In the Flames of the Purgatory 71

 今のところ、相手の表情や視線の動きにおかしな違和感は無い。ただし特定の条件――時間、特定のキーワード、特定の場所への到達など――を満たさないと術が起動しないタイプの術式を仕込まれている場合、スリープ状態の術式は被術者に影響を与えないものも多い。そういった場合、ちょっと見ただけで術をかけられていないとは断定出来ない。

 当面この場でふたりになにかするわけにもいかないので、アルカードはそれ以上の情報収集はあきらめて話題を変えた。

「それにしてもすみません、シスター。本当はなにかお仕事があるんでしょう?」

「いいえ、もう終わってますから。あとは帰るだけだったんです」 柔らかく微笑んで、シスター天池がそう答えてくる。

「もともと用事がどんべえの干し草を足して水を取り換えるだけでしたから」 そう続けて、彼女は長机の上に置かれたインスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。中身が空になった瓶の中には、大量の干し草が差し込まれている――彼女はそれを一本抜き取って、机の下でうろうろしているどんべえに向かって差し出した。

 ポッキーを差し出された子供みたいに干し草に喰いついたどんべえを覗き込んで、アルカードは瓶に残った干し草を一本抜き取った。

「おーい、どんべえ」 干し草をちらつかせてみるが、どんべえはピクリと耳を動かしただけでこちらを見もしなかった。

「……」

 言い様もない寂寥感を感じながら、干し草を瓶に戻す。

「ほらほらどんべえ、先生が呼んでるよ」 テーブルに突っ伏したアルカードをフォローしようとしているのか結衣がどんべえを急かすが、どんべえはシスター天池からもらった干し草を銜えたままその場でうずくまってしまった。

「ごめんなさい先生、この仔無愛想で」 あわててそう言ってくる結衣に、アルカードは上体を起こして適当に手を振った。

「別に気にしてないよ」 そう答えて手にしたコップを軽く振ると、氷が互いにぶつかり合って、からんと音を立てた。

「ところで先生」 結衣に呼び掛けられて、そちらに視線を向ける。

「なに?」

 さっきのお話の続きなんですけど、と結衣はそう前置きしてから、

「ハンガリーの王様――マーチャーシュ?は、どうして十二年間もドラキュラ公爵を殺さずに捕らえてたんでしょうか?」

「さて、それは俺にもなんとも――とはいっても、一応想像はつくけどね。積極的に生かしておく意味は無いだろうから、たぶんなにかの口実に利用するために捕らえてたんだと思うよ」

「たとえば?」

「歴史学者でもなんでもない俺の、個人的な見解でいいかい?」

「はい」 結衣がうなずいたので、アルカードは先を続けた。

「ビザンツ帝国――東ローマ帝国は知ってるかい?」

「中学の世界史の授業程度には」 結衣の返事に、アルカードは軽くうなずいた。

「一四五三年の話だけど、オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされた」 言いながら、シスター天池が戸棚から出してきた缶入りのお菓子の小袋をひとつ手に取る。その封を切りながら、

「五九年と六三年に、当時のローマ教皇ピウス二世が十字軍遠征を提起してる。実現はしなかったけどカトリック教圏に布令は出てたから、ハンガリー的にはかかわりあいになりたくなかったんじゃないかな――十三世紀初頭の第四次十字軍が実施されたとき、ハンガリーは軍費不足の十字軍の船賃稼ぎにザラ、今のクロアティアのザダルを攻撃されてるから」

「カトリックの十字軍が、カトリック教国のハンガリーを攻撃したんですか?」 カトリック教圏でしたよねという結衣の質問に、アルカードは小さくうなずいた。

「そ。そのせいで第四次十字軍はイノケンティウス三世から破門を宣告されてる。でもそのあとでイノケンティウス三世が破門を解いちゃったもんだから、ハンガリーとしては遺恨が残ってる。イノケンティウス三世の後継者ホノリウス三世が企画した第五次十字軍には当時のハンガリー王アンドラーシュ二世が参加してるから決定的な亀裂ではなかったんだろうけど、マーチャーシュは気に入らなかったんだろう。アンドラーシュ二世にしてもホノリウス三世が参加しなかったら破門って脅してきたから政治的事情で参加せざるを得なかっただけで、のちのハンガリー王たちはむしろ十字軍にマイナスイメージを持ってたのかもしれない――さっきは亀裂は決定的なものじゃなかったって言ったけどね、むしろこれで亀裂が決定的になった可能性もある」

 アルカードはそう言ってから筒状の焼き菓子を口に押し込んだ。半分ぐらいを齧り取って咀嚼してから、

「ヴァルナ十字軍というのは習ったかい? ハンガリーが中心になった小規模遠征で、オスマン帝国に撃退されて敗退してるんだけど」

「いえ」 アルカードはその返事に焼き菓子の残りを口に放り込んでから、

「教会の檄で企画されるものとは違う、小規模の遠征なんだけど――ヴァルナ十字軍はポーランドとハンガリーの王を兼任するウラースロー一世が率いるハンガリー軍を主力に、様々な国の派遣した小規模な分遣隊から構成された混成軍だった。ウラースロー一世はポーランドにいてハンガリーを離れてたから、実際に指揮を執ったのは総督としてハンガリー内政を任されていた摂政フニャディ・ヤーノシュだ」

 この戦いにおいては準備が不十分だったうえに当時はまだ存続していた東ローマ帝国から約束していた援軍が発されなかったこともあって、全体の戦力では大きく劣っていた。

 十一月十日に始まった戦争が進むにつれ、キリスト教国混成軍は徐々に劣勢へと追い込まれていった。主力であったハンガリー王国軍は泥濘地帯と化したヴァルナの湖の泥に馬の足を取られて機動力を発揮出来ず、オスマン帝国軍の歩兵部隊の餌食となって瞬く間に撃破された。

「ボヘミア人傭兵以外に歩兵戦力がほとんどいなかったのも問題だったね――騎兵戦力は平野で機動戦を挑むなら威力を発揮するけど、いったん馬の足が止まれば歩兵の攻撃に対して隙だらけになる。ハンガリー軍に追従してた混成部隊のうち、離脱に成功したのはクロアティア軍だけだった」

 離脱したクロアティア軍が本陣に帰還して状況を報告すると、指揮を執っていた総司令官フニャディ・ヤーノシュは主力軍の救援に向かうことを即座に決断、ポーランドから出てきた主君ウラースローには本陣にとどまる様上奏して出陣した。

「ところがウラースローが上奏を無視して、別働隊を率いて出陣しちゃったんだよね」

 このときわずか二十歳のウラースロー一世は精鋭のポーランド騎士五百を率いて出撃、オスマン帝国軍の本陣に突撃して当時の皇帝ムラト二世を捕縛しようと試みた。

 この攻撃は成功し、実際にウラースロー王はイェニチェリ軍団の敷いた防衛線を突破してムラト二世の喉笛まであと一歩というところまで肉薄した――ところがウラースロー王の乗馬がムラト二世の眼前で足を取られ、ウラースロー一世は敵陣のど真ん中で落馬したのだ。

「結果ウラースロー一世はそれに気づいたイェニチェリの歩兵に襲われて、寄ってたかって袋叩きに遭って殺された――ポーランド騎士たちも混乱して分断され、各個撃破された」

 王が死んだ! 帝国兵たちがそれを叫んで回るや否や、今度はキリスト教国混成軍が指揮系統を失い混乱に陥った――ヤーノシュは王の遺体を取り戻そうと試みたが、結局残存兵を立て直して退却するのが精一杯であったという。

 自分が指揮を執る戦で敗走、挙句よりによって君主を失う――フニャディ・ヤーノシュにとっては極めて大きな痛手であったろう。

「このときにワラキア公国軍も参加してて、ヴラド二世がヴラド三世の異母兄にあたる長男のミルチャ二世を送り込んでたんだよね。ヴラド二世はもともとヴラド三世とラドゥをオスマン帝国に人質に差し出してたから、表立って帝国と対立するのを嫌がってたし」

 このときにヤーノシュはミルチャ二世を引っ張り込んだことでヴラド二世やミルチャ二世本人から批判を受けており、このことがのちにフニャディ家とドラクレシュティ家の対立につながった。一四四七年十二月、ヤーノシュはヴラド二世に対して帥を興し、ワラキア公国に侵攻してヴラド二世を殺害、ミルチャ二世を捕らえてトゥルゴヴィシュテで両目を潰してから生き埋めにしたという。

「そしてヴォイヴォダが不在になったワラキア公国を傀儡化するために、フニャディ・ヤーノシュはヴラディスラフ・ダネスティを擁立したわけだね」

 一四四八年、ムラト二世はヤーノシュ率いるハンガリー王国とワラキア・モルダヴィア両公国の連合軍を撃破している。結果バルカン半島の東方正教国諸国はオスマン帝国の圧力を受ける様になり、帝国はさらに勢力を拡大して、わずか五年後には東方正教会の総本山とも言うべき東ローマ帝国を滅亡させることになる。

「まあ、当時の東ローマ帝国って一回滅亡して復興したばっかりで、勢力版図も猫の額みたいな感じだったんだけどね。話を戻すと、ヴァルナ十字軍ってフニャディ家にとっては家名に泥を塗りたくる様な大失態だったんだよ」

 それで十字軍という言葉を聞くのも嫌になったのか、ウラースロー五世の次に選出された幼い王がインナーエスターライヒの君主フリードリヒによって幽閉されたことで国内の維持で手いっぱいになったのか、とまれヤーノシュはそれ以降最高評議会レルムの指導者の評議員と同時にウラースロー五世の代に続いて摂政の任を引き受け、内政に専念することになる。

「みずから出張ってオスマン帝国に与してたヴラド二世を殺害したのも、ワラキアを自国の安全保障に利用するためだ――国王はよその土地で幽閉されてるわ、立て続けの敗戦で大きな痛手をこうむるわで、お世辞にも正面から戦争をするのに向いた状況とは言えなかったからね。ヴァルナ十字軍は名前だけ十字軍とついてるだけのものだけど、息子のマーチャーシュとしては、十字軍の名前を出されても参加する気にならなかったんだろう」 アルカードはそう続けてからコップの縁に口をつけ、かすかな苦みのある麦茶を飲み下した。

「代々のハンガリー王には血縁が無い、もしくは縁が無いといっても通用するくらいに薄い。だから何代も前の王がこうむった被害や屈辱に対して、積極的に報復しようとする動きは薄い――兵を損耗して撤兵したアンドラーシュの報復のために十字軍参加を表明した王は、少なくとも第六次から第九次十字軍までの間にはひとりもいない。ハンガリー王家にとっては軍費はかさむ、王が国を空にしなければいけないから外敵の侵攻に対する対応も遅れる、おまけにそんなリスクを冒してまで参加したくもないのに誘われてるのはかつて自分たちの保護領を荒らし回った十字軍――黒軍の兵力もまだ十分に整ってなかったし、そんな胡散臭いイベントに手弁当で参加したくなかったんだろうね」

 そんなことを続けてから、アルカードは感心した様にうなずく結衣から視線をはずした。

「ふなちん? それも外国語ですか?」

「いえ、日本語でいう船賃です。船の運賃」 シスター天池の言葉にそう返事をしてから、アルカードは内容をまとめるために少し考え込んだ。

「第四次十字軍は当時のローマ教皇イノケンティウス三世の布令で計画されたんですが、軍資金をろくに確保出来てなかったんです。参加を表明はしたものの実際に待ち合わせ場所にやってきた者たちが当初の予定の三分の一しかいなくて、持ち寄る資金も軍需物資も乏しかった。糧食はもちろん、実際にエジプトに渡るための船賃もね」

 第四次十字軍の目標は、当時のイスラム教圏でもっとも隆盛を誇ったエジプトのカイロ。

 彼らはヴェネツィア共和国に集結して船を調達し、海路でエジプトに渡る算段であったが、実際には当初予定していた三万人のうち三分の一しか集まらなかったと言われている――参加者全員の有り金をはたいても共和国側に支払う船賃が大幅に不足し、出港することが出来なくなってしまった。

 まあこの点に関しては、一万人ぶんの有り金をはたいて一万人ぶんの船賃が出せないのなら一万が三万になっても同じではないかという疑問もあるが――

 まあ野暮なことは言うまい。それに――

「まあ、資金力のある国の王侯がすっぽかして逃げたのかもしれませんね。それで無い袖は振れないってことでヴェネツィア側と協議した結果、かつて共和国領だったザラを現在保護下に置いてるハンガリーから奪還しろという話になったんです」

「持ち寄るって――」 口元に手を当てる結衣に、アルカードは適当に肩をすくめた。

「次に君はこう言う、総本山ヴァチカンからお金出てないんですか?と。出てないんだな、これが」 そんなことを言いながら、もうひとつ焼き菓子を取り上げる――アルカードはちょっと考えてから、

「第二次以降の十字軍はヴァチカンは呼びかけだけで、主導はしてなかった――出来てなかった――からね。まあ第一次十字軍の費用がヴァチカンから出たかどうかは知らないけど、少なくとも第二次以降の軍費は参加した王侯の自己負担のはずだ」

 ヴァチカンがしみったれてて費用を負担する気が無かっただけなのか、本気で支払い能力が無かったのかは知らんけどね――胸中でだけそう付け加えてから、アルカードは先を続けた。

「で、交渉相手だったヴェネツィア共和国の商人たちに金が無いなら働きで払えと焚きつけられてザラを攻撃したんですよ――ザラは以前はヴェネツィアの領土でしたから」

 ろくに軍資金を確保出来ないままエジプト征服を目指して計画された第四次十字軍は同じカトリック教圏であったハンガリー領に攻撃を仕掛けたことで当時のローマ教皇イノケンティウス三世から破門を宣告されたが、彼らはそれにかまわずに続いて東ローマ帝国バシレーアー・トーン・ローマーイオーンの首都コンスタンティノポリス、現イスタンブールに攻撃を仕掛けている。

「なんでまた――ヴェネツィアからクロアティアってことは、陸路か海路か知りませんけど全然方向が違いますよね。イスタンブールなんて千キロくらいあるじゃないですか」

 カイロとだって全然方向が違いますよ――という結衣の言葉に、アルカードはうなずいた。

「完全に目的を逸脱してるんだけど、ザラを占領下に置いたときに東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオス・アンゲロスが十字軍の指揮官モンフェラート侯ボニファーチョ一世に接触したんだ。彼は先帝イサキオス二世の息子でね、のちの神聖ローマ帝国皇帝、ローマ王フィリップの義弟にあたる。つまり帝位継承権者だったんだけど、父イサキオスの帝位を弟のアレクシオス三世によって奪われてしまった。で、ボニファーチョら十字軍首脳に自分が帝位に就ける様に協力してくれたら莫大な恩賞を出すと持ちかけて味方に引っ張り込んだんだ」

 第四次十字軍の指揮官はシャンパーニュ伯ティボー三世であったが、一二〇一年、実際に出征する前にトロワの宮殿で急死している――モンフェラート侯ボニファーチョ一世は彼自身の軍歴や欧州王家に縁戚が多く顔が広いこと、イェルサレムや東ローマ帝国等オリエントの事情に詳しいことを買われて新たな指揮官として擁立された。

 ヴェネツィアの要求に応えて首尾よくザラを奪取した第四次十字軍ではあるが、ここで話が変わってくる。一二〇一年の年末、ボニファーチョ一世は従兄弟にあたるローマ王フィリップを介して彼の義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオス・アンゲロス、のちのアンゲロス王朝第三代皇帝アレクシオス四世と接触している。

 アレクシオス四世は叔父アレクシオス三世によって簒奪された帝位の正統を回復したいと説明し、報酬として二十万マルクの支払いと東ローマ帝国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示して協力を要請した。

 ボニファーチョ一世は事前に十字軍幹部に根回しをしたうえで、これを幹部会議で取り上げた。ボニファーチョ一世の事前の根回しを受けていた第四次十字軍首脳部はこれに賛同し、第四次十字軍は同じキリスト教圏である東ローマ帝国に標的を移した。

「ヴェネツィアの元首ドージェエンリコ・ダンドロも含めてね」 不穏当なその言葉に、結衣とシスター天池がこちらに視線を向ける。

「ヴェネツィアの関係者がですか?」

「そうです。エンリコ・ダンドロはヴェネツィアの元首ドージェで、第四次十字軍のカイロへの海路輸送を――おっと、駄洒落じゃないですよ――引き受けるほか、自身も軍を率いて参戦することを表明していました」

 ここがヴェネツィアの小狡いところで――ヴェネツィアは第四次十字軍の輸送を引き受けるほか、元首ドージェであったエンリコ・ダンドロもみずから参加を表明している。

「それがさっき言ったティボー三世逝去前の話ですから、ヴェネツィアは十字軍の計画段階から参加していたメンバーだったんです」

 だがエジプトやシリア、イエメンなどを支配していたアイユーブ朝はヴェネツィアにとって重要な貿易相手国でもあった。

「これは推測だけど、ダンドロは最初から第四次十字軍を失敗させるために参加したんだろう――計画段階から参加したのは、計画を聞き出してアイユーブ朝にリークするためだ」

 海路でエジプトに向かい首都カイロを攻撃するという計画はエンリコ・ダンドロを通じてアイユーブ朝エジプトの王アル・アーディルに漏れ伝わり、秘密裏の協議の結果以下の協定を結んでいる。


 一、エジプトはアレクサンドリアやダミエッタなど貿易港へのヴェネツィア船舶の自由な入港と援助を保障する。

 一、その見返りに、ヴェネツィアはエジプトに対するいかなる遠征も援助しない。


「最初から十字軍遠征を成功させる気が無かったってことなんでしょうか、それ」

「だろうね。船賃が足りないっていうのももちろん本気で素寒貧だった可能性もあるけど、最初から出港出来ない様に商人たちに吹っ掛けさせてたのかも。ザラを攻撃させたのもザラを保護するハンガリーと衝突させると同時に離反者を増やし、勢力を弱めて遠征を中止、あるいは実際に遠征しても敗退する様に仕組んだんだろう。そうすることで、第四次十字軍の大義名分や正当性も薄れるしね」

 実際同じカトリック教圏であるハンガリーの保護領を攻撃したことでイノケンティウス三世は激怒、第四次十字軍参加者全員の破門を宣告しているし、第四次十字軍は現在まで最も悪名高い十字軍として語り継がれている。

 この破門はのちに解かれるのだが、この点に関しては時期がはっきりしない。十字軍側の弁明を受けてすぐに解いたという説もあるし、もう少しあと、東西教会の統合を実現させるための政治的なものであるという説もある。

「第四次十字軍がコンスタンティノポリスに到着したのは、一二〇三年六月のことだった――十字軍は先帝イサキオス二世の弟で当代の皇帝でもあるアレクシオス三世に対して、その甥にあたるアレクシオス・アンゲロスに帝位を禅譲する様に要求した。けれどアレクシオス三世は、この要求を拒否してる」 叔父と甥に同じ名前をつけようなんてことを、当時の連中はなんで考えたのやら――胸中でつぶやいて、アルカードはかぶりを振った。

 亡くなった弟の名前をもらうとかならわかる――まずあり得ないだろうが、もし自分が子を持つ機会があれば養父の名をつけるだろう。だけど、その弟まだ生きてるんだぞ? ややこしいじゃんよ。

「そして第四次十字軍は翌七月、コンスタンティノポリス攻撃を開始した――陸上戦力の大半はフランスの騎士団、それにマルマラ海側から接近したヴェネツィア海軍が海上戦力として参加してる。知ってると思うけど、コンスタンティノポリスはマルマラ海と黒海を接続するボスポラス海峡のそばにあったから、船で容易に接近出来たんだ」

 ヴェネツィア海軍と陸上戦力の挟撃によって首都防衛隊は壊滅状態に追い込まれアレクシオス三世は逃亡、残った廷臣たちは目を潰され幽閉されていた先帝イサキオスを解放して城門を開き、降伏している。

「先帝、生きてたんですか」

「そうらしい。で、アレクシオス四世は父とふたりで共同皇帝を名乗って即位した」

 即位したはいいが、そもそもアンゲロス王朝は代々有能であるとは言い難かった。元々コムネオス王朝の最後の皇帝アンドロニコスが独裁政治を行って国力を疲弊させていたうえ、父であるイサキオス自身もフィラデルフィアの貴族がみずから皇帝を僭称するなど、帝国貴族たちを纏め上げることが出来ていなかった。

 皇帝を僭称した帝国貴族テオドロス・マンカファースの叛乱は大規模な軍を発して鎮圧したものの、支配下にあったブルガリアが帝国を名乗って独立を宣言したのを二度の遠征にもかかわらず鎮圧出来ていなかった。

 イサキオス二世は三度目の遠征を一一九五年に計画したものの弟のアレクシオス、つまりのちの皇帝アレクシオス三世によって反対されている。両目を潰されて廃位され、幽閉されたのはこのときのことである。

 それで不安定だった国内がまとまり、財政が上向いて回復するならまだ救いがあったと言えるだろう。残念ながらアレクシオス三世は兄以上に暗愚な暴君で、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ六世から朝貢を要求されると歴代の皇帝の墓を暴いて副葬品を悉く換金するという暴挙に出た。さらにイサキオス二世が財政再建のために交易の利害から優遇処置を与えていたヴェネツィア共和国との関係を冷え込ませ――ヴェネツィアの元首ドージェエンリコ・ダンドロがコンスタンティノポリス侵攻に賛同したのにはこの点もある――、却って敵対していた諸都市に対して優遇処置を与えることで外敵に肥やしを与え、さらにヴェネツィアという余計な敵を増やす結果になった。

「首尾よく亡命皇子を擁立して帝位に就けたのはいいけど、そもそも東ローマ帝国ってそんな感じで代々皇帝がお世辞にも有能とは言えなかったから、国力弱かったんだよね。恩賞の二十万マルクやら十字軍参加やら東西キリスト教の統合やら気前よく約束したはいいけど、実際に約束した恩賞を支払う能力が無かった」

 アレクシオス四世は報酬を提示し、第四次十字軍は依頼を果たした。その結果、帝国臣民にはそれまで以上の重税が課されたと言われている――即位したばかりなうえにもともと人心が与那国島と得撫島並みに離れていたアンゲロス王朝は、民衆に新たな税を課すだけの力が無かったという説もある。

「譬えおかしくないですか?」

「いいじゃん別に」 結衣の言葉に、そう返事をしておく。

「距離感だけは伝わるでしょ?」

「伝わりますけど」

「ならノープロ」 そう答えてから、アルカードは封を切った焼き菓子の半分を齧り取った。

 いずれにせよはっきりしているのは、アレクシオス四世は約束した恩賞を支払うことが出来なかったという事実だ――約束の金も出せず、十字軍に参戦する余裕も無く、東西の教会の統一もたがいの反目が原因で実現しなかった。

 結局翌一二〇四年、それも記録に残っている死去が一月二十八日であることからわずか半年で、アレクシオス四世は叔父アレクシオス三世の娘婿であるムルツフロスの計略に嵌まって父子ともども殺害され帝位を簒奪されている。

「ただし、このムルツフロスによる簒奪に義父であるアレクシオス三世はかかわってない――アレクシオス三世はコンスタンティノポリスを追われたあとルーム・セルジューク朝アナトリアの王カイホスローを頼って落ち延び、のちに今度はムルツフロスとは別の娘婿テオドロス・ラスカリスが建国した東ローマ帝国亡命政府のひとつラスカリス王朝ニカイア帝国へと亡命した。ところが、アレクシオス三世はなにを血迷ったのか皇帝テオドロス一世に帝位の禅譲を要求して彼と対立した――カイホスロー一世はのちにテオドロスと戦って戦死してるから、関係が決裂して逃げ出したわけじゃなくて最初から仕組んでたんだろうね。で、最終的には修道院に幽閉されてじきに死亡した」

 そして義理の伯父イサキオス二世と義理の従兄弟アレクシオス四世の両共同皇帝を殺害したムルツフロスはドゥカス王朝を開いて東ローマ帝国の皇帝に即位、アレクシオス五世を名乗ってアレクシオス四世が第四次十字軍を味方に引き入れる際に提示した条件の破棄を宣言した。

「それで東ローマ帝国と第四次十字軍は完全に決裂し、一二〇四年四月に第四次十字軍はコンスタンティノポリスに対して再度攻撃を開始した――当初は手間取ってたけど、コンスタンティノポリス内にはヴェネツィアからの居留民が大勢住んでてね。彼らが内応を始めたせいで、コンスタンティノポリスの防衛体制は完全に瓦解した。アレクシオス五世は逃亡したものの捕縛されて、失陥直前に皇帝に即位したコンスタンティノス・ラスカリスは弟テオドロスと一緒にニカイアに逃亡してる――彼らふたりが興したのが、のちにアレクシオス三世が転がり込んだラスカリス王朝ニカイア帝国だ」

 アレクシオス五世は逃亡後第四次十字軍によって捕縛され、コンスタンティノポリスのテオドシウス記念柱の頂上から突き落とされて殺害されている。

 指導者を失った東ローマ帝国側は抵抗を止めたものの、コンスタンティノポリス市内に突入した第四次十字軍は破壊と暴虐の限りを尽くした。

 コンスタンティノポリスの人々は聖職者や修道者、市民など身分や階級を問わず悉く暴行・殺戮を受け、一般人か聖職者かの別を問わずに女性は強姦され男性は殺された。市街はもちろん聖堂にいたるまでが略奪の対象となり、貴重な品々は奪われ動かせないものは破壊された。このときにコンスタンティノープル競馬場などの歴史的建造物も破壊されている。総主教座には軍属の娼婦が座り込み、卑猥な歌を喚き散らして彼らの信仰を徹底的に貶めた。

「まあ、ここらへんに関してはコンスタンティノポリスを脱出した東ローマ帝国の政治家ニケタス・コニアテスが『年代記(原題:Chronike Diegesis)』に記してるから、興味があったら読んでみるといい。こういう蛮行は同じキリスト教圏でありながら、十字軍が東ローマ帝国の信仰をキリスト教と見做してなかったことを示してると言えるだろうね」

 まあ異教に限らず、異端も含めてカトリックが他宗教をどんなふうに扱ってきたかは歴史が示してるけど――その言葉に、シスター天池が眉をひそめるのが気配でわかる。適当に首をすくめて、アルカードは先を続けた。

「で、第四次十字軍は報酬の代わりに国土を分捕った。目の前には王様のいなくなった国土が転がってるからってことで、自分たちの誰かが王様を名乗って国土を乗っ取ろうってことになったんだ。ここでまた王様選びに、政治的事情が絡んでくるんだけど」

「というと?」

「十字軍の指揮官ボニファーチョ一世は、ローマ王フィリップのほかにも欧州各国に縁故が多かった――さらにコンスタンティノポリス陥落後、共同皇帝のひとりイサキオス二世の妻だったマルギト未亡人を娶ってる。これは新しい皇帝選びの際に箔をつけるための政略結婚だったんだけど、皇帝が力をつけすぎるのを嫌ったヴェネツィアの意向で皇帝にはフランドル伯ボードワン九世が選出された。ここでボニファーチョとボードワンの間でまたひと悶着あったんだけど、それは割愛しよう。ボードワンはラテン帝国初代皇帝ボードワン一世を名乗って帝位に就き、この時期になると教皇イノケンティウスも東方正教会と西方教会――カトリックの統一を実現する思惑のために正式に祝福してる。今でも東方正教会が残ってることでわかるとは思うけど、その思惑は実現しなかった。ザラ攻略後に破門を解いてなければ、正式に破門を解いたのはおそらくこの時期だろうね」

 アレクシオス五世の処刑とコンスタンティノス・ラスカリスの逃亡によって東ローマ帝国は滅亡、現在はベルギー・オランダ・フランスによって分割されているフランドルの領主であった伯爵ボードワン九世が皇帝を名乗りラテン帝国の樹立を宣言した。

 十字軍参加者の破門を解いたイノケンティウス三世はあらためてイェルサレム攻略のための出征を呼び掛けたが、一度破門された恨みからか軍費不足でえらい目に遭って慎重になっていたのか、あるいは旧東ローマ帝国領各地に分散した旧帝国貴族たちの抵抗を抑え込むのに手いっぱいでそれどころではなかったのか、いずれにせよ実現はしていない。

 東ローマ帝国はラスカリス王朝ニカイア帝国をはじめとする抵抗を続けた貴族たちの築いた亡命政府の尽力の甲斐あって五十三年後に復興するものの、ラテン帝国時代から七十年にわたって続いたモンゴル帝国皇帝チンギス・ハーンによる征西遠征や百年以上にわたるオスマン帝国との戦争で国力を削られ続け、一四五三年ついに二度目の滅亡の憂き目を見ることになる。

「で、まあ盛大に話がそれたけど、つまるところハンガリーは第四次十字軍にザラを攻撃されたことで遺恨がある。イノケンティウスが破門を解いたことで、罰も与えられなかった。ボニファーチョが娶った後妻マルギトはハンガリー王ベーラ三世の娘だったから、のちの影響力を期待して一応ボニファーチョを支持したけど皇帝にはならなかった。のちに教皇が代替わりしてからハンガリー王アンドラーシュ二世は第五次十字軍に参画してるけど、じきにアンドラーシュは自国の軍を撤退させてる。教皇ホノリウスが破門をちらつかせてたから参加したけど、あまり真剣にやる気は無かったんだろうね。彼らの総意としては、」

「自分のところの領土を侵犯した様なイベントになんか、費用を自腹で用意してまで参加したくないと」 科白の最後を引き継いだ結衣の言葉に、アルカードはうなずいた。

「ということじゃないかな――当時のハンガリーはヴラド三世の異常性をことさらに誇張してプロパガンダをばら撒いてたから、口実としては利用しやすかっただろうと思う。こんな厄介なのとっ捕まえてるからうちは十字軍に参加出来もはんとか、そんな感じで」

 もはん?と首をかしげるシスター天池を視界の端に捉えながら、アルカードは適当に首をすくめた。

「プロパガンダ?」 という結衣の質問に、アルカードは当時を思い出しながら、

「ヴラド三世は捕虜を処刑して生き血を飲むとか、敵から味方から串刺し刑にしてそこらじゅうにバスバス晒すとか」

「ああ、トルコ語で串刺し公っていうらしいですけど、デマだったんですね」 という結衣の返事にアルカードはかぶりを振って、

「生き血は嘘だけど串刺し死体のほうは本当だよ。トゥルゴヴィシュテに帝国兵の串刺し死体が飾ってあった話、したでしょ?」 その返事に、結衣があからさまに嫌そうな声を出す。

 ついでに言うと、生き血のほうも本当になりました――それは口には出さずに胸中でだけつぶやいて、アルカードは先を続けた。

「おかげでその串刺し死体を喰って野生の羆が人肉の味を覚えてさぁ、人里に近いところまで出てくるもんだから獣害事件が多くて大変だった」

「まるで見てきた様におっしゃるんですのね」 シスター天池の言葉に、アルカードはテーブルに頬杖を突いて彼女に視線を向けた。明るいところでじっくりと眺めると、瑞々しい美貌を彩る目元の泣き黒子が実になまめかしい。そんな感想をいだきつつ、

「見てきましたから」 眼を見開くシスター天池に、アルカードはぱたぱたと適当に手を振った。

「そう言ったら、信じますか?」

 もう、と溜め息をつくシスター天池に適当に肩をすくめて、アルカードは焼き菓子の残り半分を口に入れた。

 そして三度目のドラキュラ政権擁立――フニャディ・マーチャーシュはヴラド三世の軟禁を解くと同時に、一足早く拘禁を解いて訓練を施したグリゴラシュ・ドラゴスを密偵としてワラキアに送り込んだ。

 当時のワラキアの封建貴族ボイェリたちは第二次ドラキュラ政権崩壊の際にヴラド三世に反旗を翻した者たちも含めて帝国臣民でなければ人にあらじとでも言いたげなオスマン帝国兵の専横とそれを放置するワラキア公ラドゥに強い不満をいだいており、結果内情調査と封建貴族ボイェリの煽動を任務として与えられたグリゴラシュは彼らを焚きつけて内部蜂起への参加もしくは補給品供出を確約させることに成功した。

 当時のオスマン帝国の皇帝スルタンメフメト二世の支援を受けた美男公ラドゥを追い落として専横を極めるオスマン帝国に対抗するため、グリゴラシュの父アドリアンをはじめとするワラキア公国の封建貴族ボイェリたちはハンガリー王国の支援を受けたヴラド三世と共謀して反旗を翻すこととなる。

 思えば、それがアルカードの――ヴィルトール・ドラゴスの転機であったと言えるだろう。

 ムスリム教圏への徹底抗戦を掲げた串刺し公ヴラド三世の戦いは一四七〇年代後半、シュテファン三世の謀略によるものかあるいは戦死か、それははっきりしないものの彼の死亡によって幕を閉じることとなるのだが――

 ……か。

 自分の言葉を胸の内で反芻して、アルカードは口元をゆがめた。

 まあ確かに、死亡扱いにはなってるがな――

 缶入りのお茶菓子が半分ほど無くなり、コップの中身を飲み乾したところで、シスター天池が席を立つ。

「先生、高村さん。わたしはそろそろ宿舎に戻りますけど、ふたりとも一緒に車で戻られますか?」

「あ、もしよかったらお世話になります」

 と、結衣が返事をする。アルカードはそれを横目で見ながらかぶりを振った。

「せっかくですが、もう少し見て回りたいので――お気持ちだけ戴いておきます」 アルカードがそう答えると、シスター天池はそうですかと短く返事をした。みっつのコップを手に立ち上がると、それを流し台のほうに運んでいく。

「おーい、こっちこっち」

 コップを水洗いするじゃばじゃばという音を聞きながら、結衣の足元にうずくまっているどんべえの前にかがみこむ――背中側に廻り込む様にして隠れてしまったどんべえに、アルカードは苦笑して立ち上がった。

「人参一本じゃ駄目かな」

「ごめんなさい、普段はもっと人懐っこい仔なんですけど……」

 戸惑い気味の結衣にアルカードは苦笑を向けて、

「厭な臭いでもするのかもね。あ、さっきマトリョーシカに触ったからそれでかも――さっき人参をやったときに寄ってきたのは、お腹が空いてただけなのかな」

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