第3話
2
昼下がりの陽光の下、手当てを受けた優奈は公園の広場の芝草の上に横たわっている。
美幸と詩歩で傷の手当てをした。傷口を消毒液できれいに拭き、軟膏を塗り、ガーゼを当て、包帯を巻いた。
二人は優奈の傷はカッターナイフによるものだと言う。治典も手当ての途中に改めて傷口を見せてもらったが、血を拭ったまっさらな肌の上から見て分かったのは、線のごく細い、カッターナイフ特有の傷であることだった。出血も治まっているから、傷は刺し傷ではなく切り傷だと見ていい。また傷は3センチあるわけではなく、2センチほどだということも分かった。
三人はようやく安堵した。優奈も落ち着きを取り戻し、芝草の上から半身を起こし、三人に感謝を述べた。
その際、優奈は治典と詩歩に簡単な自己紹介をした。治典と詩歩もそれぞれ自己紹介をした。七瀬優奈は22歳で、治典たちより1学年年下だった。
が、治典は思った。一方でまだ懸念なことがあると。犯人の行方である。逃げたというのは本当だろうか。
治典は事件の経緯を美幸と優奈に尋ねた。二人の話によると、美幸たちは今朝7時に東京を出発し、午前11時頃に紅葉山公園に到着したという。車を降りると、巨大な鉄塔が前方に聳え立っているのが目に映る。近くまで行ってみようということになって、鉄塔に向かった。鉄塔の下まで来ると、鉄塔の内部に階段があって、上階は展望台になっているのが分かった。鉄塔へ上ってみようということになったが、優奈は往きのドライブの途中に買っておいた昼ご飯を取ってくるように美幸に頼んだ。優奈は、鉄塔の上でごはんを食べたらきっとおいしいわよ、鉄塔の中に人はいないみたいだから、高い所で景色を眺めながらお昼をいただける、と言うのだった。優奈の言うように鉄塔には誰の姿もなかったし、駐車場には美幸の四駆のほかに車は停まっていなかったし、広い公園には二人のほかに誰の姿もなかった。
美幸が車の中の昼食を取りに行って戻ってくるわずか10分ばかりの間に、鉄塔の頂上に上った優奈が死角に潜んでいた凶漢に襲われ、犯人は逃げたというものだった。美幸は鉄塔の頂上まで上がって、そこに優奈の倒れているのを発見して事件を知ったのだった。美幸は犯人の声も聞いていないし、姿も見ていないのである。
手がかりは優奈の見た犯人の風体だが、優奈の覚えているのは、犯人は無精髭を短く生やした、暗い色のネルシャツを着た、中肉中背の年齢不詳の男、ということだけだった。
「犯人はほんとうに逃げたのかな? まだどこかに潜んでいるんじゃ…」
治典は周囲に目を配りながらつぶやく。
「逃げたとすれば山道からだな。入口から逃げれば美幸と鉢合わせたはずだ…」
この紅葉山には東西に一本ずつ細い山道があり、この山頂の公園につながっているのである。
「でも、犯人はもう逃げたんだと思うの。ひどい傷を負っているから」
と優奈が言った。
「エッ!? 傷っ?? …って、犯人はどうしたんだい?」
「噛まれたの、狸に」
「ええ!? タヌキ!?」
三人は驚いて優奈を見つめた。
「狸がね、犯人に立ち向かってくれたの。犯人は大怪我をして、だから逃げていったのよ。でも、あの狸、弱っていたわ。きっと犯人にどこかを切られて…。ねえ美幸、弱っている狸を見なかった?」
「あ! あの4階の床に倒れていた狸ね? そうなのね、優奈ちゃん?」
「狸が4階に倒れていたって!? 美幸? ああ、じゃあやっぱり、犠牲になったのね…」
優奈が悲しそうに言った。
「そういえば、途中、鉄塔の床に猫が昼寝してるのを見た気がしたけれど…」
治典はつぶやく。
「あたしは気がつかなかったなぁ。でも狸が鉄塔に?」
と詩歩。
「あの狸、わたしを助けようとして、そして、傷を受けて、死んでしまったのね…。ねえ、美幸、あの狸のお墓を作ってあげられないかしら? そのままにしておくのはかわいそうだわ。ほら、あそこの物置に、道具はあると思うから」
優奈は広場の西側の端にポツンと立っている、大きな物置を指した。
「そうだったのね、優奈ちゃん。そうね、お墓を作ってあげましょうね」
「治典さん、詩歩さん、お願いします、美幸を手伝ってあげてください」
「…それは構わないけれども、でも、優奈さん、今日はもう帰って休んだほうがいいんじゃないですか? 体調は大丈夫なの?」
治典は尋ねた。
「大丈夫、心配しないで。だって、狸をそのままにしておけないわ…。お願い…」
その懸命な様子に、二人は優奈の願いを拒むことはできなかった。
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