In the Flames of the Purgatory 70

「あ、はい。子供のころに行ったことがあります――ブカレストと、キンディア塔のあるところとか、ほかにも何ヶ所か見て回りました」

「キンディア塔? ――ああ、トゥルゴヴィシュテに行ったのか」 声にわずかな皮肉を込めて、アルカードはそう返事をした。

 キンディア塔は一四〇〇年代後半、ちょうどワラキア公ヴラド・ドラキュラの時代に建設された塔だ――トゥルゴヴィシュテは一三九六年に宮殿が建設されて以降、ワラキアのヴォイヴォダの大半がその居住地としてきた。

 ついでに言うとルーマニア社会主義政権の大統領ニコライ・チャウシェスクとその妻が銃殺された地でもあるのだが、まあそれは割愛しよう。

 トゥルゴヴィシュテの宮殿は平城ひらじろ、つまり平地に築かれた要衝で、現在は破壊されて廃墟だけが残っている――キンディア塔はトゥルゴヴィシュテの宮殿の敷地内に建設された物見塔ウォッチ・タワーで、当時は防衛面で鉄壁とは言えないトゥルゴヴィシュテの宮殿の防御面の隙を補うための見張り台として運用されていた。

 破壊された宮殿とは対照的に現存しており、現在は周辺の教会やワラキア公の宮殿跡とともに歴史博物館になっていると聞いている。

「まだルーマニアが統合される前は、首都だったんだって聞きましたけど」 結衣の言葉に、アルカードはうなずいた。トゥルゴヴィシュテはヴラド・ドラキュラ統治下において、ワラキア公国の当時の首都だった――そして当時オスマン帝国の皇帝だったメフメト二世がワラキア公の宮殿に攻め込んだときに、森のごとく乱立する帝国兵の串刺し死体で以て彼を出迎えた場所でもある。

「ドラキュラ城と一緒で、ドラキュラ伯爵の居住地だったんですよね」

「ドラキュラ城? ああ、ブラン城のことか」

「はい、そこも行ったことがあります」 という結衣の返事に、ちょっと眉根を寄せる――トランシルヴァニア公国、現ルーマニア西部トランシルヴァニア地方にあるブラン城は、日本では観光業者によってドラキュラ城などと呼ばれている。

 呼ばれているのだが、実はブラン城とドラキュラ公爵は史実においてほとんど接点が無い。ドラキュラ公爵存命時、ブラン城のあるトランシルヴァニア公国とヴラド三世が親族と覇権を争っていたワラキア公国は別の国であったからだ――公爵自身はなにかの理由でヴォイヴォダの位から追われたときに何度かトランシルヴァニアを領有するハンガリー王国を頼って彼の地に落ち延びていたから、短期間滞在したことはあるかもしれない。

 あとはブラン城の領有権が、当時のハンガリー王ジギスムントの意向でヴラド三世の祖父に当たる老公ミルチャに譲渡されていた時期があることくらいか――これに関しては父ヴラド二世の亡命先であるトランシルヴァニアのシギショアラでヴラド三世が生まれるよりも前に管理権がジギスムントに返還され、トランシルヴァニア公に委譲されているので、特筆するほどのゆかりとは言えまい。ああ、そういえばドラキュラ公爵がハンガリー国王フニャディ・マーチャーシュの支援を受けて三度ワラキア公国に進攻、実弟である美男公ラドゥを追い落としたとき、ブラン城で進発準備を整えているという様な話をグリゴラシュから聞いたことがある気がする。

 ブラン城がドラキュラと結びつけられたのは実在する人物ワラキア公ヴラド・ツェペシュではなく、ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ(原題:Dracula)』に登場する吸血鬼ドラキュラ伯爵のイメージによるところが大きい――本当かどうかは知らないが、くだんの小説の作者ブラム・ストーカーがドラキュラ城をモデルにしたと言われているからだ。

 言われているが十九世紀の終わり際に出版された『吸血鬼ドラキュラ』がわざわざ現地まで取材旅行に行って書かれたとも思えないから、モデルというほどに大層なものでもないだろう――ただブラム・ストーカーは吸血鬼ドラキュラの執筆にあたって非常に綿密な下調べをしたという話も聞く。無論一八九〇年代の綿密な下調べなので、それなりではあるだろう――もしかしたら、取材旅行に行っているかもしれないけれど。

「あ、じゃあブラン城とは直接関係無いんですか」

「うん――せいぜい一時期滞在したくらいだと思うよ」

 その返事に、結衣はちょっと考えて、

「じゃあ、トゥルゴヴィシュテのほうは?」

「そっちは間違い無く、実在した人物ヴラド・ドラキュラの居住地だった」

 アルカードはそう返事をしてからぴっと指を立てて、

「つまりワラキア公国のヴォイヴォダ、ヴラド三世のってことだね」

「ぼいぼだ?」 意味がわからないらしい少女に、

ヴォイヴォダ、スラヴ語圏の言葉で民兵パルチザンを意味するヴォイと、主導するリードを意味するヴォディというふたつの単語を組み合わせた言葉だ」

 アルカードはそう返事をして首をかしげてから、

「もともとは軍閥指揮官ウォーロードっていう意味なんだけど、日本語に直すと地方領主くらいの意味になるかな。単語としての意味合いの変化から、英語に翻訳するときは公爵とか聖騎士パラディンとして訳されることがある――余談だけれど、ヴラド三世の父親ヴラド二世は神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントが設立した竜騎士団Societas Draconistrarumに所属する二十一人の騎士のひとりだった」 パラディンではないけどね――そう付け加えてから、アルカードは右手の人差し指を立てて軽く振りながら、

「ヴラド二世にはドラクルという二つ名がある――吸血鬼ものの創作なんかで男性の吸血鬼をドラクル、女性の吸血鬼をドラキュリーナと呼ぶことがあるけど、これは正しくない。もちろん創作に文句を言っても仕方が無いんだけど、ドラクルの異称は竜騎士団の名称『ドラコ』にちなんだもので、日本語に直すと竜公といった意味合いになる。ヴラド三世は父親の異称から竜の子、小竜公とか竜子公といった意味合いでドラキュラと呼ばれる様になった――といっても、ワラキア公国のヴォイヴォダとして実際に在位した期間はそれほど長くないんだけど」

「あ、観光ガイドさんに教えてもらいました。三回即位したんですよね」 という少女の返答に、アルカードはうなずいた。

「うん――その三回を全部トータルしても、十年無いんだけどね」

 三度にわたってワラキア公の座に就いたドラキュラ公爵が実際に在位した期間は一度目は二ヶ月、ハンガリーの有力貴族でもありトランシルヴァニア公だったフニャディ・ヤーノシュの支援を受けてワラキア公に返り咲いたときは一四五六年から一四六二年まで。オスマン帝国の支援を受けた弟の美男公ラドゥに追い落とされたあとは、ハンガリー王フニャディ・マーチャーシュの支援を受けて十二年ののちに三度復権し、このときは一年そこそこで死亡している。

「又従兄弟のヴラディスラフ・ダネスティとか実弟のラドゥと、権力争いしてたんだよ。まあ実態は、権力争いにかこつけたオスマン帝国とハンガリー王国の代理戦争だったんだけど」

「あ、ガイドさんもそんな話をしてくれました――でも、もうよく覚えてないんです。小さいころの話でしたし」

 という少女の返事に、アルカードはうなずいた。

 当時、ルーマニアという国は存在しなかった――当時のルーマニアは北東のモルダヴィアと北西のトランシルヴァニア、南のワラキアのみっつの公国に分かれており、ヴィルトール・ドラゴスの生まれ故郷であるワラキアは常に西のハンガリーと当時東方から進出してきたオスマン帝国による侵略の脅威に曝されてきた。

 東方といっても、実際に国境線を接していたのは南側だが――ワラキアは南側国境線をオスマン帝国、北西側をハンガリー領トランシルヴァニア、北東をモルダヴィアに接しており、黒海に直接面してはいない。

 現在のトルコとブルガリア、ボスニアなどバルカン半島を当時の支配地域コントロール・エリアとしていたオスマン帝国はワラキアから見て南東に位置しており、ワラキア南部とハンガリーに国境線を接していた。

 このためハンガリー王国とオスマン帝国はいずれも――ハンガリー王国は主に自国の安全保障を守るために、オスマン帝国はハンガリー王国に侵攻した際に側面や後背を攻撃されない様に、それぞれワラキア公国に自国の息のかかった君主を擁立しようとしていた。

 そのため当時のワラキア公の擁立はオスマン帝国とハンガリー王国による代理戦争の意味合いが強く、実際アルカードが直接知るワラキア公ヴラド三世と美男公ラドゥはいずれも外国からのバックアップを受けている。

「単に干渉を受けてるだけだと言ってもいいけどね――バックアップを受けるってことは、つまりその後ろ盾の意向に逆らえないってことだから」 アルカードはそう言ってから指を三本立てて、

「当時のルーマニアはトランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキアの三つの公国に分かれててね――トランシルヴァニアはハンガリー王国の属国で、戦上手で知られるハンガリーの王国貴族、フニャディ家のヤーノシュがヴォイヴォダだった。軍事だけでなく政事にも優れて、のちに国王不在になるハンガリーを動かすための最高評議会、レルムの指導者の七人の構成員のひとりにも選ばれた人物だ。最終的には国王が復権するまでの間の摂政も務めて、一族からハンガリー王も輩出した大貴族だよ」

 指を一本折りたたんで、先を続ける。

「モルダヴィアは当時は独立してた――公爵家は娘がヴラド二世の後妻に娶られたりして、ヴラド三世の一族とはつながりが深い。ワラキアとオスマン帝国と国境線を接してたけど、カトリック教圏侵攻に戦術的な利点が無いからか当時はオスマン帝国から積極的な侵攻は受けてなかった」 指をさらにもう一本折りたたみ、

「ワラキアは――まあ当時からオスマン帝国とハンガリーにちょっかいをかけられてたね。ワラキアのヴォイヴォダ封建貴族ボイェリと呼ばれる大土地所有者による選挙制に近い制度で選出されてたんだ。血縁による世襲制だったけど、長子相続制――つまり日本の天皇家の様な継承順位の考え方は無くて、公爵家の血縁であれば誰でも公爵になることが出来た。終身在位制も確立されてなかったから、公爵が数年で交代したり、同じ人物が何度も即位したこともある」

「それってつまり、自分の息のかかった候補者を公爵として擁立することで傀儡政権化しやすいってことですか」

「そのとおり」 アルカードはうなずいて、隣を歩く結衣の胸元に抱かれたどんべえの鼻先に指先を差し出した。見向きもしないどんべえに首をすくめ、

「そういうこと――後ろ楯を得てヴォイヴォダになる、つまりその後ろ盾の操り人形になるってことだね。公爵位の継承順位が設定されてないから、そうならざるを得なかった」

 もちろん、その後ろ楯は国内の大貴族のみならず、海外勢力であることもある――この時期においては、むしろ後者のほうが多かったと言える。

「オスマン帝国はバルカン半島を突破してカトリック教圏に侵攻するための兵站線M S Rを確保する目的でワラキアを必要としてた――対するハンガリー王国は、当然侵攻されたくない。ハンガリー王国とオスマン帝国の境界線はたがいの国境がじかに接している部分が四割、ワラキアが挟まっている部分が四割、すでにオスマン帝国の属国となってるボスニアが二割というところかな――ワラキアの統治者がハンガリーに対して友好的な政権を築いていれば、オスマン帝国がハンガリー領に直接攻め込んだときに邪魔される。逆もまたしかり――ハンガリー側がオスマン帝国に攻め込んだときには、ボスニアがその役割を果たすだろう。だからオスマン帝国とハンガリーは、たがいにワラキアを押さえておきたかった」

「MSR?」 そう聞き返されて、アルカードは自分が兵站線という単語をMSRと略していたことに気づいた。

「ああ、ごめん。主要補給経路メイン・サプライ・ルートの略称だよ。輜重部隊の通行経路、つまり物資とかの補給線だね。英語圏の軍事用語だ」

「さっき、ヴラド三世は三回公爵位に即位したとおっしゃいましたね」 シスター天池の言葉に、アルカードはうなずいた。

「ええ。ヴラド三世がワラキアのヴォイヴォダの座に就いたのは三度――最初はオスマン帝国の皇帝メフメト二世の傀儡として、ハンガリー側が擁したワラキア公はヴラド三世の又従兄弟、ダネスティ家のヴラディスラフ」

 オスマン帝国の支援を受けたヴラド三世はヴラディスラフをヴォイヴォダの地位から追い落とすことには成功するものの、彼の命を取ることは出来なかった――結果ヴラディスラフはトランシルヴァニアへと逃げ延び、ハンガリーの大貴族フニャディ・ヤーノシュの支援を受けて舞い戻った。ヴラディスラフの擁するハンガリー軍に押し負けて、ヴラド三世はヴォイヴォダの地位を失うことになる。

「ヴラディスラフに敗れたヴラド三世はオスマン帝国には戻らずに、モルダヴィアのヴォイヴォダボグダン二世を頼って落ち延びました。ボグダン公は先代のヴォイヴォダアレクサンドル善良公の息子で、ヴラド三世の父親ヴラド二世の後妻は善良公の娘ヴァシリッサ。彼女はヴラド三世と弟のラドゥを産んでいる――つまりヴラド三世にとっては母方のおじにあたる人物です」

 一四五一年にボグダン二世が暗殺により死亡すると、ヴラド三世は今度はハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュを頼ってトランシルヴァニアへと落ち延びた。

「受け入れてもらえたんですか? そもそもそのヤーノシュって人は、ええと、ヴラディスラフって人を支持してたんですよね?」

 結衣の疑問はもっともだと言えるだろう――そもそもヴラド三世はフニャディ・ヤーノシュの擁するヴラディスラフと対立していたのだ。

「当時のワラキアのヴォイヴォダは、フニャディ・ヤーノシュが擁するヴラディスラフ・ダネスティだった――そう、君が言った通りだよ。でもヴラディスラフはハンガリーの保護国下から脱して、独立を宣言しようと目論んでたんだ。ヤーノシュからすればオスマン帝国にワラキアを取られるのはまずいし、ハンガリーにとってのワラキアの利用価値を考えれば独立もさせたくない。国力の落ちたワラキアを独立させても、オスマン帝国に押し潰されてるのが目に見えてるからね――おまけに当時のハンガリーは国王が不在の状態でね。ワラキアを手元に置いておけば、ハンガリー側へ侵入してきたオスマン帝国軍の兵站線を断つことが出来るし、逆もまた同様――オスマン帝国軍がハンガリーとワラキアに同時に侵攻してきたとしたら、兵力の分散によって撃破は容易くなる。いずれにせよ、手元に置いておいて悪いことにはならない。だからヤーノシュは、ヴラディスラフを排除したあとで自分の傀儡に出来る新しいヴォイヴォダが必要だった」

「つまり、ハンガリーにとっては気に入らない傀儡の首を挿げ替えたかったから、新しい首がほしかったっていうことですか」

「そういうこと」

 かくしてヴラド三世はハンガリーの支援を受けてヴラディスラフを排除し、ふたたびワラキアのヴォイヴォダへと返り咲いた。

 復権したヴラド三世はワラキア国領内の大貴族を打倒して兵権を掌握、中央集権化を進めてヴォイヴォダの直轄軍を編成し、同時にオスマン帝国の朝貢の要求を拒否した。

 さらに督促のために派遣された使者を串刺し刑にしたことを契機にオスマン帝国との対立が表面化し始め、オスマン帝国の皇帝メフメト二世は何度かワラキアに侵攻する。

 オスマン帝国軍の侵攻に対してヴラド三世率いるワラキア軍は神出鬼没のゲリラ戦術を駆使して抵抗し、一四六二年にはトゥルゴヴィシュテ近郊まで進出してきたメフメト二世の首級を狙って夜襲を仕掛けている。

「トゥルゴヴィシュテの夜戦ですか。ガイドさんが話してくれた覚えがあります」

「そう――でもオスマン帝国の常備歩兵軍イェニチェリ軍団の激烈な抵抗に遭って、ヴラド三世はメフメト二世の首を取り損ねたまま撤退した」

 主が逃げて空になったトゥルゴヴィシュテの宮殿に入ったメフメト二世が目にしたのは、林のごとく乱立する串刺しにされたオスマン帝国兵の屍であったという――それを見て戦意を喪失したメフメト二世はイスタンブールへと撤退し、ヴラド三世はぎりぎりのところでワラキアの防衛に成功した。

「でもメフメト二世はあきらめてたわけじゃなくてね――次に彼が立てた策は、ワラキアの内紛誘発だった。それでなくても拙速な中央集権化を行ったヴラド三世のやり方に、不満をいだく者たちも多かったからね。オスマン帝国はワラキア国内の封建貴族ボイェリたちの離間工作を図り、クーデターを起こさせてヴラド三世の追い落としに成功――ヴラド三世の弟にあたる美男公ラドゥ三世を送り込んで、彼をワラキアのヴォイヴォダに据えることで親オスマン派の傀儡政権を樹立した」

 追い落とされたヴラド三世は家族や彼のもとに差し出されていた宿将ドラゴス家のアドリアンの嫡子グリゴラシュなど、一部の者だけを連れてトランシルヴァニアへと落ち延びた――そしてハンガリー国王の座に就いたフニャディ・ヤーノシュの子マーチャーシュによって、オスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられることになる。

「もちろん、これは完全な言いがかりだった。なにしろ、そのオスマン帝国に追い落とされて逃げ込んだんだからね」

「じゃあ、ハンガリーはワラキアに傀儡政権を立てるのをあきらめたってことですか?」

 結衣の質問に、アルカードはうなずいた。

「当時のハンガリーはマーチャーシュが即位した直後でね、国内が安定してなかったし軍備も不十分だった。ハンガリーはカトリック教圏の大国だったけど、その時点でオスマン帝国と正面から対立するのは避けたかったんだ。だからラドゥを傀儡にオスマン帝国に乗っ取られたワラキアに介入せずに放置してた――オスマン側もカトリック教圏の反応を窺うために、積極的な領土拡大侵攻を一時期控えてたから」

「でもそれってつまり、ハンガリーとオスマン帝国の国境線は無防備だってことですよね?」

「まあ、安全保障のためにワラキアを利用する様な真似は出来なくなったね――ところで、さっき話したボグダン二世のことを覚えてる?」

「ええと、ヴラド三世の母方のおじさんでしたっけ? 暗殺されたって」

「そう。そのボグダン二世を殺したのはペトル三世、彼の異母兄弟にあたる人物だ――つまりヴラド三世にとっては、やはり母方の親族にあたる。ボグダンの子はシュテファン三世、のちのシュテファン大公だ」

 ペトル三世はボグダン二世の息子シュテファン三世の結婚式の場で彼を殺して公位を奪い、オスマン帝国への臣従と朝貢を宣言した。シュテファン三世は一緒に逃げていたヴラド三世と途中で別れ、別々に行動していたものの、最終的にはトランシルヴァニア公フニャディ・マーチャーシュを頼ってトランシルヴァニアに落ち延びた。

 シュテファン三世はフニャディ・ヤーノシュのバックアップと従兄弟ヴラド三世の協力を得てモルダヴィアに侵攻、ペトル三世を追い落としてポーランド方面へと追放することに成功した。一四五七年のことだ。

「つまりこの時点で、すでにモルダヴィアはフニャディ家との間で安全保障上の相互支援関係が成立してたんだ――ラドゥに追い落とされたヴラド三世がトランシルヴァニアに落ち延びたころにはヤーノシュはすでに亡くなってたんだけど、ハンガリー王に即位したマーチャーシュとシュテファン三世の間でオスマン帝国軍が侵攻してきたらモルダヴィアが軍を発して側面もしくは後背から攻撃、補給線を切断する密約を交わしてた節がある。トランシルヴァニアとモルダヴィアは国境を接してるし、軍事上の安全保障条約を締結して通行も自由だったから、国境近くに兵を置いておけばいつでもワラキアからの後詰を抑えられるし――侵攻開始からモルダヴィアが行動を起こすまでの間の時間が長いぶん、侵入してきた敵部隊を奥へ引き込んで攻撃をかけやすかったしね」

 当時のハンガリー国王マーチャーシュ一世は黒軍Fekete sereg――重騎兵と軽騎兵、砲兵と歩兵からなる数万人規模の直轄軍隊を構成する構想を練っていた。

 徴兵で集めた士気も能力も低い弱兵で数をそろえるより練度の高い志願兵の職業軍人や傭兵で少数精鋭の強力な軍隊を作ろうとした父ヤーノシュの構想を発展させたものだったが、即位直後で政情不安定であったこともあってマーチャーシュは時間がほしかったのだ。だからオスマン帝国との表だった対立を避けるために、トランシルヴァニアに落ち延びたヴラド三世を捕らえて幽閉した。

「つまり、ヴラド三世を追い落としてしばらくはハンガリー側は対立候補を立てなかった?」

 シスター天池の口にした疑問に、アルカードはうなずいた。

「そうです。仮にトランシルヴァニアにワラキア経由で侵攻してきても、トランシルヴァニアと国境線を接するモルダヴィアに軍を発してもらうか、もしくは国境付近に待機するハンガリー軍、あるいはそれらの混成部隊で側面を突けると考えてたんでしょう――現代と違って空中投下による補給が出来ない以上、兵站線を断たれた軍隊は容易に孤立します」

「つまり――」

 シスター天池が言葉をはさんでくる。彼女は指をそろえて伸ばした両手で丁の字を作りながら、

「トランシルヴァニアがオスマン帝国に攻め込まれたときに、側面もしくは後方から攻撃出来る様にということですか?」

「シスターは聡明でいらっしゃる」 アルカードは我が意を得たとばかりにうなずいて、

「その通り。輜重部隊のまとまった量の軍需物資を失えば、物量に任せた大部隊は自滅するだけです。ワラキアの傀儡政権を確保しておきたかったのもそのため――それが出来る状況だったから、ハンガリーはワラキアが奪われてもまだ静観していられたんです」

「補給線が断たれるって、そんなにまずいんですか」 という結衣の質問に、アルカードはその場で足を止めて彼女に視線を向けた。胸元に兎を抱いて歩いていた少女が、アルカードの形相を目にして表情を引き攣らせる。

 たぶん風邪でもひいたみたいにガタガタ震えて、顔も土気色になっているだろう――歯の根が合わなくなって膝が笑い、視界も細かく揺れている。

「怖いよ~、敵の支配地域コントロール・エリア内で補給が途絶えて孤立するって滅茶苦茶怖いよ」

「ええと……ごめんなさい?」

「否、いいんだけどね。話を戻そうか――状況が変わったのは十数年後。モルダヴィア公国の首都ヤシが、ジェノヴァの画策によってタタールの侵攻を受けたことが原因だ」

 ハンガリーとモルダヴィアは時折争いながらも、基本的にはオスマン帝国という共通の敵を相手に協調路線をとっていた。一四六八年には父ボグダンを暗殺したペトル三世を捕らえて処刑、安全保障上の防衛線とすることを目論んでラドゥを追い落とすことを企てる。

「ところが、ここで周りからちょっかいが入る――黒海沿岸に多くの植民都市を保有していたジェノヴァがシュテファンの勢力が自分たちの支配地域まで及ぶのを恐れて、タタール人をけしかけてモルダヴィアに侵攻させたんだよね」

 かくて、ハンガリー王国の安全保障上の脅威は再び肥大することとなる。

 ワラキアのヴォイヴォダ色小姓ラドゥ――すなわちハンガリーはワラキアを失い、トランシルヴァニアと国境線を接するモルダヴィアもハンガリーのために協力するどころではなくなった。つまりオスマン帝国軍の進軍に対して、兵站線を断絶する手段を失ったのだ。

「つまり、オスマン帝国のトランシルヴァニア侵攻に対して対応する手段が無くなったんですよね。モルダヴィア・ワラキア両国を進軍経路に、オスマン帝国軍が侵攻してくる可能性が現実のものになってきた。最低限ワラキアをって帝国軍の侵攻経路を限定すると同時に、侵攻が始まったら側面を突ける状況を作っておきたかったんですよ――兵站線を分断して輜重部隊を撃滅し補給を断絶すれば、たとえどれだけの大軍であっても、否大軍だからこそわずかな手持ちの補給物資を喰い潰して飢えるのは早い。オスマン帝国軍が侵攻を躊躇すればそれで御の字、そうならなくても軍を二手に分ければそれだけで撃破は容易くなる」

 そこで利用価値が出てくるのが、ワラキア公爵家の血を引くヴラド三世だ――先述したとおり、ワラキアのヴォイヴォダは公爵家の人間であれば誰でも就くことが出来る。そのためヴォイヴォダは後ろ楯の影響を受けやすく、また政策がころころ変わって一貫性に欠けるために国力も弱かった――ラドゥを撃破してヴラド三世をワラキア公に据え、ハンガリーの支援のもとで国力を回復し、またハンガリー軍を駐屯させることでオスマン帝国軍の侵攻に対する安全保障上の抑止力にする――フニャディ・マーチャーシュはそう考えたのだ。

「そこでマーチャーシュは軟禁中に投身自殺したヴラド三世の妻の代わりに自分の妹マリアを娶らせ、カトリックに改宗することを条件に、釈放と兵站支援を約束した――同時にワラキアに密偵を送り込んでラドゥ政権に不満をいだく封建貴族ボイェリを焚きつけ、ヴラド三世の侵攻に合わせて内応させる策を立て、最終的にワラキアを奪還することに成功したんだ」

 聖堂からロビーに通じる扉をくぐったところで、シスター天池が聖堂の扉をそっと閉めた。蝶番のきしむかすかな音が聞こえてくる。

 アルカードはそこで足を止め、扉を閉めてから追いついてきたシスター天池に向き直った。ちょうど話も一区切りしたので、

「では、僕はそろそろおいとまします。お仕事の邪魔をして申し訳ありません」 そう言って一礼する。

「いえ、こちらこそお引き留めしてしまって」

 丁寧に一礼するシスター天池と、どんべえを抱いたまま会釈してくる結衣――どんべえはもうこちらには興味が無いのか、結衣の首元に鼻を近づけている。アルカードは胸元の兎から視線をはずして結衣に視線を向け、

「長話につきあわせてすまなかったね」

「いえ、面白かったです。歴史の授業でもうすぐ習うところでしたから、参考になりました。ありがとうございました」

「ならよかった」 そう言ってから、アルカードは聖堂の玄関の扉を開けた。途端、むわっとした熱気が冷房の利いたロビー内に入り込んでくる。

「……」

「……」

「……」

 三者の気まずい沈黙が、その場を静寂で包み込む。

「よかったら、冷たい麦茶でも飲んでいかれませんか?」

 ぎらぎらと照りつける太陽を見上げて溶けかけた雪だるまみたいな顔をしているアルカードに、シスター天池が声をかけてきた。

「……ええ、ご馳走になります」

 アルカードはその申し出にうなずいて、再び扉を閉めた。

 シスター天池に招じ入れられるままに、聖堂内の一室に足を踏み入れる――修道士の控室かなにかなのか、冷蔵庫と流し台、IHクッキングヒーターに飾り気の無い長机がある。どうやらここでお茶を飲んだりするらしい。

 冬に使うものなのか、薪ストーブが置いてあった――鋳物で作られた、放熱効率の高いものだ。

 シスター天池はアルカードと結衣に椅子を薦めると、自分は冷蔵庫を開けて硝子製のポットを取り出した。冷凍庫から取り出した硝子のコップに製氷皿から取り出した氷を入れ、そこに麦茶を注いでいく。氷と麦茶の温度差で氷に亀裂の走る、ぱきぱきという音が聞こえてきた。

 長机の向かいに座っていた結衣が麦茶のコップを受け取って、こちらに向かって差し出してくれた。

 礼を言って受け取ったときには、シスター天池も着席している。

「薪ストーブが珍しいんですか?」 結衣にそう声をかけられて、アルカードはうなずいた。

「まあ、本州じゃあまり見ないよ」

「先生はどちらから?」

 シスター天池に声をかけられて、アルカードはそちらに視線を転じた。

「普段は東京にいまして」 と、そこで話を打ち切っておく――アルカードは一応名前だけの偽装とはいえ、英語の講師としてここに来ているのだ。下手に手掛かりを与えて実はレストランの店員でしたなどという事実にたどり着かれても困る。

「東京でも英語の先生なんですか?」 結局喰いつかれて、アルカードは胸中でだけ溜め息をついた。

「ほかの仕事の片手間程度にだけどね」

 これは嘘ではない――本業はレストランの店員だし、両親に頼まれて片手間に凛と蘭に英語を教えようとしたことはある。もっとも、相手が幼すぎて無駄な努力だったが。

「じゃあ、普段は?」 話が続いてしまったので、アルカードは再び胸中でだけ嘆息した。

「普段は飲食がらみの翻訳かな――日本食のメニューを外国人向けに数ヶ国語で翻訳したものを作ったり、逆に外国から日本に来た料理人の個人店のメニューを日本語訳にしたり」 これも嘘ではない――警察に勤める中村の親戚の蕎麦屋の親父に頼まれて六ヶ国語で表記したメニューを作ったこともあるし、老夫婦の店のメニューをレイアウトよく作り直す作業もしたことがある。どちらも一度きりだが。

 結衣が返事をしてきてそれで会話が終わったことにほっとしながら、アルカードは麦茶に口をつけてから結衣のほうに視線を向けた。

 柔らかい色合いの栗色の髪を背中まで伸ばして、ポニーテールの様に一括りにして赤いシュシュで留めている。染髪は禁止されているし髪全体が均一な色合いだから、天然のものなのだろう。

 休日だからだろう、赤いパーカーに青いTシャツ、チェック柄のミニスカートという私服姿で、いずれも柔らかい色遣いがおっとりした雰囲気によく似合っていた。

 彼女が片手で抱いたどんべえが、下に降りたがってじたばたと暴れている。結衣は一度どんべえを抱き寄せて首のあたりに顔を近づけ、軽くキスをしてから床に降ろしてやった。

 指先を床に近づけてちょいちょい動かしてやっても、どんべえは見向きもしてくれない。苦笑して体を起こし、アルカードは小さく溜め息をついた。それを見ながらくすくす笑っているシスター天池と結衣の視線に気づいて、咳払いをして椅子に座り直す。

「小動物がお好きですか?」

「ええ」 うなずいておいてから、アルカードは長机の上に両腕を載せた。

 しばらく兎の飼い方について他愛も無い話をしつつ、その一方でふたりの様子を観察する。倒れた女生徒の名簿に、高村結衣の名前は無かった――ただ、だからと言ってなにかおかしな術式を仕込まれていないとは言い切れない。

 昏睡状態になった生徒たちに仕込まれた術式は、その術式が脳に書き込まれる過程で生徒たちを昏睡状態に陥れた――起動準備が整って待機状態になるまでの間、脳がその処理だけで手いっぱいになるからだ。そこまで大層な術式でなければ、昏睡状態を起こさないままでも仕込むことは出来る。

 生徒たちが昏睡状態に陥ったのは、脳に書き込まれた術式が起動準備を整える際に脳に過負荷がかかるからだ。

 中枢演算処理装置、CPUの動作周波数や処理能力、メモリ容量などの性能が高いパソコンでは大容量の情報処理も快適にこなせる半面、性能の低いパソコンではすぐにビジー状態に陥るのと同じだ――入力された術式プログラムの処理で脳が手いっぱいになっているから、ほかの処理が出来なくなって意識を失う。

 逆に言えば、脳の処理能力が高くて過負荷が――

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