第6話

  5


 治典を地上に引っ張り上げ、三人はダッシュで穴から逃げた。

 穴から50メートルも逃げただろうか、広場まで走ってきて詩歩は駆け足を緩めながら、

「もう大丈夫よ。二人とも、ひどいわ。あたしを置いていく気?」

 治典と美幸はまだ走り続けていた。二人は我に返ったように立ち止まって振り返った。

「もう大丈夫だろう…」

「そうね…」

 詩歩は二人に追い付いて、

「そこまで慌てなくてもいいじゃない。いったいどこまで逃げる気だったのよ」

「いや…」

「えっと…」

 二人はさすがに口ごもるしかなかった。

「あはは、冗談だってば。まったく危なかったわ。けど、治典、お宝のことはもう諦めるの?」

「そりゃ、諦めるしかないだろう? お宝よりも命のほうが大事だよ」

「あはは、そうよね。狸の埋葬が、治典の埋葬になるところだったんだからね」

「ハハハハ…ほんとにそうなったかもしれない。それより、狸の事だけれど、浅い穴でもいいからとにかく埋めてあげないと。急がないと、そろそろ日が暮れそうだ」

 晩秋の日は短く、空はすでに暮色を帯び始めていた。

「…そうね、やむを得ないわね。どこかに小さい穴を掘って、埋めましょう」

 美幸が言う。

「でもショベルは置いてきたけど?」

 と詩歩。

「スコップが物置にあったよ。それを使えばいい。取ってくる」

 治典は物置まで駆けていった。

 美幸と詩歩は鉄塔の下で待っていた。治典がスコップを持って戻ってくると、三人は公園の東側のつきあたりの藪の前に行き、そこの地面に小さい穴を掘った。穴が出来ると、美幸は鉄塔へ向かい、階段を上っていった。やがて、美幸は動かない狸を大事そうに両手で抱えて下りてきた。

 治典と詩歩は、美幸の勇気に息を呑む思いだった。

「ねえ、この狸、出血もしていないし、傷も無いわよ。そのかわり、お尻のこの辺り、毛を掻き分けると分かるけど、毛が無い所があるの。ピンポン球くらいの大きさの。これが傷なのかしら?」

 美幸が狸を抱えながら言った。

「え? あっ、ほんとだ。毛が無い。でもこれ傷じゃなくて、もともと抜けてたみたいだけど?」

 詩歩が恐々ながら狸の毛を掻き分けて言った。

「どれ? ふぅん、ほんとだね。傷も無いのに死ぬのは変だな。優奈さんは狸が死んだのはカッターによる傷のせいだと思ってるけど、たぶん、犯人と闘った時の興奮があまり激しかったために、ショック死してしまったのだろうね。ふぅん、やっぱり傷になってるわけじゃないみたいだしなぁ、この毛は…」

 治典は狸の毛を掻き分けながらしげしげと見る。

「とにかく急ぎましょう。ずいぶん優奈ちゃんを待たせちゃってるわ」

 と、美幸は小さい穴の中に狸を置く。

 三人は土を被せ、合掌瞑目して別れを告げた。

 

 物置に装備品を返して、傍の水道で手を洗うと、

「ずいぶん遅くなっちゃったわ」

 と美幸は先に駆けていったので、治典と詩歩も一緒に駆けた。

「ねぇ、ショベルとバケツ、ほったらかしだけど?」

「しかたがないよ。すぐ補充しておけばだいじょぶだろう」

「そうね」

 三人が駐車場に戻ると、四駆の助手席のシートに凭れていた優奈が気付いて顔を向ける。

 美幸はポケットからキーを出して、運転席のドアを開け、

「優奈ちゃん大丈夫だった? 遅くなっちゃってごめんなさいね」

「遅かったのね。わたし、大変だったのよ」

「大変って!? 優奈ちゃん??」

「治典さんと詩歩さんにも一緒に聞いてもらうわ。美幸、窓を開けて」

 美幸はキーを運転席の鍵穴に挿し、助手席のパワーウィンドウを下げる。

「治典さん、詩歩さん、お疲れさまでした。わがまま言ってほんとうにごめんなさい。わたしが車の中で待っている時の事をお話したいので、席に座ってください」

「エッ? 何かあったの? …まさか?」

 治典は尋ねた。

「…ええ」

「…いたんだ……まさか…でも、無事だったんだね? …そうか……僕たちは汚れてるから、ここで立って聞くよ」

「汚れてますか? そんなに汚れてるようには見えないけど? ねえ美幸、大丈夫でしょう?」

「いや、けっこう細かい粒が付いてるよ。汚すとやっぱりわるいから、ここで立って聞いてるよ」

「そう? じゃあ…」

 と、優奈が話し始めようとすると、美幸は車を出て、治典たちと同じように助手席の窓の外に立つ。

「このほうが優奈ちゃん話しやすいでしょ?」

「うん」

 三人はそこで優奈から意外な事実を聞かされた。しかし不明な点もあったので、そこを三人が質問し優奈がそれに答えた事柄をまとめてみると以下のような事実が分かったのである。

 優奈は車の中で待っているうちに、だんだん怖くなってきて、ついに警察に電話をしたのだという。もしかしたらあの犯人はまだその辺りをうろうろしているかもしれないという恐怖が、独りになってみると急に湧き上がってきたからだった。警察はすぐ来てくれると聞いてホッとしたが、それも束の間、優奈に切り付けたあの犯人の姿が、サイドミラーの奥に映ったのである。

 優奈は悲鳴を上げそうになったがなんとかこらえ、とっさに身を縮めて、犯人の視界から隠れた。しかし、恐々ながらもサイドミラーをチラチラ覗いて見ないではいられなかった。サイドミラーの中の犯人は公園の出入口に向かって歩いている様子だったが、駐車場のスポーツカーと四駆に気を取られたようで、足を止めて道に佇んだままこっちを眺めていたが、四駆の中からサイドミラー越しに自分をチラチラ覗いている人影に気付いたのだろう。急に駐車場に向かってツカツカと歩いてきた。優奈はもう見つかったと思った。美幸に急を告げようと、ダッシュボードの上の携帯電話を掴んでかけようとしたが手が震えて落っことしてしまっているうちに、犯人はもうドアを隔ててすぐ横まで来ていた。

 犯人の男は突然、シャツの裾を大きく捲って、裸の胸を突き出した。右の胸に酷い傷があった。狸に噛まれた傷だ。男はズボンの尻ポケットからカッターを抜き、刃を出して構えた。優奈は目を剥いてその鋭く尖った刃に怖れおののいた。男はカッターを振り回し、訳のわからぬ身振りをしながら、何か言っているようなのである。

 男の身振りと形相があまり尋常じゃないので、優奈はこれはいよいよ危ない犯人だと警戒していると、男は、「狸! 狸!」と繰り返し喚いているようなのである。

 と、その時、パトカーが突如として駐車場に現れた。

 サイレンが鳴っていなかったので男はパトカーに気付かないまま、抜き身のカッターを振り回しながら喚いていた。

 警官達はじつに素早かった。

 パトカーを飛び出すと、疾風のように男の前に駆け至り、一人がたちまち警棒でもってカッターを叩き落とすと、もう一人は男に体当たりして、あっという間に地へ組み伏せると、後ろ手に手錠を掛けてしまった。

 男は地に頭を押さえ付けられ、ぜえぜえ息をしていた。

 無抵抗になっている男を立ち上がらせて、警官が男をパトカーに連行すると、もう一人のカッターを叩き落とした若い警官が、カッターをポケットに収めて近づいて来て、サイドウィンドウをコツコツとノックした。優奈はロックを外してドアを開け、車の外に出た。優奈は犯人の逮捕劇を目の前に見て心臓が早鐘を打っていたが、犯人が逮捕されたので、心底、ホッとした。

「お怪我は大丈夫ですか? 鉄塔の上で男に肩を切られたということですが?」

「大丈夫です。マネージャー達が手当てしてくれましたので。犯人を捕まえて下さって、ありがとうございます」

「マネージャー達? お一人ではなかったんですか?」

「はい」

「そのマネージャーさん達はどこですか? それとこのスポーツカーは、あなたの友人か何かの車ですか?」

「スポーツカーはマネージャーの友人の車です。マネージャー達は公園にいます」

「何をしているんです?」

「狸のお墓を作っているものですから」

「狸の、お墓??」

「はい。わたしのせいで、狸が亡くなってしまったので、お墓を作ってもらっているんです」

「へええ? あなたのせいって、いったいどんなふうに死んだんです?」

「わたしが鉄塔に上っていくと、わたしの後ろを狸が付いてきたんですけど、鉄塔の上でわたしが切られた時に、犯人に立ち向かって闘ってくれたんです。だから犯人は逃げたんですけど、でも、その時どこかを切られたみたいで、力尽きて…」

「へええ。狸が鉄塔の上でねえ」

「信じてもらえなくても、犯人に聞いてみれば分かりますよ」

「いえいえ、信じていないとは言ってませんよ。なるほど、そういうことですか。分かりました。ともあれ、詳しい事はのちほど伺うことになると思いますが、我々は犯人の身柄があるので、これで失礼します」

 若い警官は一礼すると、パトカーに戻っていった。そして運転席のドアを開け、席に着くと、パトカーはグルっと回って向きを変え、公園を去っていった。

 


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