ちゃんはどう?」
「素敵な詩歩さんの提案ね。もちろんよ」
「それいいけど、独り、男湯は淋しいな」
「なに言ってるのよ、治典っ。美女三人に囲まれて贅沢すぎるうえに、いっしょにお風呂にまで入ろうだなんて、虫が良すぎるわよっ」
「ハハハ。そんな美女が、三人もおりましたっけかな?」
「ど、どういう意味よっ」
詩歩が声を荒げたその時、どこかで閃光が瞬き、凄まじい轟音が轟いて、大地が震えた。
「ワッ!」
「なにっ!? か、雷っ、落ちた!?」
「ち、違うわ。あそこよ!」
「げっ!」
周囲を見回すと、公園の西南の方から、朦々と土煙が上がっている。
「なに、あの煙?」
「まさか、あの…!?」
「爆発したわ!」
「不発弾!」
治典と美幸と詩歩は互いに顔を見合せた。1時間の差で命拾いしたことを、三人は戦慄する思いで感じたのであった。
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